枯れ木と花

綱渡きな粉

第1話 君の幸せを願うという偽善

 予定のない休日。それは学生も社会人も必要なものだ。どれだけ勉強だろうと遊びだろうと予定を詰める人間でも、今日くらいは、たまには、また明日から頑張れば、などと自分に言い訳をして休みを享受する。


 斯く言う私は基本的に休日に予定を入れた試しがなく、一人で日がな一日散歩したり縁側で横になったりとお財布に優しい休みを過ごしていることがほとんどだ。


 そうやって十年、二十年、もしかしたら三十年後もこうして一人で気ままにゆるりと人生を謳歌して生を終えるのだろうという確信があった。――今までは。


「ちょ、これ教えてくんない?」


 卓袱台の向かいでノートと教科書、問題集を広げて頭を悩ませていた少女が私の教科書の一部分を指差した。


「ああ、これは――」


 私は身を乗り出して彼女の教科書の一文を指でなぞりながら丁寧に言葉を紡ぐ。


 別段私は勉強というものに対して嫌いだとか苦手といった意識はなく、得られるものは可能な範囲で無理せず得るという心情のもと学んでいる。そこに得手不得手は存在せず、満遍なく点数は取れているので両親からのお小言もいただいたことがない。


 逆に彼女は勉強――というより、学校自体があまり好きではないらしい。と言うのも、彼女の家はあまり裕福ではなく、彼女の下には多くの弟妹がおり、そして母子家庭故に母親は仕事に出ていて平日は自宅に居ない。


 そんな環境で育った彼女が家族の為に出来ることは何かと考えた結果、家事の大半を彼女が行い、しかもアルバイトまでするということだった。


 早朝に起床して家族の食事を用意し、昼は学校に行き、夜は家から離れた場所でアルバイトを掛け持ちする彼女にとって、日中の学校とは不必要極まりないものだと過去に言っていた。母親からせめて高校くらいは出なさいと言われたので渋々通っていると愚痴っていたのも憶えている。


 来週のテストに向けて私の家で勉強をしているのも、帰りの遅い自分を心配する母親を安心させる為だと言っていたので私も誠心誠意手伝っているわけだ。


「あー、んとさ……あんたとうちの関係ってさ」


「いいから手と脳を動かしなさい。時間に余裕が無いんだから」


「いや話聞けし」


「じゃあ五分の休憩取るから、その間の雑談ってことね」


「ま、それでいいけど。じゃなくて、あんたとうちって一応、その、世間一般で言うところの恋人なわけじゃん?」


 若干顔を赤らめてそっぽを向きながら彼女はそう言って頰を掻く。


 恋人。確かに私と彼女はそういう関係だろう。高校で同じクラスの、しかも名簿順の席で前後になった彼女といつの間にか親しくなり、こうしてテスト勉強をするようになり、お互いの家に何度も通って私が彼女の家庭と家族ぐるみの付き合いになってから早一年ほど。


 先月、いつもテンションが低飛行なはずの彼女が何やら張り切って近所のファミレスに誘ってきたあの日。私たちは仲の良い友人から恋人という関係になった。


「それでさ、あんたはどうなの? そういうなんか……あるじゃん?」


「主語が見当たらなすぎて話が全く見えないんだけど……」


「…………あー、もう! だからさ、その、恋人らしいこと……みたいな。そんな感じのこと、したいとかあるかって言ってんの。……察しろよ、鈍感」


 恋人という言葉に未だ照れているのか、それとも恋人らしいことの想像に何か普段とはかけ離れたことでも考えたのか。


 それはそれとして、とても理不尽に怒られた気がする。いつも通りと言えばいつも通りなので気にはしないが。


「恋人らしいこと、かぁ。私は特にないかな」


「は? いやもうちょい考えなよ。なんかあるでしょ?」


「君って結構押しが強いよね」


「いやいや、うちほど控えめな人間探す方が難しいが?」


「はいはい。――んー、そうだなぁ。じゃあ君と過ごすこんな休日が良いかな」


「なに、勉強しろってわけ?」


 彼女の鋭い目つきが更に鋭利なものに変わった。それを見た私は慌てて足りない言葉を補う。


「勉強が、というわけじゃないんだ。こうして同じ部屋で君と一緒に勉強したりゲームしたり、笑って泣いて、たまには喧嘩なんかもしたりして。そうして何気ない日常を繰り返して行きたいなって思ったんだよ」


