必殺の頭突き
学校がはじまり、海晴が思ったのは、地元も浜も、言葉がわずかに違うだけで、そんなに変わらないのだな、ということだった。いや、雨や雪を落とすような高い山をふたつ挟み、風土は日本海寄りの盆地とかたや太平洋沿いという差分を含めても大きく異なるはずだから、どこであれ学校は変わらない、という節理なのかもしれない。そんな1たす1が2になるぐらい初歩的な帰結にがっかりし、もともと無口なほうだから、授業中のグループワークや放課後の掃除で最低限必要な会話をかわす以外、友だちらしい友だちもできず、休み時間になれば用もないのにトイレに行き、アメリカ帰りの女教師が人気でにぎやかだった英語も、いちばん後ろの席だったのを幸いと、立てた教科書の影で聴き取れない朗読を子守歌に居眠りして過ごした。将来のことを教師は他人ごとなくせやけに熱っぽい口調で語る。しかし片田舎の教師が語る将来なんて、アルファベットの紋切りでくだされる模試の判定結果をのぞけば、なんのリアリティがあるというのか。おとなしい海晴は、教師に逆らうような性質ではなかったけれど、いくつかの点では我が強い一面があり、「将来」というキーワードは彼にとって考えれば考えるほど、怒りに近い感情が爆発しそうな揮発性の燃料であった。
駅前の桜並木が目の醒めるような緑に変わっても、親戚に六段変速付きの自転車を買ってもらっても、海晴は電車で高校に通いつづけた。朝七時前に出る便を乗り過ごしてしまえば、学校のホームルームに遅刻する。初めのうちは真鍮のベルを打ちならす古めかしい目覚まし時計を枕元に置いて早起きし、本来乗るべき電車に間に合うよう、生焼けのマーガリンも塗っていない食パンをかじりつつ駅まで走っていたが、下着まで汗だくになったまま冷房の効きがあやしい電車に揺られるのも気持ち悪かったし、早く教室に着きすぎて予習に熱心な女子とおなじ時間を共有するのは心苦しかったし、なにより陽の上がりが早くなり「遅刻した電車の窓から見える青い稲の海を流れていく雲の影を追うのが好き」だと気づいてからは、黒板の目立つところに貼られた遅刻の数を正の字で争うダービーの本命になった。電車から見下ろされる田んぼ沿いの真っ直ぐな砂利道を、自転車の立ち漕ぎで疾走するガッチャンをよく見かけた。荷台に愁香が横座りしている日もあった。そんな風景を見ているのも頭上を滑空する寂しそうなカモメが象徴的でおだやかな気持ちになれた。ふたりとはおなじクラスであったが、初対面の日のくだけた遣り取りが嘘のように、あれから海晴と会話したことは一度もない。海晴は潮風で煤けた窓ガラスに頬をくっつけて腕を組み、あくびを噛み殺しながら、「あのとき、なんかまずいこと言ったかなあ」と空々しく思う。一瞬、目線をそらし、ふたたび、電車を追うガッチャンと愁香に目をやって、「ふたりは付き合っているのかなあ」と考え、その独りよがりな思いつきに、くつくつ笑った。
教室の後ろの扉に耳をそばだて、どうやらホームルームで中間テストの説明をしているらしい担任の話が落ち着いてから、そっと扉を引いた。静まり返った教室に木戸のすべる音が思いのほか響き、振り返った生徒たちの眠たげな目線が海晴に向けられたが、海晴は取り立てて興味のなさそうなそれに頓着せず、入ってすぐのところに傾いた自分の椅子を引き、机のうえに置いてある藁半紙に掠れたプリントを流し読みつつ、遠慮がちに座った。
「おい、ビビリ!」
数秒間を置いて、なにかがはち切れたような怒声が、教室のうららかな空気を張りつめさせた。担任に遅刻を叱られたことは何度かあったけれど、ここまで感情あらわに咎められたのは初めてで、しかし担任が駐車場の目立つところに停めた真っ赤なカプチーノをいつもぴかぴかにしているぐらい神経質で気が短いことにも、海晴に向けられた担任のつまらなそうな目線が眼鏡の奥で宿している敵意のごとき苛立ちにも気づいていたから、心の準備はできていたはずが、体のほうは途端に股間が縮みあがるぐらい萎縮した。担任の言ったことはこれまで彼の発言がすべからくそうであったとおり正しく、あまり感情が顔に出ない海晴も端から見れば平然としているようで、実のところ遅刻するたびに罪悪感で胸が苦しい、たとえば教室の席がこっそり入るのにうってつけの場所になかったら遅刻などしなかったであろう「ビビリ」だった。それでもこの日は、罪悪感以外の別の感情も胸の奥に滾っており、それは担任と目線を噛み合わせているうち、窮鼠が「ああ、猫を噛んでもいいんだ」と本能を改めるように、彼を睨むぐらい強くなっていった。
