五話

 ヴァレリウスは自分の目的のために、ロアニスを通じてエリンナとの仲を少しずつ深めていった。彼女の働く料理店に通い、そこで話してみたり、ロアニスの誘いで部屋へ訪れてみたりと、まずは友人として親しくなることを目指していた。そんな彼にエリンナも快く接しており、好印象を与えているようだった。今交際を申し出ても、いい返事が貰えるかもしれなかったが、男のヴァレリウスに女心というのはまだ完全に理解できないところがある。焦ってしくじるのはもったいないと、もう少し仲を深めてからにしようと考え、今日も変わらず仕事にいそしんでいた時だった。


「やあヴァリー、今日はリンゴ一個だけ?」


 昼休憩、店の裏で木箱に腰かけてリンゴをかじっていたヴァレリウスにロアニスが歩み寄って来た。


「まあな。節約だよ」


 エリンナ目当てに料理店に通っているせいで、ヴァレリウスの手持ちの金は確実に減っていた。そのためには昼食代を削るしかなかった。


「それだけじゃ体力持たないんじゃない? これ、よかったら一つあげるよ」


 そう言ってロアニスは手に持っていたハムのサンドウィッチを一つ、ヴァレリウスに差し出した。


「お前が食べるつもりだったんだろう? いいよ」


「大丈夫だから。これ一つでも結構腹は膨れるんだ。ほら、食べて」


 ニコニコして差し出すロアニスをちらと見て、ヴァレリウスは遠慮がちにサンドウィッチを受け取った。


「あ、ありがとう……悪いな。昼食減らして」


「気にしないで。いつも仕事で助けてくれるお礼だよ」


 ロアニスは側の木箱を引き寄せると、ヴァレリウスの横に並べて座った。


「節約って、何か買いたい物でもあるの?」


「そんなんじゃないが、まあ、いろいろと出費があってね」


 エリンナの料理店にはロアニスが付いて来ることもあったが、そこに下心が隠されているのは知られるべきではないだろう。


「ヴァリーは計画的だから、金のやり繰りには気を付けてるものだと思ってたよ。それでも節約しないといけないんだね」


 ロアニスはサンドウィッチをぱくつきながら言う。


「い、いや、最近、店の品物が値上がってるの知ってるだろう? 今のうちに買い溜めできるものは買っておこうかと思って……」


「ああ、確かに値段は高くなってるね。でもほんの少しじゃない? 買い溜めするほどじゃ――」


「安いうちに買わなきゃ意味ないだろう」


「それは、そうか……だけど何で高くなってるのかな。食料品も日用品も」


「王都のほうで、またきな臭くなってるんだよ」


 表情を険しくさせたヴァレリウスを、ロアニスは怪訝な目で見た。


「王都で? またって、何のこと?」


「戦いが起こる……かもしれないってことだ」


 これにロアニスは不思議そうな表情を浮かべた。


「この国で戦い? そんなわけないよ。もう何十年も平和でいるのに。隣の国とも交流があるし、戦いが起きる火種なんて――」


「表から見えない火種もあるもんだ。忘れてもいいような火種がね……」


 深刻そうに言うヴァレリウスを、ロアニスはやはり不思議そうに見つめる。その視線に気付き、ヴァレリウスはごまかすようにサンドウィッチをかじった。


「……つまり、物価が上がるのは、どこかで問題が起きてる証拠だ。俺の予想が外れればいいけどな」


 彼に戦いが起こる確信はまだなかった。しかし遠くで何かしら変化が起きていることは、街を注意深く見る中でわずかに感じていることではあった。


「よく、わからないけど、ヴァリーの予想が外れてるといいね……」


 困惑を見せつつ、ロアニスは黙ってサンドウィッチを食べる。それを横目にヴァレリウスも食べていると、おもむろにロアニスが口を開いた。


「……そうだ。話は変わるけど、今週の休みの日、暇かな」


「別に予定はないが」


「それじゃあ遊びに行かないか?」


「どこへ」


「旅芸人の一座が来るらしいんだよ。それを見に」


「へえ、旅芸人ねえ……」


 ヴァレリウスは大して表情も変えず、残りのサンドウィッチを口に入れた。


「そういうの、興味ない?」


「そうだな。そこまでじゃないかもな」


 娯楽の少ない街の住人にとっては、年に一、二度しか見られない珍しい芸は、前日から楽しみで仕方がないものだったが、長く生きるヴァレリウスにとっては、もう見飽きたものでしかなかった。火を吹いたり、ナイフを使った曲芸など、技は進化しているのだろうが、やっていることはずっと同じで代わり映えのしないものばかりだった。それを各地で何百回と見て来たヴァレリウスが今さら興味を抱けるわけもなかった。


