時無紅音

『ベランダ』(時無紅音)








































 五月の終わりのことである。茶色い柵とその両側にある白い塀、両隣の部屋との敷居で囲まれた、人一人が寝ころべるほどの広さのベランダの隅の、室外機の横に木の枝が溜まっていた。部屋からは死角になっている位置であったため、私は洗濯物を干すためにベランダに出て、ようやく枝の存在に気がついた。直径一センチほどの枝が、雨水を逃がすための溝を埋めるように積み重ねられており、その上に五、六本の枝が投げ捨てられたように配置されている。物干竿にかけていた虫除けのプレートも隣に落ちており、近頃の強風でどこからか枝が飛んできたのかと思ったが、私の家は五階である。万が一飛んできたにしても一カ所に固まっているはずもない。誰かが作為的に私のベランダに枝を捨てているのだ。位置的には左隣の住人がだろうが、そんなことをする理由が分からない。ともかく、放っておいても問題はないだろうし、と私は洗濯を再開した。

 三日間の東京旅行で溜まった洗濯物もあとシャツ一枚、となったところで彼はやってきた。ばさばさと音を立てながら、ベランダの塀をか、と鳴らして三本指の足で掴み、広げていた翼を身体の横にしまうと、はっきりと私を見た。りんごのような目、と思った。色づき始めたばかりのりんごをがぶりとかじり、中心を真っ黒に塗りつぶした目。それが二つ、私を見ていた。手土産のつもりか自分の三倍ほどの幅のある枝をくわえている。日に焼けたアスファルトのような色の半分空気の抜けたラグビーボール大の身体。その先端に管を垂直に立て、手を広げてつかめば握りつぶせそうな頭が乗っている。身体には白い斑点がぽつぽつと浮かんでいて、羽は親指の爪ほどの楕円がいくつも重なってできていた。楕円の先だけは熟れすぎたアボカドのようなくすんだ赤色に染まっており、腕は胴体から数センチ浮いている。身体の顔のないほうの先端は、長い毛が何本も合わさって薄く平らに広がり、向こうの景色が透けて見えていた。

 彼は挨拶をするように頭を下げたかと思ったら、上半身を反らして落下した。両肩を持ち上げてから腕を顔の横に広げると、腕の内側にはびっしりと毛が生えていた。空気を抱き抱えるように腕を緩く丸めて速度を落とすと、体勢を水平に戻して着地し、そのまま身体の大きさに似合わないペンギンのようなよちよち歩きで、かっかっと床をひっかきながら、大きく胸を張って、室外機の方に歩いていく。くわえていた枝をぽ、と落として私のベランダにまた一つ、ゴミを増やした。彼は私に背中を向けて室外機に飛び乗ると、その上をかんかん鳴らしながら歩き始めた。片足をゆっくり上げると、腹の真ん中についている足を勢いよく腹の先端、頭の下あたりまで移動させる。かなりの内股で、足は必ず自分の身体の真ん中を通る位置についていた。

 彼は室外機の上で数秒立ち止まると、枝に似た色をした塀にぴょんと飛び乗り、羽を広げて私のベランダから出て行った。私は彼を見守ってから、最後のシャツを干した。

 その後もベランダでは度々羽音がしていた。どこかに羽をぶつけているのか、だん、だん、と叩くような異音も混じっていた。私はその度に窓の近くに立って、彼を眺めた。彼の目は常に綺麗な円をしていて、黒目には光がなかった。そのせいでどこを見ているのか判別がつかない。私を見ている気もするし、洗濯物を見ている気もする。彼は枝を一つ運んでくる度にベランダを十秒ほどかけて楕円を描くように歩き、それを三回繰り返した。その間、目は一度も動かなかった。ただ肉体にくっついているだけで、模様のようですらあった。歩き終わったあと、彼は溜まった枝の真ん中に数分じっと立って、それから飛んでいく。その間も目は動かないままだった。何度彼を見ても、目は合わなかった。


