盗撮
時無紅音
盗撮
上半身裸の湊が映っていた。手には脱いだばかりであろうシャツを持っていて、下半身にはまだ陸上部のユニフォームの短パンを履いている。部活から帰ってきて、着替えている最中らしい。中学に入ってから丸二年以上、半透明のカーテン越しにしか見れなかった景色だ。影の動きから想像することしかできなかったものだ。昨日湊の部屋に取り付けたカメラの映像は、窓から窓に飛び移ってまで設置した甲斐のあるものだった。直線距離は一メートルほどしかないが、湊の部屋の窓は僕の部屋のものよりも十センチほど高い位置にあって、左に二十センチほどずれている。湊の家に誰もいないタイミングを見計らって、日頃から開けっ放しにされている窓のサッシを掴んだ。足はなんとか自分の部屋にひっかけたまま。このままぶら下がってしまえば、僕の腕力では数秒で耐えきれなくなるのは目に見えていた。風が強かった。下には室外機があって、あの角に頭をぶつけたら大怪我は免れないだろう。死ぬかもしれない、と思った。理科の先生の話を思い出した。確実に死ぬためには六階以上の高さから落ちる必要があるらしい。けれど二階から落ちて死なない理由がわからなかった。地面が遠かった。心臓が絶えず跳ね上がっていた。空気が口からしか吸えず、肺が縮んで底が持ち上げられている気がした。意を決して、僕は自分の部屋の窓を蹴った。思っていたよりも、湊の部屋に入るのは簡単だった。
部屋の構造は以前招かれて入ったときと変化がなかった。左端に入り口があって、その右横に押入。右の壁際を埋め尽くすようにベッドがあり、ベッドと窓枠に挟まれるように机と椅子が置かれていた。窓枠を挟んだ反対側の壁、扉の正面には漫画ばかりの本棚がある。その上に積み上げられた教科書類が、本棚をU字に曲げていた。物は少ないが、服が散乱していて窮屈さを感じる部屋だった。
カメラを仕掛ける場所は決めていた。本棚の内側。超小型カメラだからよく見ないと分からないだろうし、湊が本棚の中身を見ることは滅多にない。取り付けて、自分の部屋に戻る。入ってきたときよりも簡単に飛び移ることができた。あとはパソコンを機動すれば、いつでも湊を見ることができる。
湊は今日もハードな練習をこなしてきたのだろう。四日後の土曜日には大会が控えている。無駄な脂肪はほとんどなく、お腹は線が浮かんで六つに分かれている。角度的に見えづらいが、ふくらはぎにはぱんぱんに肉が詰まっている。僕なんかはだるっとした、円錐のさきっぽを切り落としたようなようなつるつるとした足になっているが、湊のそれは側面に筋が走っていて骨と筋肉の境目がはっきりと分かる。僕の知っている湊と同じ人物であることが信じられないほどだった。
湊はシャツを壁に向かって投げ捨て、短パンに手を伸ばした。太股の形が分かるほどではないが、あまり生地に余剰はないように見える。加えて汗で肌との繋がりが強固になっているのか、脱ぐというよりも滑らせるように短パンは床に落とされた。湊は片足だけ短パンから抜き、もう片方の足首にかけたまま、ボールを蹴るように足を振ってシャツの上に短パンを乗せた。慣れた動きだった。いつもカーテン越しに見ていた足を振る動きは、このためだったらしい。
下着だけとなった湊はベッドの縁に腰掛け、五分ほどスマートフォンをいじっていた。僕はその間、じっとパソコンの画面を見続けていた。湊はおもむろにベッドの上に放置してあった部屋着を着て、電気をつけたまま部屋を出て行った。恐らく夕食を食べるため、一階のリビングへと降りたのだ。二年間、僕はずっと湊を見ていた。その程度の予想は簡単につく。
カメラがあるのは湊の部屋だけだから、食事の様子を見ることはできない。だが十五分もすれば戻ってくるだろう。湊には昔から、食べ物をよく噛まない癖があった。口にいれて二、三度顎を上下させたかと思うと、ごくりと喉を鳴らす。一度に口に入れる量も多く、山盛りのご飯を四口ほどで平らげてしまう。湊が教室でお弁当を食べているとき、一度計ってみたことがある。二つ後ろの席を覗き見るのは容易ではなかったが、音を聞けば湊がいま何をしているのか、手に取るようにわかった。食べきるのにかかった時間は六分四十八秒で口を開いた回数は七回だった。お弁当箱がどれくらいのサイズかは正確にはわからないけれど、机の半分ほどが埋め尽くされていたように思う。一時間半の朝練と午前の授業を終えたあとでそれだけのご飯が必要なのだから、午後の授業と三時間の放課後の部活をこなしたあとならば倍ほどはぺろりと食べてしまうのだろう。あれだけの量を食べるのに、いったい何故あんなにも引き締まった身体をしているのだろう。筋肉はついているはずなのに、むしろ日に日に痩せていっているようにすら見える。湊の専門は長距離走だから、理想的な体型だと言えるのだろうけど。
