??? 英雄たる条件は

 月のない夜。

 広大な敷地を持つ屋敷に人の世の喧騒は遠く、しんとした空気の中で虫の声とときおり吹く風だけが世界の息遣いを伝えている。

 玉砂利の敷きつめられた日本庭園、そこへ面する棟に一室だけ灯りのともった部屋があった。

 ゆらゆらと揺れる室内の光は、障子に書き物をするように座して腕を動かす人影を写し、濡れ縁に、そしてその先の庭へと光を零している。

 その明るみに夜の闇からにじみ出るように二つの影が歩み出た。

 滑るような動きで長い年月がすり減らした角の丸い踏石の前までくると、慣れた動きで膝をつく。

 じゃらりと玉砂利が鳴った。

 不思議なことにそれが石庭を歩む影の立てたはじめての音であった。

「――有明ありあけ月立つきたち

 部屋の中から澄んだメゾソプラノが二つの名を呼ばわる。

 落ち着いた声音には戸惑いも驚きもなく、ただそこに在るのが当然のものへとよびかけるようだった。

「「――は、ここに」」

 二つの影は、声をそろえてそれに応じた。

 老若男女いずれの区別もつかぬ、どこか非人間的にも思える声だった。

「報告をなさい。そのために来たのでしょう?」

「――は、ご賢察の通りでございます」 

「それでは姫様へ今宵の顛末てんまつについてご報告差し上げまする」

 その奇怪な声とは裏腹に、姫と呼んだ部屋の主にうながされた影二人の語り口はよどみなく滑らかだった。

 もっとも少しの遅滞もなく互いの話を継ぐのはやはり異様ではあったが。

「まず第一は生駒に大妖出現との報でありました。こちらは奈良北西より綾部あやべ家の一斑が抑えに向かい、管区指令より討伐の命が大阪葛道かずらみち家にくだりました」

「しかし直後に大津、吉野と立て続けに中妖複数、更に難波御堂筋では百鬼夜行の兆候ありとの続報。これを受け葛道家の代行は生駒への単独行を提案、管区指令の承認のち出立。彼のものを除く葛道、紫雲しうんの術者が難波へ向かいました――」

「なお、さらにその後に再び今度は六甲にて大妖出現の兆しありとの報。こちらには塔院とういん神部かんべの両家が総出で当たった次第であります」

「続けなさい」

「は、それでは各地の詳細に移りますと、やはり一の懸念は叡山えいざんの勇み足でございましょう。確かに寺社連からすれば大津は目と鼻の先、されど京の鬼門封じを任された立場としてはいささか軽率な判断であったかと」

「そしてまたその叡山の手を借りながらも、たかが・・・中妖を相手に血を流しました滋賀庭園にわぞの家の弱兵ぶりは嘆かわしい限りでございましょう」

「滋賀の一級はたしか壬生みぶ唯月いつき様、でしたか? かつて天才、剣聖とまで呼ばれた方と記憶していますが――」

「は、しかしそれももはや過去のことかと。八年前、齢十五の時に葛道家代行との決闘に敗れて以来、人が変わったように覇気を失い、精彩を欠いておりまする」

「――聞けば、その上その直志なおし様へ年端もいかぬ妹御を差し出し、取り入ろうとしているとか?」

 それは冷たく、そしてどろりとした情念を帯びた言葉だった。

 澄んだ声色は変わらずとも、そこに込められた思いがそう感じさせるのか、部屋から洩れる明かりがわずかに暗くなった感さえある。

「は――」

「いけませんね。安易な血の取り込みで苦境を逃れようとする、そのような態度では――あるいは叡山もそれを案じればこそ大津を捨て置けなかったのでは?」

 疑問の体を取ってはいたがそれが意味するところは明らかだった。

 二つの影は障子の向こうの主へと向け、了承を示すように深々と頭を下げる。

「十分に考えられる事態かと」

「庭園には姫様のご懸念、しかと言い聞かせておきましょう」

「結構です……話がそれましたね」

「申し訳ございませぬ――さて次に吉野ですが、こちらは奈良祭田まつりだ家の手によって大過なく収まりました」

「三重の雙葉ふたば家先代が偶々・・近場にいたようですが、到着前に事は済んだ模様でございます」

「大和の地もまたかつてはみやこの名を頂いた場所。御陵みささぎの守り人たちが健在なのは喜ばしい限りですね」

 少し機嫌をなおしたかに思える姫の言葉に、影たちは大きく首肯する。

「おっしゃる通りかと存じまする。そして六甲の大妖ですが、こちらは八尾やおのきつねとのこと。しかし出現までに塔院、神部両家の術者にて陣を敷いて結界を組みこれを封ずることに成功いたしました」

「なれど指揮をとっていた神部家当主の甥が呪詛を受け昏倒。大事はないようですが、一級を含んだ二十名からの陣を抜くとなればさぞ名のあるあやかしかと思われまする」

「そうですか、それはよく難局を凌いでくださいました。神部にはわたくしの名で見舞いを出しておくように」

「は、姫様のご厚情、神部のものたちもさぞ感激することでしょう」

「さて次は大阪御堂筋、こちらは紫雲家当主が指揮をとりまして紫雲、葛道両家の尽力によりこれも大過なくおさまりました。立地を考えますれば、先の三つよりもよほどの難所であったかと」

