荻田①

 右手に持った200円を自販機に入れると冷たい飲み物、温かい飲み物それぞれのボタンが赤と青に点灯した。

 今日何度目だよ、と思いながら荻田おぎたはホットコーヒーの赤いボタンを押す。何度も聞いた馴染みのある音が下から聞こえると、体を屈めてホットコーヒーを取り出した。

 荻田は後ろを向く。両手を後ろに組んで律儀に待っている岩下いわしたに問いかけた。

「何がいい。ホットコーヒーでいいか?」

「いいんですか?僕、アイスコーヒーがいいです!」

 そう言われると、荻田はお釣りから50円取り出し、ポケットから100円出して、全てを自販機に入れた。今度は青いボタンを押す。

 さっきと違い、冷たい容器を自販機から取り出すと、岩下に下投げで渡した。

「すいません。ありがとうございます」

 2人は自販機があるスペースから出て、廊下を横並びになって歩く。お互いに缶の蓋を開け、コーヒーを1飲みした。

「荻田さん1日中飲んでません?それ」

「ああ、飲まねえと眠くなっちまうんだよ」

「やばいですね。カフェイン中毒かも」

岩下の言うことに荻田は否定できなかった。コーヒーを飲んでいないと落ち着かない。

「あ、そういえば知ってます?最近起きた、後ろから男性を自転車で轢き逃げした事件」

 岩下が荻田に聞く。

「あれだろ、犯人が自首してきたやつだろ」

「そうです。その犯人、ホームレスだったらしいですね」

「そうなのか」

 荻田は短く答える。

 一瞬、岩下に説教じみた事を言いそうになった。岩下がまるで、ホームレスを特別視しているような言い方をしたから。ホームレスだからなんだというのだ。法律の観点から見れば、犯罪を犯した人間の立場に差異など無い。総理大臣でも、ホームレスでも、人を轢いて逃げれば立派な轢き逃げ犯なのだ。

 ただ、こんなことを言う元気は荻田には無かった。

 廊下を右に曲がって、少し歩くと、急に岩下が立ち止まって言った。

「僕、これを見るたびに気が引き締まって頑張ろうって思うんですよね」

 岩下の視線は上にある。荻田が岩下の視線を辿ると、そこには壁についていると書かれている看板があった。

「ドラマ見て憧れてたんですよ。捜査一課に入って、凶悪事件をこの手で解決したいなって」

 岩下が、聞いてもいないのに饒舌に話した。

 自分にもそんな時期があったのかどうか荻田は思い返す。捜査一課に入ったのは10年も前なので思い出せなかった。

 この岩下は、2ヶ月前に捜査一課に入ってきた。28になって入った荻田よりも2年早かった。

荻田は、岩下の教育係に任命されていた。

 2人は再び歩き出し、捜査一課と書かれた看板をくぐって部屋に入った。相変わらず不快な匂いが充満しているこの部屋では、多くの刑事が無精髭を蓄えて仕事をしている。チラリと腕時計を確認すると、11時半を過ぎていた。真夜中だと言うのに誰も帰る気配はない。

 荻田はコーヒーをぐいっと飲みきり、自分の机に向かおうとした時、部屋の奥から「荻田」と名前を呼ばれた。

 部屋の奥に立っていた声の主は、澤柳さわやなぎだった。荻田はテーブルの間をすり抜けて澤柳の元へ向かう。

 「荻田。お前何日家に帰ってない」

 少しだけ荻田より身長が高い澤柳が、見下ろすように言った。綺麗に髪型がセットされてるな、と荻田は思う。

「3日、ですかね」

「流石に家に帰れ荻田。潰れちまうぞお前。髭も剃らずに、しっかり寝ても無いんだろ」

 荻田は自分の顎をさする。思ったよりジョリジョリした感触が手に伝わった。

「でも、やらなきゃいけないことがまだあって」

 そう言うと、澤柳がため息をつき言った。

「奥さんと娘はどうしたんだ。父親が3日も家に帰らないなんて」

  妻の明美あけみとまだ6歳の娘、さきの顔を思い出す。家に帰らない、なんてことはしょっちゅうなので、この3日間何も連絡をしていないことに気づいた。

 荻田が何も言わないので、澤柳が言う。

「捜査一課長として、命令だ。荻田、今日は家に帰れ。風呂に入って、しっかり寝て、奥さんと子供に会え。明日は休みでいい」

 澤柳からこう言われると、しんどさを思い出すように体が重くなった。確かに風呂に入りたい。明日は咲とどこか遊びに行こうか。そう思いながら「はい。ありがとうございます」と言い礼をした。

 荻田は澤柳に背を向け、辿々しく前に歩き始めた。

 その瞬間、澤柳の机に置いてある固定電話から音が鳴った。澤柳はすぐに電話を取り、話し始める。荻田はもう1度振り返った。

「はい。はい。了解しました」

 電話を切ると、澤柳は1呼吸置いて大きな声で話し始めた。

「本膳倉庫において刺殺体発見。通報を受け向かった警官が、犯人と思われる人物に切り付けられた。その人物は逃亡中だ」

荻田が澤柳の目を見た。澤柳は何も言わない。

 澤柳の目から視線を外し、岩下の机の方向を向いて言った。

「行くぞ、岩下」

「分かりました!」

 荻田は部屋を出ると、すぐ近くに置いてあるゴミ箱に、手に持っていた空き缶を捨てた。

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