里邸

 梨壺の里邸は慎ましくも美しい邸だった。自邸と内裏しか知らぬ私だけれど、華美ではない美しさがあると感じる。普段は華美な印象がある梨壺だから、里邸の様子は意外なものだったけれど細やかなところは同じかも知れないわ。


「中宮さま、お呼び立てして申し訳ございませんでした」

「構いません。こうして招いてもらっているのだから気にしなくて良いのよ」


 梨壺は下げた頭をそっと上げた。内裏にいたときよりも落ち着いた雰囲気の袿をまとっている。こちらが本来の好みなのやもしれない。


 人払いがされているようで、御簾はすべて上げられていた。庭に見える梨は、花開く時期になれば辺りを白く染め上げるのだろう。そう思えば自然と頬がほころぶ。


 道中、不安で難しい顔をしていた燈子も梨や楓が多く植えられ、草木の多い梨壺の里邸に心癒された様子。本当によかった。口数が少なくて、顔もこわばっているので内裏に差し戻そうかと真剣に考えていたのだから。


「この邸は草木が多いのね」


 そう訊くと、梨壺はややはにかんで頷いた。


「父の趣味なのです。お気に召していただけたでしょうか」

「梨はあなたが梨壺を賜ってから植えたのでしょう? とても良い庭だわ。春を迎えた頃にぜひ見てみたいものです」

「私もこの庭は気に入っております。中宮さまからお褒めいただいて嬉しゅうございます」


 梨壺はこんなに柔らかく笑う妃だったかしら。内裏では随分と無理をしていたのかもしれないわね。


 心地よい風に目を閉じて安らいでいると、遠くから簀子を歩く足音が聞こえた。目を開けて音のする方へ視線を向けると、この邸の女房に連れられて皇后さまと唐松が歩いているのが見える。


 藍白あいじろに染められた臥蝶丸の袿をお召しで、皇后さまの雰囲気によくお似合いだ。艶のある髪が陽に照らされて輝いている。白を打ち消す藍が、まるで昼間の月のように上品で美しく見惚れてしまう。


「皇后さまの御成です」


 女房がそう声をかけて入った。私たちは皇后さまに向けて頭を下げる。


「気分が優れず少し休ませてもらいました。待たせてすまなかったですね」


 その言葉を合図に私は頭を上げた。皇后さまのお顔はまだ青白いように見えるけれど、休んだおかげなのか表情は明るい。このまま皇后さまのお体が優れなければ、皆で後宮に帰ることも考えねばならなかった。お加減が最優先ではあるけれど、やはり内心ほっとする。


「もうお加減はよろしいのですか」

「中宮さまに要らぬご心配をおかけして申し訳ございません。この通り、明日、かぐや姫のもとへ向かえそうです」


 皇后さまは私のとなりに座ると静かに扇を下ろした。その頬が片方少し腫れていることに気付く。


「皇后さま」


 お声をかけたものの、何と続けてよいものか言い淀んでいると、梨壺が口を開いた。


「皇后さま、左の頬はどうなさったのでしょう。随分と腫れていらっしゃるようですわ」


 言葉を曲げずまっすぐに訊く梨壺に、私の胸は飛び出さんばかりにはね上がる。言葉のみならず、眼差しもまっすぐな梨壺を誰か諌めなければ。ここでそれができる立場なのは、私だとわかってはいるけれど。


 私がまごまごしている間、皇后さまは平然とした様子で脇息を引き寄せもたれかかった。


「これは親不知よ。気になるほど腫れてしまって恥ずかしいけれど、大事ないわ」


 何事もないようにお話しなさるけれど、親不知というにはやや腫れていらっしゃるのでは。それとも、親不知とはここまで腫れるものなのかしら。白粉でもやや朱に染まっているのが見える頬は、左右を見比べずとも少し腫れているとわかる。もとが月のように白い肌なだけに、目立っていらっしゃる。


 そっと燈子を窺うと気付いた燈子が小さくうなずいた。皇后さまのお言葉を信じましょう。そう燈子の目が告げている。


「親不知というのは、かくも大変なものなのですね」

「中宮さまにはまだしばらく訪れませんから、ご安心ください」


 皇后さまは控えめに微笑んだ。梨壺も納得したのかもう視線を庭に向けている。里邸に戻って少し柔らかくなったように思っていたけれど、まだ梨壺の皇后さまに対する仕草は変わらない。困った更衣ね。


「お待たせしてしまったことですし、さっそく本題に入りましょうか」


 梨壺の様子にはまったく気にした素振りもなく、皇后さまは話題を移した。


「明日はまずかぐや姫の邸へ向かいます。すでに先触れを出していますから、邸には何事もなく受け入れられるでしょう」


 ついにかぐや姫なる人のところに向かうのだわ。ここにきてから昂っていた思いが頂きにまで登り詰める。


「幸いにして、かぐや姫の父母の反応は良いようです。歓迎するとの返事もこの通り」


 皇后さまが扇を打ち鳴らすと、控えていた唐松がすっと進み出て文を取り出し広げて見せた。思ったよりもずっとなめらかな筆跡だった。もとは貴族ではなく、竹を取り暮らしていたと聞いていたけれど、どうやら優秀な女房を抱えているようね。


