ミューズが降りてきた

 恋は赤ん坊を抱えた愁香を送ってくれたのだろう、妻の姉の夫である、海晴も多少の感謝を覚えないではなかったが、それはすぐに強い苛立ちへと変わる。恋がなかなか帰ろうとしないのだ。次の電車までかなり時間があり、しかたなく、海晴が恋を家に連れていくと、恋はろくに礼も言わず、勝手に冷蔵庫をあけると自分のぶんだけたっぷり麦茶を入れ、堂々と上座に座り大股をひらくと、取り澄ました顔で溜息を吐きながらやたら高価そうなマグネシウム合金製のパソコンをテーブルに拡げ、眉間にいかにもなしわを寄せてキーを叩き、ときおりこれ見よがしにエンターをたーんと打鍵し、分かったふうにたるんだ顎をしゃくる。小説を書いているらしかった。日々海と戦っている海晴からすれば、未だにときどき嘔吐しながら必死に着いてくる後輩たちを見守っている身からすれば、小説家などという浮世の職業が立派なものだとは思えない。そもそも詳しい仕組みは分からないが、彼はまだプロになっていないという。ほとんどヒモではないか。細い体に鞭を打ち彼を養っているだろう春子への憧れのような感情も、海晴の苛立ちを滾らせた。ましてや海晴は小説を読まない。彼にとってのリアルは常に海のうえにだけあった。そんなことを考えながら、その日は愁香と夏美を出迎えるため漁を休みにしていたので、昼間から日本酒を啜っていたところ、

「海晴、お前、そんなんじゃ駄目だぞ。ちゃんと夏美の面倒みろよ」

 といきなり叱られる。たしかに隣の部屋から夏美の泣き声が聞こえてきた。が、恋に言えた義理なのか。初対面からタメ口であったし、愁香と夏美を連れてきただけでなにか大仕事をやり遂げてやったかのような風情、どうにも偉そうである。

「帰らないんすか?」

 海晴はちらちら壁掛け時計を見ながら、挑発的な口調でそらんじた。そろそろ次の電車が来るはずで、車で送ってやろうかと、ぞんざいな素振りで立ち上がりかければ、

「いい、いい。いまミューズが降りてきたから」

 と恋は手を振って、毛むくじゃらの腕を組むと満足そうに頷いた。海晴はひどく呆れながら、ふたたび日本酒に直った。

 結局、次の電車でも、次の次の電車でも、恋はフリーマーケットで買った椅子が軋んで心配になるほど重い腰を上げようとしなかった。海晴が夕食を拵えていると、夏美を寝かしつけたらしい愁香がリビングに戻ってきて、恋の向かいに座った途端、恋はあっさりパソコンを畳み、勧められた日本酒に目尻を下げ、にこやかにお喋りを始める。ミューズはどうしたのか。いつの間にかテーブルのうえのカントリーマアムがすべて抜け殻に変わっていたため、海晴がしぶしぶメヒカリの唐揚げを出してやると、恋は大皿に積んだ唐揚げを他人のぶんも手づかみでひょいひょい平らげたすえ、「味がうすーい」と親指をしゃぶりつつ顔をしかめた。あげく、「ちょっとお花を摘みに」と小指を扉にぶつけるあやしい足取りでリビングを離れたのち帰ってこないので、様子を見に行ったところ、いつの間にか夏美のベビーベッドの隣でオルゴールの音も聞こえないぐらいの鼾をかき大の字で眠っていた。でべそ丸出しで大きく上下するお腹に、海晴は肩を落としながら、タオルケットを掛けてやる。喉ちんこが覗くぐらい口をあけた寝顔もまた、怪物のようで、みたび呆れながら、どうしてかその顔をずっと眺めていれば、気持ちが落ち着く。傍若無人が服を着て歩いているような男だけれど、不思議と憎めない自分を面白く感じ、目をつぶり三十秒だけかぞえようと試みたが、「おっぱいぱふぱふ」という恋の寝言に遮られた。

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