第3話:森と揺れる決意
森の薄暗い中、カリナはミナの手をぎゅっと握りしめながら歩いていた。湿った苔が足元を滑らせ、枯れ枝が頬をかすめるたびに、森の静けさが恐怖を煽るように思えた。
「急げ、夜明け前には山道に出なきゃ……!」
彼女自身に言い聞かせるような声で呟き、目に浮かぶ涙を急いで袖で拭った。ミナに心配を悟られまいと、カリナは無理にでも顔を上げた。
先頭を行くカイは、迷いのない足取りで道を選んでいた。彼が枝を掻き分ける音と頼りない明かりが、一行を導いているように思えた。その背中を見つめながら、カリナは心の中で父とエルサン長老の姿を思い浮かべる。
「守り抜く」と誓ったはずの命が散った現実に、胸が張り裂けるようだった。それでも、隣で不安げに彼女を見上げる妹を守るため、カリナは歯を食いしばりながら歩みを続けた。
背後から迫る金属の擦れる音や、兵士たちの低い声が森に響いていた。アルヴァーク軍の追撃部隊は容赦なく進み、フリード・エグナーは険しい表情で周囲を見回す。
「森ごと潰して構わん。奴らを逃がすな」
先行していた槍兵エヴァルト・ガンスは、森の土を掬い上げ、わずかに残った足跡を指先でなぞっていた。濡れた苔や崩れた小石――敵が残した微かな痕跡が、彼の集中を引き寄せる。
「……ここを通ったな」
低い声で呟きながら、近くの兵士に手短に命じる。
「先行部隊に知らせろ。奴らは川を目指している」
報告を受けたフリードは、険しい表情を崩さずに川辺を指差した。
「足跡が消えた?……川を渡ったか。追撃を緩めるな。奴らは長くは持たない」
彼の冷ややかな声に従い、兵士たちは枝をかき分けて進み始める。革靴が土を踏み締める音と、折れる枝の音が森に響き、一行にさらなる恐怖をもたらしていた。
エヴァルトは槍を手に、森の先を鋭い目で睨みつけながら鋭く指示を飛ばす。
「二手に分かれろ!前方の茂みを囲め!」
彼の命令に兵士たちは即座に動き、森の中に緊張が一層張り詰めた。
カイは崖際の狭い獣道に一行を導いた。木々が茂りすぎて足元が見えづらく、湿った苔が靴底を滑らせる。その中で、ミナを支えながら慎重に進むカリナは、背後から聞こえる追手の足音に合わせて心臓が激しく鼓動するのを感じていた。
カイは一瞬だけ後ろを振り返った。仲間たちが必死についてきているのを確認すると、胸の奥でわずかな安堵を覚えた。だが、追手が近づく音にその安堵はすぐにかき消される。
「……俺が迷えば、全員が終わる」
冷たい汗が額を伝い、次の一手を間違えれば全員が危険にさらされるという重圧が頭をよぎる。それでも、彼は一瞬も足を止めず、前を向き続けた。
「ここは奴らには気付かれない。行け、早く」
カイが振り返りながら静かに促す。その声には、冷静さの中に焦りと決意が混じっていた。
セレナがすぐ後ろで低い声で言葉を添えた。
「足音を抑えて。湿った地面なら音が吸収されるわ」
その冷静な指示に、カリナは深く頷いた。
「ありがとう、母さん……」
セレナはミナの髪を優しく撫でながら囁くように言った。
「大丈夫よ、ミナ。母さんがいる限り、あなたを守るわ」
セレナはミナの顔を覗き込み、優しく微笑んだ。
「ほら、お父さんも長老も、きっと星から私たちを見ているわ。だからもう少し頑張りましょうね」
道を抜けた後、カイは足元に転がる大きな岩を見つけた。無言でそれに両手を添えると、力を込めて押し始める。
「ちょっと待って、それ……!」
カリナが驚いて声を上げると、カイが短く言い返した。
「追手を引き離すのに必要だ」
