空の毀匣(きばこ)に注ぐもの
古井雅
序章:届けられた左手首
一
警視庁捜査一課の古株である宮川源一は、その経歴故か捜査一課の中でもある程度、自由行動が許される特異な存在だった。
本来二人一組での行動を基本とする警察組織において、宮川は単独での行動をすることが多い。
警察にしては比較的柔和な態度は腹の中を探らせず、それでいて内包する暗がりを押し隠さない歪な人物像は、言いしれぬ不気味さを醸し出していた。
この巧みな雰囲気作りが、宮川の最大の武器である。独特な緩急を意図的に作ることで、聞き取りや尋問などあらゆる場面で最適な手を打つことができる。
宮川の様々な経験の中でも、自身のこの特性は相対するものにとって、脅威となっていたことは間違いない。
百戦錬磨の敏腕刑事。
宮川を深く知る人間はそう承知している。
しかしここ最近の宮川しか知らない人間にとって、その評価は絵空事にしか思えないだろう。
なぜなら、宮川は「とある事件」から自らの仕事の熱を冷ますように、とんと鳴りを潜めている。
元は警察内部での評価も高く、それでいて古株であり、捜査一課長にも絶大な影響力を与えうる宮川のことを警戒しているものは多くいた。
警察社会はまさに結果が全て。功績を上げた人間がもし上がっていく弱肉強食の社会である。
そんな中で宮川は、高い実力と独自の強みを活かした優秀な刑事ゆえ敵も多かった。
それがぱたりと静まり返り、宮川に労いの言葉をかけるものが増えた時点で、宮川は明確に出世道から外れたことを意味していた。
それから宮川のデスクは窓際に押しやられる。
本来特定の班長を決めて行動する警察としてはまさに異色である。
周囲に近寄るものはおらず、すっきりとまとめられたデスク上はまるで「いつでもそこを去ることができる」という意思表示のようだった。
宮川はその日も、デスクで胡坐をかくように過去の捜査ファイルに目を通していた。
喧騒響く捜査一課の中で、宮川のデスクまわりだけが隔絶された異様な空気感を放っている。怒号が飛び交う中でも、宮川はただただ静謐を持ってファイルを眺めていた。
それはいまだ空虚な結末をもって関係者の腸を焼き続ける、「都内無差別死傷事件」の概要だった。
その事件は、宮川の捜査への熱を落とすきっかけとなった事件である。
宮川が飄々とした態度でファイルを眺めているからか、そんな宮川へ新人の刑事が「あの」と声をかけてくる。
いつの間にかざわめきは途絶えており、室内に残っているのはその新人刑事と宮川のみとなっていた。
だからこそこの新人は、自分へ声をかけることが出来たのだろうと宮川が踏んでいると、宮川が顔を向けるよりも先に刑事は話し出す。
「宮川さん、一つお聞きするお時間はありますか?」
「あぁ、君は……半年前に入庁した子か。老いぼれには時間がたくさんある。どうした? なにか、駄菓子でもほしいのかな?」
宮川の嫌味を含んだ言葉に、新人刑事は、おそらく今まで抱えていたであろう疑問符をぶつけるに至る。
「率直にお尋ねします。宮川さんはどうして、他の刑事とともに捜査に参加されないのでしょうか?」
新人の言葉に宮川は薄ら笑いを腹の底へ落とすように、「どうしてそんなことを聞く?」と真顔で突っぱねる。
明らかに空気が糜爛した。
宮川もあえて、自らの穏やかな相貌を急激に翻し、威圧的な態度を取る。
それは宮川自身が率直に不快になったと同時に、興味が湧いたからだ。この新人の腹の底を探るためにも、熟達の刑事の辣腕をふるいたくなった。宮川としてはこの刑事はひよっこもひよっこ、吹けば軽く飛ばされてしまうほどか弱いと断じていたものの、新人は一切気圧されることなく答えた。
「宮川さんを見ればわかります。貴方のような優秀な人間が捜査に加わらないというのは、明確に組織としてマイナスになります。解決できる事件が未解決のまま終わるのは本意ではないでしょう?」
「……最近の若者は随分と舐めた口を利くもんだ。憶測で物を言うのは感心しない。特に、こういう縦型の社会では、出る杭は必ず打たれる。君の真っ白な頭に刻んでおいたほうが良い、説教臭いのは嫌いだが、それだけは忠告しておこうか」
「ご助言、感謝いたします。不躾なことを、失礼します」
宮川の言葉に新人は、言葉では謝っているものの、その表情には確固たる信念があった。
宮川の得意としている「感情の落差」は、今までの経験から人間に対して一定の効果があるものだと自覚していたが、この男にはどうやら効果は薄いらしい。
いや、薄いというよりも、この男が新人というには随分と肝が座りすぎている。宮川は監視カメラのような冷たい眼差しを向けながらも、男の確固たる信念により整えられた心の地盤は、寸分の震えもなくそびえ立っているのだろう。
新人という男は、そのまま静かに頭を下げてそのままそそくさと駆けていってしまう。
宮川はその後姿を持ち前の観察力を持って眺めていたが、うかうかとしている間に「男の名前でも聞いておけばよかった」と思わず後悔させられる。
宮川は男にすっかり興味が湧いていた。
あれほどまでの大型新人は、長い宮川の刑事キャリアの中でも類を見ないだろう。
警察組織の新人としてはそぐわない、宮川の印象はそんなところだった。
刑事という仕事は、他の仕事からは明らかに隔絶している。
自分のあらゆるものを犠牲にしてでも、社会正義を突き通すものだ。いい意味でも悪い意味でも、「自分が最も正しい」という思い込みの強さこそが、この場所に立っていられるメンタルを産み落とす。
しかしあの男は違う。もっとフラットな視線で物事を理解しているのだろう。
その男の態度に宮川は、「人間と機械を混ぜたような男」という印象を抱かされる。
尤も、それが的を射ているかそうでないかなどはどうでもよい話だった。
肝心なのは、すっかり過去の出来事に埋没しかけていた宮川の食指を動かし、捜査への熱を生み出したということだった。
宮川は開いていたファイルを閉じて、大きく腕を伸ばした。「若いもんみたいにはいかないな」と誰に対して向けられた言葉か、宮川自身もわからない言葉を吐いて首を鳴らす。
そんな折、タイミングを見計らっていたかのように空っぽの一課内に内線が木霊した。
当然それに出ることができるのは宮川のみであり、およそ先程のやり取りがなければ電話にすら出ようとしなかったであろう宮川は、電話に手を伸ばす。
「はいこちら捜査一課」
電話の主は宮川の声を聞いて戸惑うように「あの今よろしいですか?」と言葉を切らず話し始めた。
宮川は別にそれを拒否する理由もなかったため、「どうしたんです?」と声を掛ける。
電話の主は受付の婦警・道長であったが、彼女はもう随分とベテランのはずだ。
所属部署を告げずに連絡してくるなどおかしなこともあると思って話を聞けば、その内容から彼女の動揺の意味も理解できる。
「実は、本庁宛の小包の中に……人の手首が入っていまして……」
宮川は思わず顔を歪めた。
ぼんやりと頭によぎるのは「劇場型犯罪」である。
人々の注目を集めることを目的とした、一般的な犯罪とは異なる形態で行われるものだ。それもこれは、警視庁への嘲笑ととってもおかしくないものである。
同時にこの件に対応できるのは宮川しかいない。その時点で自動的に、宮川はその電話に対応せざるを得なくなった。宮川は電話を強引に切ると、そのまま「梱包された手首」を回収しに捜査一課の扉を足早に飛び出した。
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