「すばらしい。さすが名門葛道家ですね」

「左様でございますな」

「――ですが、紫雲家が長女を直志様に預けたというのは気がかりです。大阪府内の均衡を考えれば、元々近しい両家のこれ以上の接近は他家にとっては脅威。いささか好ましくないように思われますが――?」

「姫様のご懸念はまったくもっともなことでございます」

「しかし紫雲の現当主はもとより無難・安定を望む性質と聞き及びます。軽率な判断はそうそう下さぬかとも思われまする」

「……ぜひ、そう願いたいものです」

「は、そして最後になりましたがやはり今宵の勲功一番は、生駒の大妖を打ち倒した葛道家代行をのぞいてないかと」

「その力、東の當間とうま、鎮西の来島くるしまと並びまさしく当代の英傑の一人と数えられましょう」

「そうでしょう? ええ、そうでしょうとも。あぁ、さすがは直志様……!」

 娘の声がそれまでに見せなかった喜色を帯びる。

 特に男の名を呼ぶ際には一段と高く、陶然とした響きさえあった。

 二つの影は密かに視線を交わしあう。

「――は、ただ一人にて大妖の角を折り、調伏せしめる今代の鬼退治。まさに見事の一言でございます」

「然り。なによりも自らそれを申し出たその胆力、その覚悟。退魔師たるものかくあれかしと言えようかと」

「聞けば折った角で何やら呪具をこしらえたとか。ああ、ぜひ一度実物を見ながらお話を聞かせていただきたいものです――」

 より正確で詳細な話を知る影たちは、姫の言葉に互いに顔を見合わせ「さようでございますな」と曖昧に頷いた。

「しかし危機に一人でも立ち向かう姿勢、そしてそれを乗り越える力――今夜の一件でやはり麒麟・・に迎えるのは、かのお方こそが相応しい。そうはっきりしたのではありませんか?」

「は――」

 だが続いた問いかけには、それまで気分良く持ち上げる賛辞を惜しまなかったものたちが言葉を濁した。

 無論主がそれに気づかぬわけもない。

「――何か、不満でもあるのですか?」

 冷たい主の問いに影たちはすっと頭を下げ、跪く姿勢を更に低くする。

「いえ、滅相もないことでございます。不満などというものはありませぬ」

「然り。ただし葛道代行は京の外の生まれ、面白く思わぬものもおりましょう。それを抑えられぬ状況で招くのは、誰にとっても不幸なことかと愚考いたしまする」

「今の直志様でも四聖を納得させるにはまだ足りぬ、と?」

「――まことに恐れながら。先ほど當間、来島の両当主に並ぶとは申し上げましたが、しかし彼らに勝りたるとまでは言えぬかと――」

「……つまり必要だというのですね、今よりいっそうの功績が」

「我らはあくまで姫様に懸念をお伝えするのみでありまする。こうあるべきなど恐れ多いことはとてもとても――」

「しかし、確かに日の本一の退魔師となれば誰の論を待つことも無かろうかと」

 嘘であった。

 長らく不在の麒麟の地位――中央守護の復活など、姫を別とすれば京都四聖をいただく家の誰一人とて望みはすまい。

 ましてそれが京の外、くわえていかに力があろうと由緒も正しからぬ家のものとなれば「望まぬ」どころの話ではなかった。

「では今しばし時を費やすとしましょう――しかしわたくしは機とはただ待つものではなく、自ら動き作り出すものであると認識しています」

「は――」

「管区指令局、ならびに八家当主に伝えなさい。京は関西の現状を変える象徴となり得る存在の誕生を望んでいる、と――」

「御意」

「姫様の御心のままに」

 とはいえ主の意向を全く無視するわけにもいかない。

 こうもはっきりと口にされてしまえばなおさらだ。

 故に彼のものに与えるべきは、試練。

 乗り越えられれば誰もが認めざるを得ないような、そしてそれがかなわぬ時はただ思い出にのみ残る存在となる――そんな苛烈で過酷な試練だ。

 英雄には偉業が必要であり、そしてそれは死せるもののであるときに輝きを増す。

 万一・・そうなれば姫はあるいは涙されるやもしれぬが、その血の気高さによって必ずや乗り越えられよう。

 もっともそこまで全てを律義に主に伝える必要もない。

 影たちは、忠実なしもべであった。

 ただしそれは二人が姫と呼ぶ娘に思わせているものと違い、彼女自身ではなくその身に流れる貴き血へと向けられている。

 たとえそれが歯を蝕み、身を肥えさせるものであろうとも、甘言も淡い期待も主が望むがままに、望んだだけ捧げよう。

 しかしもしそれが毒となるならば、幼い手から取り上げ、永遠に手の届かぬところへやってしまうことに、一寸のためらいもなかった。

 恋に恋する娘の一時の夢などは、彼女の貴き血とその家名の前では、比べるべくもない、軽いものでしかない――

「あぁ、直志様、直志様。わたくしは貴方をここへお迎えする日を一日千秋の思いでお待ちしております――念願かなうその時こそ、貴方へわたくしの全てを――」

 従者たちのそんな考えを知る由もない娘は、ただ陶然とした声で男への想いを一人、誰に聞かせるでもなくうたっていた。

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