「竹の匂いがいたしますわ」


 梨壺が眉をひそめた。なよ竹のかぐや姫の名を思わせる薫りだからでしょう。香ではなく、竹の薫りであるところにかぐや姫の清廉さや慎ましさがあり、梨壺と対にいることを感じさせる。まだ見ぬ月の姫の姿がうっすらと透けて見えるようだわ。


「なよ竹の姫ですものね」


 皇后さまも納得なさるように頷いた。


「尚侍はすでに幾度もかぐや姫の邸へ赴いているので、尚侍に扮することはできませぬ。なので此度は尚侍が病に伏していると偽り、代理を名乗ってあります」

「そうなのですね」


 私は相槌をうつ。確かに少なくともかぐや姫の父母は、尚侍の顔を知っている。代理を名乗った方が自然に受け入れられるでしょう。


「けれども、ここまで大人数で怪しまれぬでしょうか」


 そう尋ねれば、皇后さまは優しく微笑む。


「此度は重要かつ急ぎの用であることから、普段よりも多い人数で向かうことを伝え承諾されております。月から来る人を迎え討つとの話はもちろんかぐや姫にも伝わっておりますから、その話だと早とちりしてもらえたようです」


 少しだけ悪い笑みを浮かべる皇后さまは、どうやらこのはかりごとを楽しんでいらっしゃるよう。意外なご様子だけれども、まだ姫であるような愛らしい一面に感じて心がくすぐられる。もっとこうして笑っていてほしいのに、内裏ではそのお顔が曇ってしまうのが悔しい。そして、その原因の一端を私が担っている。


 暗い気持ちを払うように、前に垂れてきた髪を払った。


「かぐや姫の父母が納得されているなら、邸には入れそうですね」

「問題は、かぐや姫その人に会えるかどうかですわ」


 私の言葉に梨壺がそう加えた。誰にも会いたがらぬという孤高の姫と聞く。家族しか目にすることができぬ人をどう引き出すのか、皆が皇后さまを見つめる。


「もちろん、かぐや姫の父母にお願いして出てきてもらいます」


 何てことないように仰るけれど、それは皆が試して誰も上手くいった者はいない。主上でさえも、それは叶わぬというのに、果たして偽の使者の私たちができるかしら。


「おそらくは否と申すでしょうけれど、一度は正しい方法を試さねば誠意がありませんから」


 皇后さまは静かにそう仰ったあと、私たちを順に見つめ返した。まるで、意思を確かめるようにゆっくりと見つめたあと、とんでもないことを仰る。


「その後、夜が更けてからかぐや姫のいる母屋へ忍び込みます」

「まあ!」

「なんですって!」


 私と梨壺は同時に叫んだ。こんなに大きな声で驚いたのは入内するようにと申し渡されたとき以来だわ! 声に驚いた雀たちが、簀子の縁から一斉に飛び立った。


「そんな、気が触れたのですか!」


 梨壺が語気を強めて皇后さまににじり寄る。皇后さまは扇を広げると、ゆったりとあおいで梨壺を眺めた。その様子は面白いものをご覧になっているようで、少しも動じる素振りはない。


「私も、皇后さまのお言葉がうまく飲み込めませんわ」


 控えめにそう伝えれば、皇后さまは優しく頷かれる。


「そうでしょう。ですが、この方法は主上がなさったことです。主上でさえも、このような乱暴な手段でなければ相見えないのです」

「それは、そうですけれど」

「私たちはかぐや姫に逢わねばなりません。そのためには、この手段しかないのです。限られた時の中で、もっとも良い答えを出さねば。長居はいたせませんからね」


 梨壺は黙り込み、視線はじっと己の手元に捕らわれたまま動かない。


 皇后さまの仰ることは正しい。私たちはかぐや姫に逢いに内裏を抜け出してきたのだから、出てこぬからといって引き返すのでは足りぬ。品位を問うている暇はないわ。


「そうですね、皇后さまの仰る通りにいたしましょう」


 皇后さまを見据えてそう宣言すると、梨壺も頷いた。意外なことに、燈子は何も申し立てなかった。


 皇后さまは扇を閉じると、脇息から身を起こす。すっと背筋を伸ばすと、凛とした花のようにお美しい。かぐや姫はこの方よりも美しいというのかしら。


「では、明日は予め決めた通りに向かいましょう」


 皇后さまのお声に、その場にいた皆が首を縦に振った。


 庭から百舌鳥モズが高らかに歌う声が聞こえる。私たちはついに、かぐや姫に逢いに行く。

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