よろしクリトリス

 最寄りの駅で、愁香と、夏美を待った。ハワイにも喩えられる浜らしい残暑は未だに堪えがたいが、「夏」の一字が与えられた我が子を迎えるのには、ちょうどいい湿っぽさだと、ついゆるんでしまう頬を濡らす汗をTシャツの袖で拭った。もう何十度目か分からないが、腕時計を見やると、事前に春子から知らされてあった時刻ちょうど、いや、三十分進めてあったから、自分がそうしたことも忘れ待ち侘びてしまうような時間に、きいい、と鉄の車輪を軋ませつつ、電車が停まる。じっと目を凝らしたが、扉がひらいても、蝉がさかんに唸るだけで、青空と入道雲のした、夏休みの宿題としてはばっちりな水彩画になったかのように、向日葵のような黄色い車両だけが佇んでいた。海沿いに「日本一小さい漁港」に由来するわずかな漁村があるだけの土地だから、降りてくるとすれば、それは愁香と、彼女に抱きかかえられた夏美のはずだった。何時間も焦げつくような熱いベンチに座り待っていたため、立ち上がると暑気に当てられわずかに意識が遠のいたが、ぼんやりと擦れたコンクリートのうえに陽炎がむらむら立ち上る先、汗の球が貼りついた睫毛を向ければ、あきっぱなしの扉から、薄汚れたタオルを首の周りに巻いた小太りの男が、しきりに後ろを振り返りながら、よたよたした足取りで降りてきた。近所で見かけた覚えのある男ではない、どこかひとを食ったような、いかにもオタク然とした顔つきで、かといって温泉がある南方や馬追いで知られた北方に比べれば、鉄道マニアを含めても観光客が降りるような駅では全くないし、おおげさな一眼レフを首からぶら下げているわけでもないし、海晴が目を白黒させていると、彼に続き、大切そうになにかを抱えた女性が清楚なワンピースの裾をさやかな潮風に遊ばせながら降りてきた。眩しい光に包まれて、恥ずかしそうに慎重な足取りで電車を降りた彼女は、海晴の乏しい語彙力を差し引いても「天使」としか形容できないと思った。

「おかえり」

 しばらく水も飲んでいない、ひりつくような喉を嗄らしながら、海晴がようやく口にした言葉は、うまく声にならなかった。顔を伏せ、はにかみながら、愁香が発したらしい言葉も、電車が去っていく音で聴き取れなかった。

 まだ髪もろくに生えていない夏美は真っ白いおくるみに包まれていた。顔を近づけるとミルクの甘い匂いがした。夏美は愁香によく似た、まんまるい目で海晴を見つけると、一瞬、泣きそうに猿みたいな赤い顔を歪ませたけれど、海晴が不器用ながら微笑めば、笑みを返してくれて、「ああ」と唸りながら、小さな左手を差し出した。海晴は人差し指を彼女に掴ませる。ちからない彼女の指はやわらかく、熱を持っていて、じんとしたものがこみ上げてくる。それは「感謝」が近いと思った。愁香に対するそれだけではない、支えてくれた春子やガッチャンにだけでもない、すべてへのようなもの、例えば神を信じたこともない海晴が、世界を作り上げた奇跡をいま手のうちにあるように感じ、もし目をつぶれば、三十秒後にそれは訪れる。そうだ、海晴もいつかは、子どもだったのだ。ここまで生きて来られたことに感謝をした。胸が苦しくなって、顔を上げれば、子どものころに広がっていたあの「本当の空」があった。

「うわ、次の電車、二時間後じゃん。最悪ぅ~」

 感傷を台無しにするようなダミ声が聞こえ、どうも愁香と共に降りてきたその男が時刻表を確かめながら呟いたらしい。色落ちのひどいジーンズにタックインしたよれよれのチェックシャツは、ボタンの隙間からへそが見えるほどお腹まわりがぱつんぱつんに膨らみ、長い一本髭がほくろから伸びた頬には、べっとりと脂汗が滲んでいる。

