1章 レジスタンス・ラブ
第2話 教え子の誘惑
時刻は十七時を過ぎようとしていた。
普通の会社だと今くらいに退社するが、理科教師の俺――
雑然とした理科準備室のデスクで黙々と事務作業。カタカタとキーボードを鳴らしては、時折コーヒーを飲んでほっと息をつく。放課後なのに仕事が多い。
「…………」
目を休めるためにパソコンの画面から視線を上げると、女子生徒が真面目に大学入試の練習問題を解いていた。
赤みがかった瞳は伏し目がち。黙々とシャーペンを動かす姿は彼女の端正な顔立ちと合わさって美人秘書のようだ。ただ格好は
彼女は、
(頑張ってるな……まぁ受験生だもんな……あ、コーヒーもうないな)
辻中の勤勉さに感心しながらコーヒーカップを傾けると、中身が空になっていた。
「もう一杯追加だな。まだ仕事終わらないし」
そう言って俺が椅子から立ち上がると、問題を解いていた辻中のシャーペンがぴたりと止まった。
「ねぇ、センセ」
「なんだ? お前もコーヒーおかわりか?」
「違うよ」
「じゃあなに?」
澄んだ瞳が俺を見据える。そして綺麗な唇が開くと、
「センセって、私のこと好きですよね?」
なんて言ってきた――って、は? え、辻中? 好きって恋愛の好き? それとも教え子として? いや、落ち着け俺は教師だ。恋愛の好きは、ない。
ちょっとびっくりしたが、俺は電気ケトルを置いてあるテーブルに向かいながらひらひらと手を振った。
「あーはいはい、好きだぞ、教え子としてな」
「一瞬、迷いましたね」
「そんなことないよ」
俺はそう言うと、天然水のペットボトルからケトルに水を入れ、お湯を作っていく。
「でも、普段のセンセ、私のことばかり見てると思うんだけどなー」
「思い上がるなよ。そこまで見てないよ」
「じゃあ、ちょっと思い出してみてくださいよ、私との思い出を」
「まぁそこまで言うなら……」
インスタントコーヒーをカップに入れながら記憶を
それは辻中が一年生のときだった。
辻中は親の負担を少しでも減らしたくて、授業料が免除される特待生でいつづけたいという。だが結果を出せなければ特待生から外されるから困っていた。
そういうわけで、辻中は担任の俺に相談してきた。
「センセ、どこか落ち着いて勉強できるところってないですか?」
「自分の家ですればいいだろ」
「えー、ちょっとそれは無理かなぁ。うちって一応飲食店だから、そのお手伝いをさせられるし。土日だったら時間があるからいいけど平日はちょっと無理ですね……」
成績が落ちると特待生でいられなくなるから勉強しなきゃならないって親御さんに話せばいいだろうに……いや、そうできないから困っているんだろう。辻中って頼まれたら断れないタイプっぽいし。じゃあ、俺が面倒見るか。
「理科準備室が俺のオフィスみたいなところだから、そこを使うか?」
「え? いいんですか?」
「ああ。教師として生徒の努力は尊重したいしな」
「ありがとうございます。センセ」
こうして辻中が理科準備室に来るようになった。
だがある日、ヤバい事態が起こった。
それは土日も忙しくて出勤し、十連勤くらいした放課後のことだった。
俺は職員会議を終え、ふらふらになりながら理科準備室に入った。
「センセ、お帰り」
笑顔で出迎えてくれた辻中に、おぉ、と素っ気なく言って席に着く。天井を仰ぎ見るように、背もたれにどっと背を預けた。
「お疲れのようですね」
「あぁ……見ての通りな。ちょっとだらしないかもだけど、許してくれ……」
「大丈夫ですよ、私、そのくらいじゃ気にしませんし。むしろ……」
辻中が席から立ち上がり、俺の後ろまで歩く。
「頑張ったセンセに、私からご褒美をあげちゃいます」
「え? ご褒美……?」
なんだろう……と思っていると辻中が俺の頭を抱えるように優しく腕で包み込んでくる。後頭部に柔らかいモノがふにっとあたる。思ったよりも大きいその胸の感触に俺は驚き、金縛りにあったように固まった。
「よぉしよしよし、センセえらいねぇ~」
頭を撫でられた。
「今日も職員会議頑張ったね、センセ。えらいえらーい。よしよーし、えらいよぉ~、うんうん」
な、なんだこれは……とろけていく。俺の疲れた心が
「センセはいっぱい頑張ってて、授業も面白いしぃ、教え方も上手だしぃ、すごぉくカッコいいね」
おいおいおい、全肯定じゃん。しかもこの褒め方は、ママ!? いや、ママ以上だわ、俺、母親にここまで褒められたことないもん……!
「理科準備室の火元責任者だってしてるしぃ、授業の準備とかぁ、テスト作りとかぁ、いっぱいやること多いのに頑張ってえらいねぇ、いつもお疲れ様、センセ」
ああ、嫁にほしい。嫁にほしい癒しだ。甘い声で褒めてくれて癒してくれて、こんな子と結婚できたらどんなに幸せか……いや、ダメだろ! コイツは教え子だぞ! 冷静になれ!