 次の日、彼は友人を紹介してくれた。私は友人を見て、タバコ、と思った。先日帰省した際に地元の友人が吸っていたタバコのパッケージに似た色が、首筋にぐるりと一周広がっていた。ベリーとメンソールの二つのカプセルが入ったタバコで、私は禁煙すると決めたばかりであったが、カラオケの喫煙所で一本もらった。カプセルをつぶそうとして爪を立てたが、場所がずれたのかうまく潰せずにフィルターの部分がくしゃくしゃになった。最も皺の寄っているところに、確かにカプセルの位置を示す円が乗っている。一つ目のカプセルを潰すのに、三度爪を立てる必要があった。二つ目には二回かかった。フィルターに五度の攻撃を受けたあとのタバコは先端が垂れ下がっていた。まだ火もつけていないのに。

 そのタバコの、彩度の高い黄緑と濃いピンクの、怪しげパッケージはコンビニで会計をする時にも簡単に見つけられる。目に焼き付いたように離れないのだ。青々とした植物と、水分の詰まったラズベリーとかザクロとかを思い起こす色。その二色のグラデーションだった。オーロラにも似ているかもしれない。実物を見たことはないが、明け方の、少し白みだした夜空に浮かぶオーロラはあんな感じじゃないだろうか。彼の友人は、喉仏のところが黄緑で、首の付け根にピンク。自然界にはおよそ存在しそうもない色だった。熱帯魚のようでもある。つるっとした、毛の存在を感じさせない胴体も相まって、水辺に住んでいてもおかしくない。羽は毛先だけ色が薄くなっている。切れ目はわかるものの、やはり毛が生えているようには思えない。むしろ何枚も楕円が重なっている様子は鱗に見えた。ペンギンが鳥類であることを、私はようやく信じることができた。彼の友人は彼と似た身体の色だが、お腹の部分だけ汚れた白の絨毯のような色をしていた。昨日と違って彼らは枝をくわえておらず、代わりに溜まった枝の上でつるりとした翼を密着させていた。

 私は彼らをもてなそうと、押入から紙皿を取ってきた。いつ何のために買ったかもわからないし、包装が破れているため衛生面にも問題がある。そう使う機会もないだろうから、ちょうどよかった。冷蔵庫から米の保存容器を取り出し、付属のカップで一合を計り取った。紙皿に乗せると、色が似ているため本当に乗っているのか不安になるが、揺らすとかさかさと音を立てるから多分乗っている。

 彼らの前に差し出すと、お腹の白い方がすぐに首を下げた。お礼を言っているようだった。私がどうぞと紙皿を押すと、くちばしでつつくような仕草を二、三度したが、結局は食べずに毛をぶわりと広げて丸まった。もう一人の方は巣から出て紙皿に乗り上げると、同じように何度かつついてから、ひったくるような俊敏さで米を一粒くわえてくちばしの内側に仕舞った。彼らのくちばしは、下唇の方が二倍ほど大きい。受け皿の役割を担っているのかもしれない。その代わり上唇は猫の爪のように鋭くなっていて、先端の数ミリだけ真下に曲がっていた。唇の上には数ミリほどの大きさの白い丸が二つ並んでついており、鼻だろうと推測できる。一人が食べ始めると、先ほどは食べなかったもう一人も米を啄みはじめた。頭を大きく下げて食べるものだから、背中も併せてスキージャンプの台のような形を成していた。

 五分ほど夢中で食べたあと、彼らは枝の上に戻った。皿の上にどれだけ米が残っているのか、はっきりとは分からなかったが、全て平らげたわけではなさそうだった。

 彼らは鳴きもしないし、枝の上から出ることも滅多にない。一度枝の上に留まったら、数時間経っても変わらない姿で座っている。胸の辺りが絶えず小刻みに盛り上がっては縮むだけで、顔の向きも変わらない。見つめ合うこともなく、ただ羽を寄り添わせていた。


 色の抜けた腹の下に卵があった。巣ができて一週間ほど経った、六月が始まる朝のことだった。私はこのところ、朝起きてすぐと夜寝る前にベランダを見るのが日課になっていた。大抵、朝と夜はどちらか一人しかいない。夕方に確認すると揃っていることも多いから、そこが交代の時間なのかもしれない。

 彼らが夫婦であり、子育てのために私の元へやってきたことには数日前から気付いていた。スマホで調べたところ、頭の形に性差があるらしい。二人が揃っているときによく観察していると、腹の白い方はくるりと丸まっているのに対し、もう一人はおでこの辺りがつぶされたように平らになっていた。腹の白い方が、奥さんである。

