第26話 琴線



「今日は、いろいろ迷惑かけてごめんね? 服とかシャワーとか借りるだけじゃなくて、急に泊まらせてもらうことになったりして。……それと、風呂場でのことも」


 そう言って、少し離れたところに座った古賀さんに向かって、頭を下げる。古賀さんはまだ少し頬を赤くしたまま、気にしなくていいよと首を横に振ってくれる。


「いいよいいよ、謝らなくて。そもそも、あたしが天音子先輩に落葉くんのこと話しちゃったから、サッカー教えるなんてことになったんだし。それに風呂場のあれは……美海子のせいだから、落葉くんが謝る必要はないよ」


「そう言ってもらえると、助かるけど……」


 まあ、風呂場でのことは、もう思い出すのはやめておこう。あれは、思い出すだけで心が擦り減る思い出だ。俺は目を瞑り、記憶を消す。……いや無論、そんなロボットみたいなことはできないけど、とりあえず今は消したということにしておく。


 古賀さんはこほんと小さく咳払いをしてから、綺麗な栗色の髪を耳にかける。


「それより、こっちこそいろいろ迷惑かけちゃってごめんね? 明日も学校あるのに、急に泊まっていけなんて言ったりして、迷惑だったよね?」


「いや、そんなことはないよ。正直、こんな雨の中帰るのは面倒だなって、思ってたところだし」


「そう? それなら、よかったよ」


「…………」


「………………」


 そして、しばらく沈黙。激しい雨音だけが、静かなリビングにただ響く。さっきの着替えのことがあったせいか、なんとなく俺も古賀さんも少しぎごちない。


 ちなみにことの発端である美海子ちゃんは、「あとは若いお二人で」とかなんとか言って、自室の方に戻ってしまった。あの子は、本当に自由だ。……別に、見習いたいとは思わないけれど。


「ねぇ、落葉くん。久しぶりに二人で一緒にゲームしない?」


 と、長い沈黙を気まずいと思ったのか。古賀さんはソファに両手をついて、身を乗り出すようにしながらそう口を開く。風呂上がりだからか、シャンプーのいい香りが漂ってきて、俺はつい視線を逸らしてしまう。


「……ゲームか。そういえば昔はよく二人でやったよね?」


「うん。だからどうかなって思ったんだけど……嫌かな?」


「嫌じゃないよ。俺も久しぶりに、古賀さんとゲームしたい」


「ほんと? じゃあ、あたしの部屋行こっか!」


 古賀さんが、俺の腕を引いて立ち上がる。……また柔らかな胸が俺の腕に当たってしまっているのだが、こんなことでいちいち動揺していたらキリがない。俺はできる限り平静を装って、古賀さんの背中に続く。


 階段を上がって、奥の部屋。昔、何度か遊びに来た覚えがある古賀さんの部屋。


「……お邪魔します」


 そう小さく呟いて、部屋に上がらせてもらう。……部屋の場所は昔と変わっていなかったが、その内装は昔とは全くの別物になっていた。昔はゲームとか漫画とか、足の踏み場がないくらい散らかっていたのに、今はそれらは綺麗に棚に仕舞われている。


