第26話 母と子

 物凄い速度で美夜子が走っていた。

 白い通路が目まぐるしく過ぎていき、時折角を曲がっては同じような通路を駆けていく。

 自動ドアがスライドし、倉庫のような部屋に入ると俺――日向はようやく美夜子の肩から下ろされた。


「み、美夜子……」

「ごめんね。巻き込んじゃて……私のせいで、私がもっと気をつけていればこんなこと……」

「そんなことないよ。俺の方こそ、浮かれてた。CRATに狙われてるってわかってたのに、こんなことになるなんて思わなかった……」


 あのとき、俺がちゃんと美夜子の手を握っておけば、美夜子は鬼の力を使わずに済んでいた。

 車道に出た子供は事故に遭って死んでしまうかもしれないが、それでも俺は美夜子の手を握っておくべきだった。そしたら今ごろ……いや、違うか。手を握っていたとしても美夜子のことだ。俺の手を振りほどいて子供を助けていただろう。


「なんでこんなことになったんだ……? ただ普通に楽しい時間を過ごしたかっただけだぞ」

「日向、落ち着いて聞いてほしいことがあるの」

「ん……?」


 俺がやり場のない感情に苛まれていると、美夜子がしゃがみ込み、赤い瞳で見上げてきた。


「私、虚構魔境を使うと魔力の消費が激しくて……ああ、虚構魔境っていうのは、この研究所みたいに本来存在しないものを特殊空間として造り出す魔術のことね」

「すごいな、美夜子は。こんな魔術が使えて」

「うん。でもね、魔力の消費が激しいから気軽に使えないの。それに虚構魔境を解いたら、今度はもっと追い詰められると思う。CRATの応援も来るだろうし、私を殺すために戦闘もどんどん激しくなる。そうなったら……今度は日向を護れない」


 赤い瞳が不安そうに揺れている。表情も曇って辛そうだ。

 そんな美夜子を見ているのが苦しくて、俺は必至に考える。


「何か方法はないのか……何か……変身の妙薬がないって話だったけど……」


 そうだ、確か同じような妙薬があるって言ってたよな?


「あるんだろ? この状況でも使える妙薬が」

「ひとつだけ、あるけど……」


 どういうわけか、美夜子は今にも泣きそうな顔になってうつむいてしまう。


「どうしたんだ?」

「この妙薬は姿を変えるモノなの」

「姿って……犬とか猫とかになるのか?」


 俺の問いかけに「ううん」と美夜子は首を横に振ると、静かに口を開いた。


「若返るの。たぶん、子供の姿になると思う……もしあの妙薬を使ったら私、日向のママじゃなくなっちゃう……」


 子供になるからママじゃないなんて些細なことだろ。CRATに殺される方が問題だ。

 俺はそう思うと、膝をついたまま動かない美夜子の頭を抱きしめた。


「大丈夫だ。お前がどんな姿になっても俺の気持ちは変わらない」


 この言葉は日向としてのじゃなくて、永守真昼としての本当の気持ちだ。


「ずっと好きなままだよ。子供ならちょうどいいじゃないか。もうCRATに追われることもないし、一緒に学校にだって行ける。もう親子には見えなくなるかもしれないけど、きっと楽しい毎日が待ってるよ。だから美夜子、安心して使ってくれ」

「ふふっ……やっぱりセンセの子供だね。私が喜ぶ言葉ばっかり言ってくる……」


 嬉しそうに呟くと、美夜子は俺を優しく引きはがした。真剣な色を乗せた瞳と目が合う。


「じゃあ今後のことを説明するね」

「ああ」

「この若返りの妙薬を飲むと、私は小学校の低学年くらいの姿になるんだけど」


 空間をくりぬくように現れた小さな黒い穴に手を差し込み、美夜子は試験管を取り出してみせた。


「それでね、髪の毛の色が黒から金髪になるの。これは妙薬研究所ミョウヤクラボラトリーが覚醒する前だから金髪に戻るって感じかな」

「美夜子って元々金髪だったのか……知らなかった」


 俺の前世のときから赤いメッシュは入っていても黒髪だったし、あのときにはすでに覚醒してたんだな。


「これで見た目は幼くなって髪の色も変わるし、それに妙薬研究所ミョウヤクラボラトリーが覚醒前だから魔力探知にも引っかからない。そうなると、私はSSSランクの鬼じゃなくて、ただの鬼の女児になるの。だからもうCRATに狙われることはなくなるよ」


 理屈はわかった。ここまですればAIシロネの探知にも引っかからないってことは。


「だけど、覚醒したらどうなるんだ……?」


 疑問に思って聞いてみると、美夜子はひとつ息を吐いてから返答する。


「そのときはまたCRATに追われることになる。だからタイムリミットは私が妙薬研究所ミョウヤクラボラトリーに覚醒するまで」

「具体的な時間は? いつ覚醒したんだ?」

「大丈夫。日向が大人になるくらいは時間があると思うから」

「結構あるな……」


 てっきり十年もないと思ってた。だって美夜子は高一のときから黒髪だったし、もっと早く覚醒しているとばかり……もしかして、こいつ鯖読んでたのか?


