傘を失くした

橘暮四

20歳 6月

 最愛の女を抱いた日の夜、僕は傘を失くしたことに気がついた。そのことは少なからず僕を動揺させた。その夜は酷く雨が降っていて、僕はそれに対処する手立てをひとつも持っていなかったからだ。僕の手もとには何もなかった。タクシーを呼ぶ金も、助けを求めることができるような友人や家族も。そんな僕を置き去りにして、雨は一秒ごとに強さを増しているようにさえ見えた。しばらくは降り止みそうにない。そして僕は何よりも、一刻も早くこの場から離れたかった。

 それだから僕は走った。十秒と経たないうちに全身が酷く濡れた。水を吸って重くなった服は僕の身体にぴたりと張り付き、肌の表面からじわじわと熱を奪っていった。そのくせ心臓はバクバクと動いて、身体の芯だけが燃えるように熱かった。十分な酸素を失った喉が締め付けられ、口の中に鉄の味が広がり始めたあたりで、僕は脚の動きを緩めた。もうこんなんじゃ走ったって意味がない。そもそも目的地すらないのだから。僕はゆっくりと身体を前に進めた。全身が重かった。まるで水中にいるかのようだった。光も届かないような、暗い海底。

セキ?」

 名前を呼ばれて振り返ると、傘を差した早苗サナエがいた。彼女は反対の手に僕の失くした傘を持っていた。そこで僕はようやく、その傘を彼女の家に置きっぱなしにしていたことに思い至った。

「よかった、もう、私心配したんだよ」

 彼女は手に持った傘を開いて、僕に差し出した。僕は、反射的にそれを手で弾いた。その傘は彼女の手を離れ、ふわりと雨の中を舞った。その姿は鈍色の空に紛れて見えなくなった。

 僕は彼女に背を向けて走り出した。それは最愛の女を抱いた日の夜だった。

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