 そして、昔はなかった小さな化粧台と可愛らしいクッション。カーテンなんかも、昔と違ってシックな雰囲気なものに変わっている。


 テーブルの上に置かれたアロマディフューザーから、柑橘系のいい香りが漂ってくる。


「さ、落葉くんはそこに座って」


「あ、うん。失礼します」


 言われた通り座ろうとした俺を見て、どうしてか古賀さんはおかしそうに笑う。


「ふふっ、なんか落葉くん、動き硬いよ? そんな緊張しなくてもいいのに」


「いや緊張っていうか、古賀さんの部屋がオシャレで可愛いから、どうしたらいいのか分からなくて……」


「そうかな? 別に普通だと思うけど……でも、ありがと。落葉くんにそう言ってもらえると、あたしも嬉しいよ」


 古賀さんは笑う。俺はどういう表情をしたらいいのか分からず、視線を逸らしたまま丸いクッションの上に座らせてもらう。


「それで、ゲームなにやる? あたし最近FPSとかやってるけど、あんまり二人でやる感じのゲームじゃないよね?」


「まあ確かに。俺FPSとか、全然やったことないし、古賀さんの足を引っ張っちゃうかも」


「そうなの? 落葉くん今はもう、あんまりゲームとかやらない感じ?」


「まあ、いろいろ忙しい……ってわけでもないけど、やることが多かったからね。ダーツとかビリヤードなら、ちょこちょこやったりしてたけど」


「えー、落葉くん。いつの間にそんなオシャレさんになってたんだよ。今度、あたしにも教えてよ」


 古賀さんが、楽しそうに俺の肩を叩く。……よかった。さっきまでの気まずい空気が、ようやく和らいできた。


「まあでも俺、本当にカッコつけてただけだから、教えるのとかは無理だと思うよ」


「そうなの?」


「うん。……サッカー辞めて、その代わりになるものを探してたんだよ。今から考えると、空回ってたなって思うけど……」


 サッカーを辞めたのだから、その代わりになるモノを見つけなければならない。ずっと、そんな風に思い込んでしまっていた。自分の価値を証明しなければ、誰も俺を好きになってはくれないのだと。


 だから、意味のないことを沢山した。大して仲良くもない連中とオールでカラオケをして、帰りにラーメンを食べて、それで自分の価値を証明できているのだと思っていた。


 ……まあ、そういうのも榊さんと付き合ってからは、あまりやらなくなってしまったのだが。


「落葉くん、カッコつけたがりなのは、昔も今も変わってないんだね? そういうところ、なんかちょっと……可愛い」


 考え込んでしまった俺を見て、古賀さんはからかうような表情で笑う。俺は誤魔化すように冗談めかして、大袈裟な身振りで言葉を返す。


「男はみんな、カッコつけたがりなの。できもしないのにギター買ったり、難しい哲学書をこれ見よがしに読んだり、ワックスのつけ方間違えて髪の毛ベタベタになっちゃったり。そういう経験を積み重ねて、大人になるの」


「そうなんだ。うちって女子校だから、あんまりそういう男子の気持ちとか分かんないんだよね。……落葉くんがモテそうなのは、なんとなく分かるけどさ」


「……俺は別に、モテたりしないよ」


「でも、告白されたことくらいはあるんでしょ?」


「そりゃまあ、それくらい古賀さんだって……」


「あたしは、そんな経験はないよ」


 古賀さんがジト目でこっちを睨む。なんだか、余計なことを言ってしまったようだ。せっかく気まずい空気をどうにかできたと思っていたのに、また変な空気になってしまった。


 俺は手持ち無沙汰な手で軽く頭をかいてから、古賀さんの目の前のゲームソフトが並んだ棚の方に手を伸ばす。


「……そんなことより、ゲームなにする? このレースゲームとか、俺久しぶりにやりた──」


 そこで不意に大きな音が響いて、思わず口を閉じてしまう。


 俺の言葉を遮るように雷が鳴った。結構、距離が近いのだろうか? 体の芯を揺さぶるような、嫌な音。別に雷が苦手ってわけではないけれど、少しだけ驚いてしまう。


「古賀さん、大丈夫? ……って、古賀さん……?」


 ゲームソフトを持ったまま、古賀さんが固まってしまっている。そんなに、驚いてしまったのだろうか?