「なに見てんだ、ビビリ!」
担任に焚きつけられ、海晴は自分が立ち上がっていることに驚いた。と同時に、膝がふるえ、それがいつもの弱気によるものではないことも心強かった。彼は十五歳にして、初めて自尊心を自覚し、ただそれを制御する術を知らない。とにかく彼がひとつ知る処世術をたぐるように、目をつぶり、数をかぞえはじめた。ますます猛々しく吠える狂犬のような担任の声も、騒めきはじめた教室の声も、彼には心地よかった。
早鐘のような心臓を落ち着けながら三十のカウントを終えた瞬間、海晴がかっと目をひらくと、示し合わせたようにすぐ傍の扉がひらいた。
「すいませーん、遅くなって」
さわやかな風が吹き、重苦しい雰囲気をあざわらうかのような明るい声がして、二匹の仲睦まじい動物みたいに膝をついて教室に滑りこんできたのは、ガッチャンと愁香だった。今日は自転車の爆走が間に合わなかったらしい。ふたりとも新しいはずの制服がぼろぼろに汚れている。この日も、電車に併走する自転車を海晴は見かけていたのだが、未舗装路に少なくない石にでも躓いたのか、車体ごと一回転するぐらい派手に転んでしまい、不安になり立ち上がってふたりの様子を見守ったところ、水田に逆さまで沈んだ自転車のわき、畦道に座り込んで大笑いしていたのを覚えている。
「おいおいガッチャン、なんだよその膝」
クラスメイトが指をさすと、どっと笑いが起きた。ガッチャンのズボンは膝のところに間抜けな大穴がひらき、そこから泣き顔みたいな傷が露わとなっていた。愁香の短いスカートが捲れれば、おなじところに傷が見つかった。
ホームルームの終わりを告げるチャイムが鳴り、ふたりを囃し立てる文句がやがてふだんからの仲の良さを揶揄するものに代わり、「結婚しろ!」の掛け声にひときわ大きく沸き立った拍手が落ち着いたころ、担任がふたりに歩み寄った。やけに威厳を含んだ、そのわりになにかを恐れているような、ファースト・ラウンドのボクサーに似た歩き方だった。クラスメイトがそれに気づき、担任は気の利いたお小言のひとつでも漏らすのか、野次馬めいた、漫才のオチを見守るような目線が集まった瞬間、ぱあん、という、乾いた破裂音がふたつ続いた。
その音が止むと、教室は誰かの息を呑む音も聞こえるぐらい、いっそう静かになった。
ガッチャンの左頬も、愁香の左頬も、赤く腫れていた。愁香のほうが強く叩かれたように見え、実際、ぷっくりとしたくちびるの端には黒っぽい血が滲んでいた。
「この売女が」
呼吸も整わないまま、吐き捨てるようにそう言い残し、担任は去っていった。
たとえばそれが青臭い正義感によるものだと捉えられたとしたら、あるいは現代文を教える教師が選ぶべき言葉への義憤というような、実際、そういう評価のいくつかも後に挙がるのだが、海晴はよっぽど混乱しただろう。そうした理由を彼自身も分かっていない。女性は守られるべきだという考え方を、どちらかというと古い時代性のものとして、父親に従順すぎるぐらいかしづいていた母親の背中を見て育った海晴は、持っていた。だから、教師が女性に手を上げたのを許せなかったのかもしれないし、そうされたときの彼女の反応を受け入れがたかったのかもしれないし、むしろその逆、一方的な暴行を見て欲情しただけかもしれない。見方によっては、サディスティックであれ、マゾヒスティックであれ、ヒロイックであれ、エゴイスティックであれ、衝動としては、やはり「ビビリ」という呼び名が表象するごとく、畏怖が近い。ひとつには、女性の神性についてのそれであり、もうひとつ、畢竟、単純に言えば、自覚的ではないにせよ、海晴は愁香を好きだったのだ。
海晴は弾かれたように廊下を全力で走り、担任に追いつくと、いかったままの肩を叩き、彼が向き直った途端、上履きのゴム底に全体重を乗せ、
「なじょだらッ!」
と叫んだ。
お洒落な赤い眼鏡の片方を粉々に砕かれた担任が、噴火口から吐き出される溶岩のような鼻血をよく磨かれたリノリウムに散らしながら、スローモーションで崩れ落ちる。両耳がきーんとして、悲鳴なのか歓声なのか、いずれにせよ遠い。こめかみを音を立てて脈動する血流と、額に割れるような初めての痛みを感じ、海晴はそれが自分のものであることが、あの「本当の空」を見ているときのように、尊いと思った。
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