「そう……残念だな。この話、エリンナから聞かされてね。ヴァリーを誘って三人で行こうって言ってたんだけど――」


 これにヴァレリウスは思わず視線を向けた。


「興味ないんじゃ無理に連れて行くわけには行かないね。今回は兄妹で――」


「あっ、でも、出店とかは、少し見たいかな。たまに珍しいもの売ってたりして、楽しいからさ……」


「だけど、節約中なんじゃ……?」


「か、買うかどうかは別だ。ああいうところは見てるだけでも楽しい気分になれるんだよ」


「芸人より出店のほうが楽しいなんて、変わってるね。皆すごい芸を目当てに行くのに……でもよかった。三人で行けて。エリンナも喜ぶよ」


「今週の休みだな。場所は?」


「北広場だよ。午前十時から。そこで待ち合わせでいい?」


「わかった。行くよ」


 約束し、ヴァレリウスは食べかけのリンゴにかじり付く――旅芸人に興味がないのに、そこの出店に興味があるはずもない。彼が行くことにしたのはただ一つ、エリンナの存在だけだった。この機にさらに仲を深めるため、楽しむ気もない遊興に向かう日を待って数日――ヴァレリウスは約束した北広場の入り口に立っていた。


「ヴァリー、もう来てたのか。待たせたかな」


 ロアニスが手を振ってやって来た。すぐ後ろにはエリンナもいる。


「ついさっき来たばかりだ。……エリンナ、今日はいつもと雰囲気が違うね」


 料理店や部屋にいる時は長い金髪を結い上げ、ブラウスにロングスカートと地味な見た目をしていたが、今日は髪を下ろし、前髪を飾り付きのピンで留め、薄桃色のワンピースを着ていた。


「おしゃれしたくても、こういう時にしかできないから……おかしくないですか?」


 エリンナは自分を見下ろし、照れ笑いを見せながら聞いた。


「大丈夫だよ。ちゃんと綺麗だから」


「本当ですか? 兄さんにはこの服が子供っぽいって言われて……」


「よく似合ってると思うが……どこが子供っぽいんだ?」


 ヴァレリウスはロアニスに聞く。


「色もデザインもそう思って。でも僕は服のセンスないから、まともに聞かなくていいよ」


「だそうだ。気にしなくても大丈夫だよ」


「ヴァリーさんがそう言ってくれるなら、信じます。じゃあ行きましょう」


 三人は揃って広場の中へ向かった。


「やっぱり、すごい人ごみだね」


 ロアニスは辺りを眺めながら言う。広場内は老若男女がやっとすれ違えるほどに混雑していた。それを囲むように出店が並んでおり、そこで買ったジュースや菓子を食べながら歩く者もいて、ぶつかってこぼされないようにと気を付けて進んで行く。


「エリンナ、はぐれて迷子になるなよ?」


 兄の言葉に妹は少しムッとして返す。


「迷子って、私もうそんな歳じゃないから」


「だがこれじゃあ、大人でもはぐれそうだ。当てもなく歩いてても仕方ない。まずはどこへ行く?」


「ここへ来たのは旅芸人を見るためだ。まずはそれを――」


「でも兄さん、まだ始まりそうにないけど……」


 そう言ったエリンナが遠くを指差した。見れば人ごみの頭越しに舞台らしきものが見えた。その上に人影はなく、準備を始めている気配もない。


「いつ始まるんだろう。時間がわかるといいんだけどな」


「また後で見に来よう。とりあえず出店を回って時間を潰すか?」


「そうだね。ヴァリーはそっちのほうが楽しみなんだろう?」


「あ、ああ、まあ……」


 そういうことになっているんだったと、ヴァレリウスは思い出して頷く。


「あのお店、何だろう。キラキラした可愛い物がある……ちょっと見て来ていい?」


 エリンナはそう言うと、見つけた出店へ一直線に向かって行った。


「あ、待って。一人で行くなって。……ごめんヴァリー、付き合ってくれるかな?」


「もちろんだ。はぐれるわけにはいかないからな」


 そうして三人は混雑する中で出店を回った。飲食物の他にも、玩具や小物なども売っており、どれも安っぽいものばかりだったが、エリンナはそれらを童心に返ったように眺めていた。