 昨日の夜には、まだ卵はなかった。自信はない。寝る前に見るのはほんの数秒で、しっかりと観察していればもっと前に発見できていたのかもしれない。毛の固まりに包まれた卵は白というより、薄い雲が広がった空のような青色だった。

 彼女は窮屈そうに身体を丸めていた。私のせいであった。昨日、私は彼らの排泄物や身体についたダニが私にとって害であることを知った。心苦しくはあったが、追い出すしかなかった。私は部屋に散らかっていた酒の空き缶を四つほど彼らに向かって投げた。彼らはどれだけ近くを缶が通っても微動だにしなかったが、身体に当たりそうになると瞬時に羽を広げて室外機の上へと避難した。お腹の白い方は、二歩だけ室外機の上を歩いてから、羽を広げてベランダから飛び降りていった。缶は一つも彼らに当たらなかったが、枝を囲むように四カ所に散らばり、うち一つ(500mlの缶だった)は枝の上に半身が乗った。残りの三つは枝の周りに築かれたバリケードのようになっていた。彼は自分の身体のよりも一回り小さい缶を足や羽で動かそうとしていたが、大半を押し出すことに成功したものの、缶はまだ、底の窪んだ部分が枝の上に残ったままだった。彼は狭くなった枝の上で身体を丸め、じっとその上に立った。

 私は、せめて枝に乗ってしまった缶だけでも回収しようと手を伸ばしたが、彼は立ち上がり、毛をぶわりと広げ、身体をもこもこさせた。日頃の彼らは、尻尾を除けば毛の存在を感じられない。だが彼には、びっちりと毛が生えていた。頭は元のつるっとしたままだが、首より下は無数の針が刺さった針山のようになっている。毛色は普段よりも白く見えた。彼はゆっくりと羽を開いていき、そこにももちろん、毛が広がっている。彼と目が合った。相変わらずどこを見ているのか分からなかったが、私を見たような気がした。私が手を引くと、彼はまたつるっとした。

 二人が揃ってからも、缶は足先だけ枝の上に残ったままだった。並んで座ると毛をこすり合わせるようにしてようやく枝の上に収まるほどの大きさしかない。彼女はそんな中に卵を産み落としたのだ。私であれば、いつ見知らぬ人に攻撃されるとも知れぬ土地で、実際に一部を占領された家で、子供を育てることはできないだろう。彼女は卵を、大事そうに腹の毛で包んで隠していた。


 彼らが帰ってこなくなって、三日が経過した。六月の中頃だった。私が目を覚ますと、枝の上には卵がむき出しで、中心のくぼみに大切そうに置かれていた。卵は常に彼女の腹で隠されていたから、全容を拝むのは初めてだった。親指と人差し指をくっつけてできる円ほどの大きさしかない卵は、以前よりも青みがかって見える。

 私はようやく巣の上の缶を回収することができた。枝の奥にある排水溝にはもう一つ卵が落ちていて、私はようやく、卵が二つあったことを知った。

 奥にある卵は殻の一部が切り取られていた。ぎざぎざと、そこだけ砕け散ったようにぽっかりと穴が開いて、黄身が見えていた。黄身には赤い稲妻のようなものが走っていた。のぞき込むと、卵の中で米粒ほどの大きさの黒い何かが動いている。虫だった。足が六本あり、上半身は凸のような形をしていて、下半身は上半身を丸く膨らませたものが逆さまについている。黄身をベッドにでもしているのか、真ん中で気持ちよさそうにくつろいでいた。

 外傷はないように見えるが、もう一つの卵もだめになってしまったのだろう。そうであっても、一度温めるのをやめた卵が孵ることはないのを私は知っていた。家を荒らされ、子供を食い散らかされた彼らは、きっともう帰ってこない。三日経っても帰ってこなかった。

 部屋に戻って、静かになったベランダに向き合うと、そこには糞の一つも落ちていなかった。枝の固まりや私が投げた缶、紙皿以外は彼らが来る前と変化がなかった。いつかの雨に濡れてぐちゃぐちゃになった紙皿は彼らの毛と似た色をしていて、まだ米が半合ほど残っているのが一目で分かった。彼らはもう、帰ってこない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

時無紅音 @ninnjinn1004

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る