昔の湊は、あんなに痩せてはいなかった。休み時間のドッジボールなどで絶えず動き回っていたから、僕よりはしゅっとしていたけれど、今の湊は小学校の時とはかけ離れている。最後に湊の裸を見たのは修学旅行のときだった。別の班だったから一緒にいられた時間は少ないけれど、たまたまお風呂の組み分けが同じだったのだ。それ以前にも何度か湊の裸を見たことはあった。小学生の頃の僕たちはお互いの家を行き来することも多く、そのまま泊まっていくことも少なくなかった。お互いの前で平気で服を脱いでいたし、平気で同じ浴槽に入っていた。今後もきっと、何かの機会に目にすることはあるだろう。来週にはプールの授業も始まる。水着に着替えるとき、湊はタオルを巻かずに着ている服を堂々と脱ぎ散らかし、それから水着を着る。中一、中二とクラスが分かれていたから今はどうかは分からないけど、湊ならばきっと相変わらずだろう。
最後に湊の裸を見たとき、股間にはもう毛が生え始めていたのをよく覚えている。すぐ泡に包まれて隠れてしまったし、ほんのわずかに肌が黒ずんで見える程度にしか生えていなかったけれど、心臓をやすりで撫でられたような心地だった。もう二度と湊に触れることすらできないような、そんな気がした。四年生くらいまで同じくらいの身長だったのに、今はもう頭一つ分ほど湊の方が高い。どんどん筋肉もついていく。顎にも黒いとげのようなものが生えている。僕の身体には、まだ何もないのに。
湊はどんどん変わっていく。この頃の湊は会う度に背が伸びている。湊の顔を見ない日なんてないし、一日で急激に伸びるなんてありえないのに、そんな気がする。今の湊は、僕が知る湊とはかけ離れている。
予想よりも早く、十分で湊は部屋に戻ってきた。湊が僕の家によく遊びに来ていた小学校時代のデータではあるが、焼き魚のときには遅く(骨を取り除くのが苦手で、いつもぐちゃぐちゃにしていた。その度に誤魔化すように笑うのだ)、お肉のときには早くなる傾向がある。今日の晩ご飯はお肉だったのだろうか。赤身肉の方が湊の好みではあるが、食べる早さであれば多少脂の乗った肉だ。リビングにもカメラをつけるべきかもしれないが、湊の両親や妹への申し訳なさが勝った。お風呂なんかも同様だ。ひとまず今は湊の部屋だけで満足するとしよう。
ハードルを飛ぶときのような体制で、しかし緩やかに、湊はベッドにダイブした。無地の白シャツがめくれて、左のわき腹が露わになっていた。無防備な姿だった。当たり前だが誰に見られることも想像していない格好だ。またスマホをいじっている。カーテン越しではベッドの上に寝転んでいるのであろうことがかろうじて分かるだけだから、そういうとき、湊がスマホをいじっていることを僕は知らなかった。昔は晩ご飯を食べたあとはゲームばかりしていたのに、今は指の動きから察するに誰かとメッセージのやりとりでもしているのだろう。湊と最後にやりとりをしたのはいつだったか。授業などで必要なものを除いて、最後に喋ったのはいつだったか。どれだけ願っても僕には叶わないのに。どこかの誰かは、それを簡単にやってのけてしまうのだ。修学旅行の班だって同じがよかったのに、湊の元にはいつもみんなが集まるから、そこに僕の入る隙間はなかった。
てろん、とどこからか、LINEの通知音がした。カメラには音声を拾う機能は備わっていない。いくら部屋が隣接してるからといって、僕の部屋にまで湊のものが聞こえてくるはずもない。ーー僕の部屋だ。僕の部屋で、僕のスマホが鳴っていた。
「日曜、暇か?」
「暇だったら、カラオケでも行こうぜ」
二年前で止まっていたLINEに、新しいメッセージが届いていた。
僕は途端にすべてが恥ずかしくなった。明日にでも、カメラを回収しようと思った。
盗撮 時無紅音 @ninnjinn1004
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