「これ、可愛いな……」


 次にエリンナが目を留めたのは、女性向けの装飾品を売っている出店だった。指輪、首飾り、髪留めなどが並ぶ中、白いリラの花をかたどったピンを熱心に見つめていた。


「買わないのか? 安いみたいだけど」


 横からロアニスに言われるが、エリンナは悩んでいる。


「さっきも買っちゃったし、お金、使い過ぎるのも……」


 そう言うも、エリンナの視線はピンからなかなか離れない。ヴァレリウスはここぞとばかりに前へ出た。


「この花のピンをくれ」


 懐から出した金を店主に渡し、ヴァレリウスはピンを手に取ると、そのままエリンナに差し出した。


「ほら、もう自分の物だ」


 兄妹は驚いて瞬きをする。


「ヴァリー、妹のために、そんなこといいって!」


「嬉しいけど、その、買ってもらうなんて申し訳ないです」


「高い物じゃないんだ。素直に受け取って」


「だけど……」


 困惑するエリンナが受け取ろうとしないのを見て、一歩近付いたヴァレリウスは、買ったばかりのリラのピンを前髪に付けてやった。


「ヴァリーさん……!」


「これでよし。服とよく合ってるよ」


 エリンナはどうしていいかわからず、目を泳がせる。


「ありがとう、ヴァリー。本当に君は優しいやつだ。……エリンナもほら、ちゃんと礼を言って」


「う、うん。ありがとう、ヴァリーさん。これ、ずっと大事にしますね」


 エリンナは微笑み、付けられたリラのピンをそっと撫でた。


「このお礼はいつかさせてください」


「いらないよ。でもどうしてもって言うなら、次、店に行った時に少し安くしてもらえると助かる」


「ふふっ、考えておきます」


 エリンナがヴァレリウスに笑いかけた時だった。


「我らテュタロス一座の大陸に誇る曲芸、間もなく始まりだ! 見逃せば後悔間違いなしのスゴ技、ぜひご覧あれ!」


 どこからか男性の朗らかな大声が聞こえ、客寄せを始めた。


「最前列で見たい方は、広場中央の舞台へお急ぎを! 迫力ある技、その目でしかと見てほしい!」


 これを聞いた周囲の人々はざわめき始めると、一人、また一人と広場のほうへ向かって行く。


「……そろそろ始まるらしいな。行くか?」


 ヴァレリウスが聞くと、兄妹は揃って頷いた。


「ああ、そうだね。いい場所で見たいし」


「楽しみね。どんなことやるのかな」


 期待を膨らます二人と、特に興味のない一人は、人ごみを縫うように広場へ向かった。


 到着すると、舞台周辺はすでに大勢の観客で埋まっていた。今か今かと待つ人がひしめき合っていて、舞台に近い場所を確保するのは無理そうだった。


「すごい人数……前のほうへは行けないわね」


「しょうがないな。ここで我慢しよう。一応舞台は見えるし」


 距離が遠く、迫力は減るが、他の客を押し退けるわけにもいかない。観客が並ぶ後方から見ることにした三人は、おしゃべりしながら始まるのを待った。そして五分後――


「お待たせしました! さあでは、我らテュタロス一座の華麗なる技の数々、存分にお見せいたします! 大陸に誇る至高の曲芸の始まりだ!」


 舞台に現れた進行役の男性が叫ぶように言うと、客達は一斉に拍手をし、待ってましたと声を上げる。エリンナも芸を見る前から興奮した様子で熱烈な拍手を送る。


 芸人達は入れ替わり立ち替わり自分の得意な曲芸を見せた。ある者は上半身の筋肉を見せながら男性を肩に乗せ、その男性の肩にまた男性を乗せ、と人間の塔を作ったり、またある者は舞台を縦横無尽に跳ね回って、火の輪をくぐったり刃の付いた柵をぎりぎりで跳び越えたり……観客達はハラハラしながら見守り、無事成功すると安堵と共に盛大な歓声と拍手を送った。