「美夜子って本当は何歳なの?」

「恥ずかしいから秘密だよ。それより手を出して。譲渡するから」

「ああ」


 言われるがまま手を出すと、美夜子の手が重なった。するとその瞬間、ぴりりと痺れるような感触した。


「え、なに……!?」

「これで妖刀、鬼切景光の所有権と私の予備の異空間が日向のものになったよ」

「なん、で……?」


 ひっかかる。違和感がする。

 なぜ、そんなことするんだ。美夜子が持っていればいいだろ。俺より美夜子の方が戦えるんだから――


 ドゴゴゴゴォォォォォォォォォ……!


 突然、研究所が揺れた。


「私の兵隊がやられたみたい……この分じゃ隔壁も破られてるね。急がなきゃ」

「おい、美夜子。なんで所有権を俺にしたんだよ……」


 問いかける俺をよそに、美夜子は試験管の中身を飲み干した。

 その直後、美夜子の身体が縮み、それと同時に髪の毛も黒髪から金髪に染まった。

 優しげな顔は幼くなり、背丈も今の俺より少し低い。だが姿は小学校低学年でも愛しそうに俺を見つめる瞳は前と変わらなかった。

 美夜子の姿が変わって一拍置くと、研究所特有の無機質な空間が歪む。


「これは……」


 俺は息を飲んだ。

 その直後、研究所が一瞬でお洒落なアパレルショップに変化した。美夜子が妙薬研究所ミョウヤクラボラトリーの覚醒前に戻ったことで特殊空間が崩壊したようだ。


「日向、もう時間がないからよく聞いて」

「確かにな。すぐにCRATが来るだろうし……」

「うん、そうだね。でも私が言いたいことはもっと別にあるの」


 唇を引き結び、美夜子は何かを恐れるように小さく震えた。


「この妙薬……若返るかわりに記憶がなくなる副作用があるの」

「え……?」


 足元がぐらっとした。あまりのショックで立っていられなくなって、俺は膝をついた。美夜子も膝をついて相変わらず優しげな、でもちょっと寂しそうに微笑んだ。


「ごめんね。私、母親なのに最後まで面倒見てあげられなくて……」

「なんでだ!? なんでそんな副作用があるのに使った!?」


 今さらだ。今さら言っても遅いのに訊かずにはいられなかった。


「生きるためだよ。生きて、これからも日向のそばで暮らすためだよ……でも」


 美夜子の頬に一滴の涙が流れた。


「やっぱり悔しいなぁ。初めてのお出掛けがこんな形で終わって……いい思い出になるはずだったのに、ごめんね」

「謝らなくていい、謝らなくて……っ」

「まだいっぱい日向と行きたいところあったのに……映画館でしょ、ゲームセンターでしょ、また二人で繁華街を歩いてショッピングもいいし、あとお洋服を一緒に選んだりしたかったなぁ」

「俺も行きたかった。美夜子と一緒に、また……」


 でもそれは叶わなくなる。記憶がなくなったら今までみたいにはいかなくなるだろう。

 頭ではわかっていても、俺は心で否定した。


(こんなの嘘だ! 何かの間違えであってくれ!)


 美夜子の手が俺の頬に優しく触れた。


「日向はさ、将来どんな大人になるのかな? 私とセンセの子供だから顔もスタイルだってよくなるだろうし、モデルとか? そうなったら女の子にキャーキャー言われちゃいそう。ふふっ」

「うん……」

「あー残念だなぁ。もっと一緒にいたかったなぁ……運動会にも授業参観にも行ってあげられなかったど、日向の成長をずっと見てたかったよ……」


 優しい声だ。どこまでも慈愛に溢れていて、なによりも温かい言葉だった。

 瞳を潤ませ、涙をこぼしながらそれでも美夜子は微笑んでいた。


「変わらないから……記憶がなくなっても、私は日向のこと先生センセと同じくらい愛してるよ」


 日向もセンセもって、どっとも俺じゃねぇか……!

 そう思った瞬間、俺は口を開く。


「美夜子、俺だってお前のことを――」


 だが俺の言葉の途中で赤い瞳から慈愛の光が消え、美夜子が不思議そうに首を傾げた。


「お兄ちゃん、だぁれ?」

「ぁ…………」


 他人に向けるような目になっていた。純真無垢な表情で、俺の顔をぽかんと見ている。

 俺はあまりのショックに絶句し、両手で頭を押さえた。

 こうして俺と美夜子の平和な日常は終わりを迎えたのだった。


 ――――――――――――――――――――

 ここで二章は終わりです。

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