溺愛なんてくだらない

雲丹屋

第1話 バカですか、閣下は

「"溺愛"?」


 くだらない言葉を聞いて、思わず眉間に皺がよった。王女殿下に向ける表情ではないと気づいて、すぐに平静を装ったが、どうしても声音に険が混ざった。


「御身と婚姻を結んで王族に連なれば、海軍総司令にもなるというのに、"溺れる"などというみっともない真似はいたしかねます」

「溺れるというのはただの比喩ですわ」

「言葉ぐらいは知っておりますが、使う機会はありません」

「縁遠そうですものね」


 王女殿下は、静かに微笑んだ。

 流石に理解してくださっているようなので、安堵する。国の政を担う重責ある身ともなれば、市井の民草のように、惚れたはれたで大騒ぎは慎むのが当たり前だから、我が身のこととして考えたことすらない。急にそんな話題を振られても困る。

「なぜまたそんな話を?」と尋ねると、女性同士の茶話会の席などで、幾度かその言葉を耳にしたのだと仰った。

 下世話でつまらない話題だ。王女殿下の出席される会にふさわしいかどうかの判断もできない輩が口にしたのだろう。


「殿下が気に留めるようなことではありません。それとも……実務を放りだして人目もはばからず周囲に迷惑をかける色ボケ男がお好みですか?」

「卿が、恋に惑って責務をおろそかにする姿は想像できないですね」

「妙な想像をされなくて良かったです」


 王女殿下は、その話題はそこまでにして、また海に出るのかとお尋ねになった。

 海軍軍人はほとんどの時間を海で過ごす。また海にでるというよりは、もうすぐ上陸休暇が明けて海に戻るという方が近い。


「通常の哨戒任務のようなものです」

「隣国に不穏な動向があると聞きました」


 確かに対エスマトーラ情勢は悪化している。

 軍の旗を掲げていないもののエスマトーラ海軍の軍艦と思しき船が、我が国の沿岸や近海で目撃されている。


「ご心配には及びません。我が国の海と殿下をお守りするのは、我が務めです」


 海賊提督だのリヴァイアサンだの、嬉しくないあだ名をつけられてはいるが、れっきとした王国海軍の軍人だ。島国である祖国の平和は守って見せる。


「四方の海を平らげてきますよ。我が王国の港に敵の船は一隻たりとも入港させません」


 胸を張って言ってみせたが、王女殿下の眼差しを陰らせている僅かな憂いは晴れなかった。彼女はしばしためらった後で、聞こえるか聞こえないかの声で、本当に小さくポツリとささやいた。


「覚えておいてください。貴方はその役目を降りることができます」


 貴方がそれを忘れないでいてくれたら、私はそれだけで満足です。


 最後の一言は声にすらなっていなかった。

 俺は彼女の口元から目を逸らせた。

 これ以上を言わせてはいけない。


「王国に栄光あれ」

「ご武運を」


 王国貴族風ではなく、海軍式の礼をして別れた。爵位は十分に高いが貴族的な振る舞いが性に合わないせいで、日頃から俺はつい軍人としての自分で通しがちだ。だが今日は、こちらがそういう態度を取れば王女殿下は、兵を戦地に送る王族として振る舞わざるを得ないのを承知の上であえてそうした。

 卑怯な行いだったと後から反省した。



 §§§



「バカですか、閣下は」


 出港の前夜にやってきた黒い官服の赤毛の男は、本題に入った途端に、情け容赦なく俺をこき下ろした。


「敬う気持ちが一欠片もこもっていない敬称というのは、蔑称にしか聴こえんものだな」

「言葉は込められた心に意味があるのだと、早速おわかりいただけたようで幸いです。閣下は残念極まりない男ですが、改善の余地はありますので頑張りましょう」


 王からの勅命で派遣されたというその男は、王室不文律管理指導員という聞き慣れない役職名を名乗った。

 通称、暗黙官。

 王室に連なる身分になる者に、明文化されていない慣習を教育する係だという。

 なんと船にまで同乗して、指導すると言われて驚いた。ひょろりとした青白い顔色の小男は、軍艦の航海に向いているとは思えない。

 そこまでするほどの必要性や緊急性があるのだろうか?


 高位貴族家の男子として、それなりの教育は受けてきたし、王女殿下の婚約者に内定してからは、王国法、神典、各種祭典の儀礼、宮廷作法、その他諸々ひっくるめて詰め込まれてきた。

 それが今更、マナー教師が追加だと?

 暗黙官などという胡散臭い役職のこの男は、自分に必要な教養を指導できるようには、とても見えなかった。


「人にマナーを教える職にあるとは思えん物言いをする男だ、貴殿は」

「面倒なことを教えるのに、いちいち面倒な言い回しをしていられません。特に閣下のような方には、ずぱっと言ったほうが早いです」

「遠回しに嫌味を応酬するよりは直裁に物を言いあえたほうがわかりやすいのは確かだが……今のそれは俺が頭が固くて鈍いという嫌味だな?」

「あてこすりの機微をご理解いただけで僥倖です、閣下。良い関係が築けそうですね」


 彼が差し出した手を、私は無視した。

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