 言い終えて彼女の顔色を伺うと、ぽかーんと間抜けに口を開けている彼女と目が合った。


「はぁ、なんていうかあんたってそこらの年寄りよりよっぽど枯れてるよね。普通さ、仮にも男子高校生なわけだし持て余した性欲の一つや二つあるでしょ。それを、何が何気ない日常を繰り返したいだよジジイかよ。まったく、なんでこんな中身年寄りな男と付き合ってるのかわかんないわ。あーもうやだやだ、勉強しよ」


 休憩を自分で終了させて彼女はまたテスト勉強に励み出す。


 今の会話自体、一見キツい物言いにも思えるだろう。実際、家族以外の全てにこの態度で接する彼女に親しい友人というのは数えるほどしかいないし、それ以外の人間は自然と離れていく。


 しかし、しかしだ。彼女はこの物言いで隠したつもりなのだろうが、長く一緒に居る私には通用しない。

 顔を背けようと耳や首元まで真っ赤にしていては何ら意味がない。それに、普段のダウナーな彼女からは想像も付かない早口さに照れていることは火を見るより明らかだった。


「じゃあ聞くけど、君の思う恋人らしいことってどういうものなの?」


「いやうち今勉強中なんですけど」


「じゃあ先生特権で五分延長ね」


「横暴すぎでしょ」


「答えないと休憩がどんどん伸びるよー」


「うち勉強する為に来てんのにさせる気ないのかよ」


「しょうがないじゃん。現状に不満を抱く可愛い恋人に、恋人らしいこととは何かを聞き出して実行してあげないと勉強に集中できないみたいだからね」


「……ッ! あんたのそういうとこホント嫌いだかんね!」


 睨む恋人もまた可愛らしいと思ってしまうのだから私も心底恋というものに脳をやられているようだ。


「いいから早く言いなさい。勉強会やめるよ?」


「ちょいちょい、なんでそういう時だけ強引なわけ? いやまあ言うけどさ……。えっと、まあ、……スとか」


 ようやく観念したらしく、天然ウェーブのかかった髪の毛先を指で弄りながら蚊の鳴くような声で何かを言った。もちろん私の耳には届いていない。悪くもないが特別良くもない私の聴力では聞き取れなかった。


「もう一回言ってもらっていい? 全然聞こえなかった」


「…………ッ! だから、キ、キスとか!」


「なるほどキスね。ようやく聞き取れたよ」


「あー、はっず。顔熱くて死にそうなんだけど」


 両手で顔をパタパタ扇ぐ様子を見ながら彼女の言っていたことについて考える。


 キス。二人以上の人間が唇を互いの身体のどこかに付ける行為。頬にしたり手の甲にしたりとバリエーション豊かだが、きっと彼女の言うキスとは唇同士を合わせることを言っているのだろう。


 思い返すまでもなく、私たちは一度もキスをしたことがない。ましてやそれ以上の行為など以ての外だ。


 キスをしなかったことに特別な理由などない。彼女の口が臭いわけでもなく私が潔癖症なわけでもない。自分の口臭にも人並みに気を遣っているので臭いことはないと思う。


 ただそういった行為には相手の同意が必要であり、例え同意を得たとしても何気ない言動の一つが相手を傷つけるかもしれない。


 とても傲慢で身勝手な考えではあるが、漠然と、私の中では求められた時に応じ、私から求めるようなことはしないだろうと、そう思っていた。


 無意識にも近い一線を引いたこの思考が彼女の中では不満に昇華するまでに至ったのかもしれない。


「君には悪いけど、私からキスを強請ることは生涯無いと思う」


「はっ? な、なんで? ――いややっぱ言わなくていいわ。まあ、うちだってキスとかしたいわけじゃないし別にいいんだけどね? あんたも男だからうちみたいな美少女とイチャイチャしたいかなって思っただけだし。あと今はこっち見んな」