岩を押しつつ、カイは素早く弓に3本の矢を装填した。その視線には、迷いのない決意が宿っていた。
「行くぞ……≪
弓を引き絞り放たれた矢は扇状に広がり、追手の兵士たちの前に雨のように降り注ぐ。次々と命中する矢に、兵士たちは一瞬足を止め、動揺した。
ごうん、と岩が崖下に落ちる鈍い音が森に響き渡った。矢の攻撃と崖下へ転がる岩の衝撃に、追手たちは混乱し、その場を整えるのに時間を要した。
一瞬の静寂が訪れるが、その直後、遠くから聞こえる兵士たちの声が再び緊張を呼び戻した。まるで静けさ自体が不気味な予兆のようだった。振り返ったカイは、わずかに息を切らしながらも微笑みを浮かべた。
「森はいつも俺たちを守ってくれる。ただ、それを信じる覚悟が要る」
その言葉にカリナは一瞬だけ心が和らいだが、すぐに再び響いてくる兵士たちの声に表情を引き締めた。
「分かった……でも急ぎましょう」
次にカイは川を目指し、カリナたちに指示を出す。
「川を渡るぞ。水で足跡を消すんだ」
カリナが不安げな顔で尋ねた。
「どうしてそれが必要なの?」
カイは振り返り、淡々と答えた。
「足跡を辿られるのを防ぐためだ。川なら匂いも流れて、奴らが追いつくのが遅れる」
川のせせらぎが近づき、湿った空気が肌に纏わりつく。だが、その静けさが余計に恐怖を煽るようだった。背後から聞こえる追手の気配が、喉の奥に刺さるように感じられる。カリナの靴が水を含んだ苔に沈み込み、冷たさがじわりと足先に広がる。
「気をつけて。足元が滑りやすい」
カイの注意の声に従い、カリナは慎重に進む。川の水面は朝日を受けてわずかに揺れており、その先には次の戦いを予感させるかのように森の影が伸びていた。
冷たい水が足元を浸し、カリナはミナを抱きかかえるようにして慎重に進んだ。ミナが小声で言う。
「お姉ちゃん……長老も、本当に見守ってくれてるのかな……?」
その声は震えていて、彼女の手をさらに強く握りしめた。小さな瞳には涙が溜まり、彼女の不安が滲み出ているようだった。
「もちろんだよ。だから私たちも負けない」
カリナは少し詰まりながらも、はっきりと頷いた。ミナの心を支えるように、優しく手を握り返す。
川を渡る途中、ディランが足を滑らせかけた。倒木に掴まって何とか持ち直したものの、冷たい水がズボンを濡らし、彼は小さく舌打ちをした。
「ディラン、無理しないで!」
カリナが声をかけたが、ディランは肩越しに「分かってる」と短く答える。彼の表情には焦りが浮かんでいた。
川を渡り切った後、カリナは息を整えながらミナの様子を窺った。
「ミナ、大丈夫?」
ミナは小さく頷いたものの、その顔には不安の影が色濃く残っていた。カリナは彼女の肩をそっと抱き寄せる。
「私たち、絶対に守られてるから……お父さんや、長老がきっと見ていてくれる」
その言葉にミナは涙を堪えながらも、少しだけ微笑んだ。
ディランは二人の様子を見ながら、少し離れた場所でカイに問いかける。
「……俺たち、本当に逃げ切れるのかな?」
カイは倒木の上に腰を下ろし、森を睨むようにしながら短く頷いた。
「逃げ切るんじゃない。逃げるための道を作るんだ」
その言葉にディランはわずかに頬を緩めたが、その拳はまだ硬く握られていた。
森に朝の薄明かりが差し始めていた。だが、追手の足音は止まない。彼らの影が、まるで獲物を狙う猛獣のように迫ってくるのが、耳の奥で響いているようだった。次にカイはどのような策を講じるのか、一行の緊張はさらに高まる――。