「ああ、このひと、コイさんって言って、春子の旦那さん。ここまで送ってくれたの」

 海晴の訝しむような視線に気づいた愁香が夏美を抱き直し、お辞儀するように隣に目を配り、遠慮しながら言った。コイ、と呼ばれたその男は、ひょっとこのように口を尖らせながら、ぶっとい親指をふたつ立て、牛のようにでかいお尻をきゅっと上げると、ふん、と鼻息を吐き、軽い調子で捲し立てた。

「イエーイ。春子のこれで、小説家をやってます、コイでーす。L・O・V・Eの恋ね。変わってるでしょ? やっぱり小説家は世間を食っていかないとなあ。アッハッハ。まあよろしクリトリス!」

 なんだこの軽薄な男は。そういえば春子の夫は小説家らしいと聞いたことがあったが、詳しくは知らないものの、たしかアマチュアで、日銭を稼ぐのも春子が病身を押してバイトしているうえ、生活保護が頼りだと聞いていた。本を読まない海晴、小説がなんぼのものか分からないが、書きながらでも定職に就き妻を助ける考えはないのか。夏の陽射しを浴び茹だりきった海晴の頭にゆっくり怒りのようなものが立ち上ってきた。海晴はもともと怒りっぽい気質ではない。漁師には後輩が増え、なかには高校に行けなかった一回りぐらい年下の若い子もいる。どこにも行き所がなさそうな顔をして、岸壁にしゃがみ込み、煙草を吹かす子には「ここ、禁煙だぞ」と注意しつつ、ジッポで火を点けてあげ、やっと色づいた彼らの瞳に、自分の出自を重ねた。気性の荒い、キレるまでの導火線が短い子が多かった。海晴はそうではなかったが、その気持ちは分かる。怖いのだ。カップラーメンのお湯の順番待ちとか、しょうもない理由で彼らが殴り合いの喧嘩を始めたとき、海晴は体を張って宥め役に回ることが多かった。喧嘩に慣れた壮年の漁師たちが叱ってくれたころはそれで良かった。が、海晴が漁協の副会長に就いてからは、そのやり方では示しが付かなくなる。かといってかつての先輩たちがそうしていたように、鉄拳制裁を食らわすのは、もともと気の弱い海晴には似合わないし、それに若い子たちの気の弱さも分かる。海晴は思案したのち、彼らの喧嘩を止めるときは、頭突きを食らわすことにした。喧嘩両成敗で、双方の額に「なじょだらッ!」と強烈な頭突きを叩き込む。どうもこの頭突きは彼らの正気を取り戻させるのにちょうど良かったようで、なにより、海晴自身も痛かったから、胸がすく思いをしないで済んだ。なお、海晴が最初にその頭突きを食らわせた相手は、もう漁師をしていない。北方の水産高校中退で浜に出戻りしてきた、浜には珍しい女性の漁師だった。よく日焼けした幼い顔立ちで、高い位置で結んだポニーテールとさくら色のシュシュに愛嬌があり、妻のいる男たちを選び何人もと寝たすえ、財布から札を抜く手癖の悪さを海晴に叱られてすぐ、筆ペンの丁寧な明朝体で書いた辞表を突き出してきた。いわく「気づかせてくれてありがとう」と。若年性痴呆の母親を養わないといけないらしい。それでも、「海で働く」という彼女の夢を諦めきれなかったが、人生でいちばん大切なものに気づき、もっとお金を稼ぐため、原発で働くことに決めた、と、力いっぱい八重歯を見せた顔は思いきり海で生きるべきひとが豊漁を終えたときのそれで、悲しかった。その悲しみは、海晴を正当化こそしてくれなかったが、むしろその逆、傷つけたのだから、もっと傷つかなければならない、という衝動は、海晴を次の「なじょだらッ!」に向かわせた。そして海晴はいま、目のまえにいるこの恋という男に、「なじょだらッ!」を食らわせたいと思っている。若い漁師にそうしたように、海の怖さを教えるためではない。彼にとっては珍しい、怒りに請われるまま、ごく身勝手な衝動で、この不実な小説家に頭突きを食らわせたいと思った。そしてその怒りのいくつかは、春子と電話を交わしているうちに育った、いまは正体の分からない彼女への思慕を、知らないうちに養分として求め、たしかな根を伸ばしている。

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