「待って待って、そんな泣きそうな顔をしないで。ちゃんと説明するから」


 普段は淡白で同年代より達観した雰囲気を出しているのに、今の彼女は二秒後には大粒の涙を零してしまいそうな幼子にしか見えなかった。


 理不尽なことに直面して人生で初めて後悔と諦めることを知った子ども。意地を張って何でもないように見せて、その実、心の内は後悔と諦念で荒れ狂う大海のよう。諦め切れない感情と見切りを付けたい理性が鬩ぎ合って制御不能に近い状態。きっと彼女は私の言葉足らずで酷く傷ついてしまったに違いない。


 私はいつだって彼女を大切だ何だとのたまいながら傷付けるDVも真っ青な救いようのない人間だ。


「落ち着いて、よく聞いて」


 宥めるように優しい声音で語りかけるが、卓袱台の向こうに座る彼女はこれ以上傷付きたくないと耳を塞いでこちらに背を向けた。


 私は立ち上がって彼女の隣に腰を下ろすが、それを見た彼女は身体を回転させてまた私に背を向ける。クールな彼女に似つかわしくないその行動に不謹慎ながら若干ときめくものを感じた自分を殴り倒したくなる。私は彼女の愛らしい耳を覆い隠すその両手を優しく包んでゆっくりと耳元から離した。


「話すことなんて何もないから。てか手ぇ離してくんない? ベタベタ触られるのウザいんだけど」


 駄々っ子のように手を振り解こうとするも力では私に勝てないと察したのだろう。彼女は両腕の力を抜く。


 私も彼女の両腕から手を離し、背後からゆっくりと彼女のことを抱き締めた。


「勘違いをさせてしまって本当にごめん。――何度でも言うが、私は君のことが好きだ。そして私自身、愛の重い人間だという自負がある。だから一度でも私からキスをしてしまえば、きっと際限がなくなる。何時でも何処でも、例え周りに他人が居ようと隣に居る君に無遠慮に唇を押し付けるだろう。私は歯止めが効かなくなって君を傷つけてしまうことが怖いんだ」


 ……きっと彼女は受け入れてくれる。ダウナーにしょうがねえなあなんて言いながら応えてくれるだろう。


 では、それをいつまで許容してくれる? いつか私からのキスにウザいと思う日が来て、私を拒絶するかもしれない。


 彼女は優しいから最初はやんわりと遠回しに拒否するだろう。けれど彼女曰く鈍感である私はそれに気づかず彼女を求め続ける。


 そうして嫌々ながら、そんなことをおくびにも出さず応える彼女がいつか怒りを爆発させて本気の拒絶をした時。私はきっと躊躇なく生きることを諦めるだろう。


 今までの人生で他者を愛した経験の無い人間に、彼女のような可愛らしい恋人ができたこと自体が奇跡にも等しい。齢十と幾つかで枯れ木のように朽ちるのを待つばかりだった人生に、足下で寄り添う一輪の美しい花が現れたことが奇跡にも等しい。恋も愛も知らぬ男が恋し恋され、愛し愛されることの心地良さを知れたことが奇跡にも等しい。