森を急ぐ中、ミナが石につまずいて転び、膝を擦りむいてしまった。小さな悲鳴が上がると同時に、彼女の服もほつれた部分がさらに裂けてしまう。
「ミナ!」
カリナは慌ててミナの元に駆け寄った。彼女の瞳に浮かぶ涙を見て、胸が締めつけられるような思いがした。
「大丈夫、痛くない?」
ミナはかすかに首を振ったものの、その表情には不安が色濃く浮かんでいた。
そんな時、リサがそっと近づき、優しく声をかけた。
「ミナちゃん、少しだけ待ってて。服を直してあげる」
リサは即座に針と糸を取り出し、膝をついて作業を始めた。慣れた手つきでミナの服を応急的に縫い合わせる。その間も、彼女の手は決して震えず、穏やかな微笑みを浮かべ続けた。
カリナはその様子を見て、リサに感謝の言葉を口にした。
「ありがとう、リサ。本当に助かる」
「大丈夫よ。こういう時こそお互い助け合わないと」
リサは優しく微笑んで言葉を続けた。
「ミナちゃん、みんながいるから、もう怖がらなくてもいいのよ」
セレナもその隣に跪き、ミナの肩をそっと抱いた。
「ミナ、大丈夫よ。お父さんも長老も、私たちを見守ってくれている」
その言葉に、ミナの瞳から不安が少しずつ消えていった。
リサは軽く笑いながら、最後の針仕事を終えると、ミナに目線を合わせた。
「ほら、これでまた歩けるよ」
泣きそうなミナの頭を軽く撫でると、リサは続けた。
「大丈夫、私たちは必ず無事に着けるよ。一緒に頑張ろうね」
ミナは小さく頷き、涙を拭いながら立ち上がった。リサの静かな優しさが、彼女の不安を少しずつ和らげていくのがわかった。
カリナはそんなミナをそっと支えながら、小さく呟いた。
「私たち、負けないよ……」
ふと周囲を見渡したカイが声を上げた。
「まだ時間はあるけど、急ぐぞ。奴らが追いつく前に、次の地点まで行く」
その言葉に一行は再び歩き始めた。森の中に、足音だけが静かに響いていた。
カイが進む道を少し外れた場所で、ディランが足を止めた。
「少し時間をくれ。ここに仕掛けを作る」
湿った土や崩れた小石を観察し、ディランは素早く腰袋からロープを取り出した。≪
後方で枝が折れる音が響き、カリナが振り返る。
「ディラン、大丈夫?」
彼は短く頷いたが、表情には焦りが浮かんでいた。
「追手を少しは足止めできる。でも、俺たちにどれだけ時間があるか……」
ディランは心の中で父との狩りの記憶を思い出していた。
「お前が信じる道具なら、必ず結果を出すさ」
その言葉が今でも心に残っている。だが、今はその言葉に応える自信が足りない自分が悔しかった。
カイがディランに目線を送り、「行くぞ」と促す。一行は足音を忍ばせながら進むが、遠くから追手の声が響き、森の緊張感を一層高めた。
ディランは心の中で「仲間を守る」という思いを反芻しながら前を向いた――。
セレナが一瞬足を止め、森の奥を見据えた。
枝を踏みしめる重い足音が響く。先頭にいた兵士が険しい目で地面を見下ろし、わずかに顎をしゃくった。命令を受けた兵士たちが静かに進路を変え、別の道へと動き出す。
「追手は、罠に気づいて進路を変える可能性があるわ。」
セレナの冷静な声に、カイが短く頷いて地図を広げた。
「いい考えだ。分岐点まで急ごう」
「さあ、行こう」
カイの声に一行は足音を静めながら再び進んだ。森の奥へと吸い込まれるように消えていく背中に、遠くから追手の気配が重くのしかかっていた――。
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