蝶を喰らう
兎紙きりえ
第1話
夕暮れに、いつかの日の記憶を思い出していた。
今でも目に焼き付いている、彼女の姿を。
その日はたしか、九月の終わりの頃だった。
窓から覗いた街路樹も、ぐるりと校庭を取り囲む木もとっくに紅葉を迎え、火の海のように赤赤と綺麗な放課後だった。
茜色に染まった校庭を見下ろしながら彼女は蝶を喰らっていた。
窓の銀枠に停まった蝶の翅を優しく掴んで、口に運ぶ。
橙に黒の斑紋の美しい蝶が、その柔らかそうな唇の奥に消えていった後、ほんの少し彼女の口元が動いた。
ぷちっ。そんな音でも聞こえてきそうなくらい容易く噛み潰したのが見て取れたのだ。
何度か彼女の唇の形が変わり、そのうちに口端から飛び出して蠢いていた節のような肢がぱたりと動きを止めた。
ぽろぽろと翅や肢、蝶であった残骸が床に零れて散らばっていく。
その姿はグロテスクで、けれどもどこか幻想的で、『特別』って感じがした。
咀嚼し、嚥下する姿はとても同い年の少女とは思えない妖艶さで
彼女が蝶を喰らう、その美しい光景に見惚れていた。
「美味しいの?それ?」
たまらず声をかけたのを覚えている。
いつも教室で見ていた彼女が、どこか遠い存在になってしまったのかと焦ったのだ。
「楽しいよ」
口端から垂れた変な色の液体を拭いながら、
彼女はにへらと笑って答えた。
「美味しくは……ないね」
とも。
苦虫を噛み潰したような、(実際噛み潰してはいるんだけど)顔をするから余計に分からない。
「なのに食べてるんだ」
僕はといえば、確か、そんな言葉を返していた気がする。
呆気にとられていたのだ。
彼女の言葉は何一つだって理解できる気がしなかった。
わざわざ噛み潰すのも、きれいな羽が粉々に砕けては、
腹に内に詰まっていた内臓のドロドロと混ざり合わせるのも理解できなかった。
「なんで蝶を食べたいって思ったの?」
質問に意味などなかった。
自分で聞いておきながら既に僕は確信していたのだ。
きっと、彼女の答えには納得できないのだろうと。
決定的に、もう彼女は『特別』になってしまったのだ。
『普通』の自分には到底理解できるはずがない。
そんな諦観を含んだ質問に、けれども彼女は答えてくれた。
意図に気付いているだろうに、彼女は目線を外し、窓の外、どこか遠くを眺めては
知らないフリをしてから漸く口を開いた。
「君はさ、心にぽっかり穴が開いてるって感じしてる?」
彼女の横顔からでは、その言葉の真意は見えない。
瞳の奥に隠された彼女自身の穴は巧妙に隠されてしまったのだ。
「寂しいってこと?」
「うーん、ちょっと違うかな」
たはは、と頬をぽりぽり掻きながら少し気恥しそうに彼女の言葉は続いていく。
「その穴に何が入ってたのか、分からないんだ」
いつの間にか、彼女の視線は落ちている。
床に散らばった亡骸に注がれていたのだ。
「けど、こうやって綺麗なものを食べてるとちょっとだけ、それが埋まる。そんな気がするんだ」
彼女の聞きながら、僕の瞳は、目の前の彼女をとても恐ろしい怪物として捉えていた。
蛇のように歪み、喰らっていた蝶のように美しく、死体のように残酷な彼女の姿を映していた。
差し込んでいた陽が暗い影を落としていく。
それだけの時間が経ったのだろう。
「……へんなの」
呟いた僕を残して、彼女は去っていった。
まるでもう満足したとでも言わんばかりに。
それっきりだ。
僕の瞳には怪物としての彼女の姿が焼き付いたというのに。
彼女の瞳に、果たして僕の姿は映っていたのだろうか。
覗き込む勇気さえなかった僕に、その答えはない。
ただ、蝶の苦さを感じていた彼女のように、
口の中で消化しきれない言葉を転がすだけだ。
蝶を喰らう 兎紙きりえ @kirie_togami
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