 ――ただ私は、君を自分の欲深く醜い思いで傷つけたくなかっただけなんだ。


 全てを赤裸々に告白する間、彼女は身動ぎ一つせず聞いてくれた。胸の内を全て曝け出し、もはや隠すものなど何一つ無くなった頃。彼女は一つ大きな溜め息を吐き出した。


「あんたさ、全然枯れてないじゃん」


「そうだよ。私はお年寄りじゃない。人生で一番性欲が盛んな時期真っ只中にいるただの高校生だ」


「じゃあ何、あんたはそれを抑えてたわけ?」


「抑えてたという表現はあまり正しくないと思う。正確には君を傷付けてしまうことを考えるとそういった欲が一切無くなる、が正しいかな」


 愛する人が傷付き涙を流すことに比べれば私の浅ましい性欲など些末なものだ。そんなもの抑えるまでもない。


「でも、それって恋人じゃなくね? うちは子どもじゃないしあんたはうちの保護者でもないでしょ。そんな箱入り娘だとか温室育ちの野菜じゃあるまいし、私を傷付けたくないから触れないって――ハッ、笑える。爆笑もんだよ」


 極めていつも通りの低い声で呟いた後、もぞもぞと動いて私の腕を振り解いたかと思えば、急に私を突き飛ばした。不意の衝撃に耐える術の無い私は見事に畳の上に転がってしまう。天井の木目が目に入った次の瞬間には、眼前に彼女の顔が合った。鼻と鼻が触れそうなほど近い距離で、畳の匂いと一緒に彼女の優しい匂いがした。


「――あんたこそよく聞きなよ。うちは貧乏だからって理由で見下されるのには慣れてる。小学生の頃はそれで揶揄われもした。だから髪を染めてピアスを空けて制服を着崩して、派手な格好で自分を守ることにした。そうして武装してるうちに、いつしかこれが素の自分になってた。だから他人に見下されるのは、まあ、何とか表面上は穏やかに流せてると思う」


 ……いや、絶対にそれはない。なんだかんだ喧嘩っ早いぞ、君は。特に家族のことになると口より先に手が出てる方が多いと思うんだが。話を遮ることになるので言わないけども。


「でもさ、あんたに見下されるのだけは我慢ならんて感じなわけよ。傷付けたくないだとかそんな理由で生涯うちのイエスマンになるわけ? ――冗談、そんな男ならいらんでしょ。うちが求めるのは対等な関係。傷付けることも傷付けられることもあるかもしんないけど、それでも仲良くやっていけたらなって感じなんだわ。だのに、片っぽの我慢の上に成り立つ幸せとか糞食らえでしょ」


「……じゃあ求めてもいいのかい? 私は君が思っている以上に欲深い人間だよ? 常に一緒に居たいしキスだってしたいしその先だって考えてるような人間だ」


「ま、まぁ、キスの先は……よ、要相談だけど……。そ、それでもうちは求められたいし、うちを与えたいの! お互いの中身がお互いでいっぱいになれば、それはめちゃくちゃ幸せなことだと思ってるから!」


 拙いながらも胸の内を語り聞かせてくれる彼女に思わず涙が溢れそうになる。私の傷付けたくないというこの思いは烏滸がましく浅はかで独り善がりな偽善だった。


 彼女を傷付けたくないなどと一歩引いたつもりで、実際は自分が傷付きたくない為の予防線を引いて彼女の求める対等な関係を私自身が遠ざけていた。その事実に頭がどうにかなりそうだ。


「ふふ、なんで泣きそうな顔してんの」


「……不甲斐ない気持ちで一杯なんだ。私は私が思っているよりずっと鈍感で独り善がりで臆病な人間だったんだなって」


「ようやく理解したわけ? あんたはあんたが思ってる以上に鈍感で、他人からの好意に疎くて、うちのことが大好きで、好きな人の為に自分を犠牲にする馬鹿だよ」


「ああ、そうみたいだ」


「ひひっ、もう我慢なんかしなくていいし。うちも我慢しないから」


 目を閉じた彼女の顔が視界を埋め尽くす。


 人生初のキスはこの世に生まれ落ちて一番の幸福な一瞬だった。

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