この後、俺はもったいないと思いながら辻中のママムーブを振り切ったのだった。
コーヒーを
「すぅーふー……危なかったな。教師と教え子って関係じゃなかったらあのとき……」
「あのとき?」
「う……別になんともないよ」
ニヤニヤしている辻中を尻目に、俺は熱々のコーヒーにふーふーと息をかけて冷ます。
(一旦落ち着こう……)
だがコーヒーを口に含んだとき、ふと思い出した。
それは辻中が二年生になったばかりのこと。
勉強ばかりしている辻中が根を詰めすぎているように見えた俺は、息抜きになればと部活を勧めた。
「んー、運動部は今さら入ると人間関係が出来上がってて入りづらいし、時間も取られるから無理ですね」
「じゃあ料理部は? 俺が顧問してるんだけど」
「ふーん……そうですねぇ」
理科準備室のデスクに広げたノートに視線を落としたまま、辻中が考えを巡らせていく。
迷ってるな。よし、もう一息だ。この子に勉強ばかりの寂しい青春を送らせないためにも、どうにか入ってもらいたいな。
俺は微笑みながら料理部のメリットを言ってく。
「ほら、活動も不定期で毎日するわけじゃないからそんなに時間も取られないし、それに料理って頭の体操にもなるんだぞ」
「ふーん」
「料理をすると前頭葉が活発化して頭の回転が速くなるから、きっと勉強にも役に立つし、なにより美味しいものを食べたらモチベーションもアップするし――」
「ふふっ」
不意に辻中が笑った。
「なんだよ? 何かおかしいことでも言ったか、俺」
「いやぁもうね。センセってば必死に私のこと誘っちゃって。一生懸命な姿が可愛くて仕方がないっていうか」
「別に必死ってわけじゃ……」
「いいでしょう。そこまで言うなら入ってあげます」
口ごもる俺に向けて、辻中が悪戯っぽく笑ってみせる。
なんだか敗北感があるが、これで辻中が料理部に入部してくれた。
そして辻中が入部後、初めて作ったものは、
「はいセンセ、どうぞ。これ、私が作ったマドレーヌです」
洋菓子だった。
他の部員の女の子たちと楽しそうに作っていたものだから……なんというか、眺めが良かった。やっぱりこの方が健全だよな。俺と一緒に理科準備室に閉じこもって勉強するより、みんなで楽しく過ごす方が何倍もいい。
「ありがとう、辻中」
「うん」
「でもなんで、マドレーヌなんだ? 辻中の入部記念だから辻中が何作るか決めていいって話だったよな?」
家庭科室の椅子に座りながら俺がそう訊くと、辻中がちゃっかり俺の隣に座ってきた。
「ふふん、それはですね……センセってコーヒー好きでしょ?」
「ああ」
「実は私もコーヒーが大好きなんですよ。だからコーヒーに合うお菓子を選んだってわけです」
「へーそうなんだ………ん」
マドレーヌをかじるとしっとりとした食感と一緒に、バターのいい香りがした。すっきりとした甘みが口いっぱいに広がり、焼き菓子特有の香ばしい匂いが鼻から抜けていく。
「すごい。ちゃんと甘いのにしつこくないぞ。お店で出るようなクオリティーだな、これは」
俺は微笑みながらコーヒーを口に含む。
ほどよい甘さのあとにくるコーヒーの苦み。正直癖になった。もし辻中みたいなお嫁さんをもらえたら毎日これが食べれるのかな? やっぱ……嫁にほしいわ――
「はっ!?」
気づけば嫁にほしいと思っていた。
俺は理科準備室の椅子に座ったまま頭を抱える。
ヤバいぞ……これ、絶対教え子に抱く感情じゃない。しっかりしないと。いやでも……。
「ああ……やっぱり、コーヒー飲んでるとマドレーヌが食べたくなるな」
「私に告白してくれれば明日にでも作ってあげますよ」
辻中が三年生になった今では、俺の気持ちは見透かされていた。
正しくは恋人じゃなくて嫁にほしいと思っているが、本当の気持ちの方がもっとヤバいのでちょっと気まずくなって咳払い。
そんな俺の仕草に脈ありだと思ったのか、辻中がさらに追撃してくる。
「ちなみに私、尽くすタイプですよ? 付き合ったらいっぱい甘やかしてあげますし、色々お得だと思うんだけどなぁー」
「お得だと……?」
確かに辻中には実績がある。前に俺を癒してくれたあのママみを味わえるなら、ここで告白してしまった方がお得だ。
だが教師としての理性でなんとか踏みとどまる。
「だ、ダメだ……俺たちは教師と生徒なんだぞ」
「もう私三年生ですから早く付き合わないと終わっちゃいますよ。教え子との秘密の関係は賞味期限が短いんですから」
「秘密の関係……」
「あ、今ちょっと揺らぎましたね。口ではダメだと言っておきながら正直な反応ですねー」
「ああもうっ、うるさいな。とにかく付き合わないから、黙って勉強の続きでもしてなさい」
「そっか。ふーん、じゃあいいです。私も暇じゃないので、付き合う気がない男にいつまでも構っていられませんから」
急に素っ気なくなった辻中は、再びノートに向かってシャーペンをカッカッと動かしだした。
やっぱり学生の気まぐれか……きっと秘密の関係っていう刺激が欲しかっただけなんだろうな。
ちょっとだけ残念に思いながら俺もパソコンに視線を向け、淡々と事務作業を続けた。
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