ロアニスとエリンナも珍しい芸に釘付けになり、進行役の男性に煽られるまま、舞台で繰り広げられる光景に夢中になっていた。


 その一方で、曲芸に見慣れてしまっているヴァレリウスは拍手も歓声もなく、ただ盛り上がる雰囲気を感じながら眺めているだけだった。次々に見せられる芸はどれも既視感があり、彼ら独自の技とは思えない。至高の曲芸と豪語しているが、所詮どこかの芸人を真似ているだけなのだろう。目の肥えてしまったヴァレリウスには彼らの芸は通用しない。


「女の人も、危険なことするのね……」


 エリンナは心配そうに呟く。続いて舞台に現れたのは露出の多いドレスを着た女性で、銀色に光るナイフを握り、ニンジンをスパッと切って刃の切れ味を見せると、ナイフ六本を頭上へ放り投げてジャグリングを始めた。見事な手さばきに拍手が送られると、女性は次に火の付いた薪六本を用意し、それをジャグリングする。顔すれすれを火が通る光景に観客達は息を呑む。すると女性は火の付いた薪を一本ずつ増やし始める。七本、八本、九本……そして十本。空高く舞う赤い火。それに触れず女性は器用に薪を操り続ける。見事な曲芸に観客達は大きな拍手を送る。ジャグリングを終えて女性が笑顔でおじぎをすると、さらに大きな拍手が送られた。


「……今の、すごかったですね」


 エリンナの感嘆の声が自分に向けられていると気付いて、ヴァレリウスは慌てて返した。


「あ、ああ、そうだね。本当に……」


「普通に料理してても指切っちゃうのに、あんな複雑なことしても怪我一つしないなんて、信じられないです」


「彼らは毎日練習してるんだ。エリンナも練習すれば同じようにできるよ」


「私は芸人になりたいわけじゃないので、別に同じにできなくてもいいですけど、でも、ああいう器用なことだったり、何か一つでも自慢できることがあるのはいいなって思います」


 エリンナはヴァレリウスに笑いかけた。


「ヴァリーさんは、自慢できることってありますか?」


「どうだろうな。俺にはそういうことは……」


「人に対して優しいことだよ」


 割って入ってきたロアニスが言った。


「それ、自慢って言えるか?」


「言えるよ。世の中、困ってたり苦しんでる人に優しくできない人もいるんだ。他人に優しくできるのはいいことだし、自慢していいよ」


「何か、弱い自慢だな」


「全然。もっと誇っていいよ。そのおかげで僕は仕事に馴染めたし、こうして笑ってられるんだ」


「私も、ネズミの被害を心配しなくて済みましたしね」


 兄妹はニコリと笑ってヴァレリウスを見る。


「……そう言うなら、俺の自慢にするか」


 ポリポリ頭をかくヴァレリウスを見て、二人は嬉しそうに笑う。


 三人は披露された曲芸を最後まで楽しみ、特にロアニスとエリンナは大満足した様子で興奮の余韻に浸っていた。


「すごい技をたくさん見られて、今日は来てよかったよ。ヴァリーも当初の気持ちとは変わったんじゃない?」


「そ、そうかもな……何より、二人と来れてよかった」


「それはこっちもだよ。兄妹だけじゃ少し物足りなかったかもしれない。……エリンナもそうだろう?」


「ええ。ヴァリーさんを誘って正解だった。このピンも買ってもらっちゃったし」


 エリンナは前髪に付いたリラのピンに触れる。


「安い物でよければ、また何かプレゼントするよ」


「もう大丈夫ですよ。これだけで十分です。……兄さん、私喉が乾いちゃった。ジュース買って来てもいい?」


「それじゃあ僕も行こうかな。実はさっきから何か飲みたくてさ。ヴァリーはどう?」


「俺はいい。二人で行ってきなよ。この辺で待ってるから」


「そうか? じゃあすぐに戻るよ」


 二人は並んでジュースを売る出店へ向かった。手持ち無沙汰になったヴァレリウスは、芸人達が消えて観客も消えた広場をうろうろ歩き回ってみる。まだ客の姿は多かったが、最初に来た時よりは減っただろうか。芸人の見世物が終わり、それ目当ての客は帰ったのだろう。おかげで随分と歩きやすくなっていた。


 小道具が片付けられ、元の何もない舞台に近付いたヴァレリウスは、何気なくその後ろ――舞台裏をのぞいてみた。単にどうなっているのかという小さな好奇心からの行動だったが、表と隔てるための白い幕をちらとめくってみると、そこには先ほど見た芸人達がまだいて、椅子や地面に座って休んでいる姿があった。舞台に立つ人間の素の表情を見るというのは、何だか見てはいけないような感覚があり、おそらく彼らも舞台裏で気を抜いた姿を客に見られるのは嫌がることに思え、ヴァレリウスはすぐに引き返そうとした。だがふと視線にとらえた人物に、思わず足を止めた。


 奥の暗がりには、舞台でジャグリングを披露していた女性が立っており、その彼女と話し込んでいる男性がいた。しかし男性の格好はシャツに上着にズボンと、街の住人と変わらない服装で、明らかに芸人には見えなかった。裏方の人間とも思えたが、ベルトには必要とは思えない短剣が差し込まれており、どうも裏方にも思えない。話している内容が聞こえればよかったが、声を抑えているせいかまったく聞こえない。だが話している男性の表情は見えた。やや伏し目がちに、時折女性芸人を見やる目は険しく鋭い――それだけでヴァレリウスは彼の素性が予想できた。おそらく彼はどこかの組織、集団の密偵だろう。そう考えたのにはヴァレリウスの長年の経験があった。今も昔も、密偵は他の職業に成り済まして情報を探ることが多い。地域や国をまたいでの仕事では、こういった旅回りの一座になることはよくある方法で、ヴァレリウスも過去、何度も気付き、見て来たことだった。しかしこの街は国の要所ではないし、よくある平凡な街でしかない。政治、経済的にも重要な場所とは言えないところになぜ来る必要があったのか――ヴァレリウスはそれをあまり考えたくはなかった。


「……ん? お客さん、ここは立ち入り禁止だよ。俺達を見たかったら、また明日来てよ」


 休んでいた芸人の一人が幕の隙間からのぞくヴァレリウスに気付き、穏やかに注意した。その声に他の者達の目が一斉に向けられた。


「あ、ああ、すまない……」


 数人の視線が突き刺さり、ヴァレリウスはそそくさと幕から離れた。その視線の中には女性芸人と、彼女と話す男性のものもあった。


「……あっ、ヴァリー、そんなところにいたのか」


 舞台から離れて歩いていると、正面からロアニスとエリンナが小走りでやって来た。その手には買ったばかりのジュースのコップが握られている。


「姿が見えないから帰ったのかと思ったよ」


「少し辺りを見て回ってたんだ。……喉は潤ったようだな。じゃあ帰るか」


「そうだね。名残惜しいけど」


「今日は散財しちゃったから、明日からは財布の紐を固くしなきゃ」


「エリンナ、嫌なこと言うなよ」


「兄さん、現実から目をそらしちゃ駄目よ」


「はあ……僕たちも明日からヴァリーと同じように節約の日々か」


 ロアニスはまいったように言う。


「楽しい時間を過ごした代償だ。まあ頑張れ」


 肩を叩き、ヴァレリウスは励ます。それにロアニスは苦笑いを見せ、三人は並んで広場を後にした。


 また明日と言葉を交わし、兄妹と別れて一人借家へ向かう。夕暮れ前の、まだ明るい道を歩いていると、背後から不意に肩をつかまれ、ヴァレリウスは驚いて振り向く。


「久しぶりね」


 黒髪を結った微笑む女性にそう言われて一瞬固まるも、ヴァレリウスはすぐに気付いた。


「……あんた、さっきの芸人……?」


 舞台上での露出の多いドレスから、チュニックに細身のズボンというまるで違う格好にはなっていたが、化粧の施された顔は間違いなくジャグリングをしていたあの女性だった。


「私のこと、覚えてる?」


「覚えてるも何も、広場の舞台で――」


「違うわよ。舞台以外でも会ってるじゃない」


 言われてヴァレリウスは首をかしげる。


「あんたと? そうだったか?」


 これに女性はわざと悲しそうな表情を作る。


「覚えてないの? でも仕方ないのかしら。あの時は皆必死に戦ってたから」


 戦うという言葉に、ヴァレリウスは記憶の奥深くまで探る。


「……昔に、傭兵の経験が?」


 女性はニヤリと笑う。


「少し思い出してくれたみたいね。私はあなたと何日か一緒にいたのよ? 会話は少なかったけど」


 ヴァレリウスは不鮮明な記憶に彼女の手掛かりを探す。


「もしかして、あんたも不死者……?」


「そう。あなたと同じよ。思い出してくれた?」


 二百年以上前、ある地域で王国軍と犯罪組織との戦闘が起こり、力で勝る王国軍がすぐにねじ伏せるものと思われたが、予想外に犯罪組織はしぶとく、苦戦続きだった軍は傭兵を募集したことがあった。それを知ったヴァレリウスは金のためとわずかな正義感で戦いに参戦していた。不死者は身の危険がある仕事ほど重宝がられ、集められた傭兵にも数人の不死者がいた。その中に女性も確かにいたが、彼女だったかどうか、ヴァレリウスはうろ覚えだった。


「はっきりとは……。あんた、名は?」


「リュデ。あなたは、ええと……」


「ヴァレリウスだ」


「ああ、そう名乗ってたわね。剣の腕はなかなかだった。今は剣、握ってないの?」


「もともと俺には馴染まないことだ。傭兵も、半分は金のためだったし」


「もう半分は?」


「この国のためだ。まあ、大して役に立てなかったが。……そっちこそ、剣はどうしたんだ? 傭兵から旅芸人とは、大きく鞍替えしたもんだな」


「長く生きる不死者だもの。仕事ぐらい何度も変わるわ」


「今は各地を回りながら、情報収集か?」


 リュデの顔から表情が消えた。


「図星、らしいな」


「何でそう思うの?」


「さっき舞台裏をのぞいた時にね。これまでの経験でわかるんだよ」


「あの短い間で? さすがね」


 リュデは長い瞬きをすると、その顔に微笑を浮かべた。


「それなら話は早いかもね。私達、今傭兵を集めてるのよ」


「傭兵を? また何で? どこかで戦いが起きてるなんて聞いてないが。それに傭兵を集めたいなら、旅芸人を装わずに堂々と募集したほうが集まるんじゃないか?」


「堂々と募集できないからこうしてるんじゃないの。これはまだ公にはできないことなのよ」


 ヴァレリウスは腕を組み、怪訝な目でリュデを見る。


「大っぴらにできないことを、しようと思ってるのか? あるいはもう、始めてるのか?」


「あなたが傭兵として来てくれたら、教えてあげるわ」


 リュデは微笑を浮かべる。それにヴァレリウスは小さく息を吐いた。


「悪いが、俺は仕事をしてるし、静かに暮らしたいんだ。もう剣を握る気はない」


「仕事って何をしてるの?」


「荷運びだ」


「へえ、それじゃあそんなに稼げないでしょう? 傭兵になれば今の二倍は稼げるはずよ」


「魅力的だが、俺にとっては今の生活のほうが大事なんだ」


「そうは言っても、やっぱりお金は大事でしょう? 稼げる時に稼いだほうがいいわよ。こっちとしても、傭兵や戦闘経験者は大歓迎だし、不死者なら尚更よ。つまりあなたは打って付けな人材ってわけ。どう? 考えてみない?」


 リュデの説得にヴァレリウスは首を横に振る。


「他を当たってくれ」


「本当に、興味ない?」


 聞かれてもヴァレリウスは無言でリュデを見返すだけだった。


「……わかったわ。続けても無理そうね。じゃあ私は消えるわ。でも万が一気が変わることがあったら、さっきの広場へ来て。私はしばらくあそこにいるから」


「期待するだけ無駄だぞ」


「それはどうかしら。人生、いつどんなことが起こるかなんて、誰にも、本人さえもわからないものよ。生活に困ったら、私のことを思い出してほしいわ。それじゃあね……」


 微笑する長し目を残し、リュデは道を引き返して去って行った。いつどんなことが起こるか――その言葉にヴァレリウスは何か不吉なものを感じたが、確かめる術などない。だが心には警戒感が募る。何も、起きなければいいが――願うような気持ちを抱き、借家へ帰るのだった。

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