「うおっ!」


 そこでまた、雷が鳴る。今度はさっきよりも近いのか、家全体が揺れるような大きな音。よほど驚いたのか、ゲームソフトを落とした古賀さんが、こっちに向かって抱きついてる。


「……もしかして古賀さん、雷苦手だったりする?」


 俺の胸元に顔を埋めた古賀さんに、そう声をかける。古賀さんは恥ずかしさを誤魔化すような小さな声で、口を開く。


「…………実は、苦手だったりする」


「そっか。なんかリアクションが、爺ちゃんちで飼ってた雷が苦手な犬に似てるから……って、いてっ。ごめんごめん、冗談だからつねらないでよ」


 俺に抱きついてきた古賀さんの体が、微かに震えている。どうやら本当に、雷が苦手なようだ。


「……落葉くんは雷、平気なの?」


「俺は平気だよ。大きい音は、あんまり好きじゃないけどね」


 父親に怒鳴られていた時のことを、思い出すから。


「そっか。じゃあ……よかった」


 俺を抱きしめた古賀さんの腕に、力がこもる。古賀さんの大きな胸が、俺の胸板で潰れる。ドクンドクンと、古賀さんの心臓の鼓動が伝わってくる。


「……落葉くん、本当に平気なの? なんか体に力が入ってるみたいだけど……」


「いや、それは……あれだよ。雷のせいじゃなくて、古賀さんの……胸が当たってるから」


「……落葉くんって、昔から大きいおっぱい好きだよね? そんなに気になるの? これ」


 古賀さんは、アピールするみたいに俺の体に大きな胸を押しつける。何度触れても慣れないその感触に動揺しながら、俺はできる限り平坦な声で言葉を返す。


「気になるというより、本能的に気になっちゃうんだよ。男は多分、みんなそういうもんなんだと思うよ」


「そっか。まあ、別にいいけどね。……落葉くんなら、あたし別にいいよ。それが理由で避けられたりするほうが、あたしはずっと辛いから」


 また雷が鳴って、古賀さんの腕に力がこもる。


 柔らかで温かな感触。俺の胸に顔を埋めているせいで、古賀さんの表情は見えない。ただ聴こえてくる心音は、外の雨音にも負けないくらい激しくて、彼女が緊張しているのが伝わってくる。そして多分俺の激しい心音も、古賀さんに伝わってしまっているのだろう。


 なんだか、ゲームをするような雰囲気ではなくなってしまった。


「……ごめんね、落葉くん」


 と、囁くような小さな声で、古賀さんが呟く。


「それは何について?」


 俺はできる限り優しい声で、そう言葉を返す。


「都合のいい時だけ甘えて。落葉くんが断れないの分かってて、こんな風に抱きついたりして」


「別にいいよ。そんなことで怒ったりしないから。寧ろ古賀さんの胸が当たってて、俺も役得だし」


「……本当に、そんな風に思ってくれてる?」


「思ってる思ってる。嘘なんてつかないよ」


「だったら、もっと触ってもいいよ。落葉くんの好きにしていいから、だから……あたしのそばにいて欲しい」


 古賀さんが顔を上げる。薄らと赤くなった頬。潤んだ瞳。艶やかな唇。本当に、昔とは別人みたいに綺麗になった。


 ……でも、綺麗になったからこそ、俺は少し躊躇してしまう。綺麗なものは、みんな壊れやすい。下手な触り方をして、彼女の美しさを壊すような真似はしたくなかった。


「……っ!」


 そこでまた雷が鳴って、部屋の電気が消えてしまう。停電してしまったのだろうか? 俺は状況を確認する為に立ちあがろうとするが、古賀さんが抱きついたままなので上手く動くことができない。


「…………」


 暗い部屋。響く雨音。アロマディフューザーから漂ってくる、柑橘系のいい香り。そして温かで柔らかな、古賀さんの体。


 どうしてか酷く、胸が痛んだ。その理由が俺には全く分からなくて、思わず古賀さんの背中を抱きしめてしまう。


「……っ」


 古賀さんの体に一瞬、力が入る。……が、すぐに身を任せるように体から力が抜けていく。……古賀さんと、目が合う。真っ暗な部屋の中で、それでも確かに彼女の黄金色の瞳と目が合った。


「あたしは……」


 古賀さんは何か言葉を口にしようとして、けれど途中でそれを飲み込んでしまう。そして彼女は、雨音にかき消されてしまうようなとても小さな声で、言った。


「あたしはさ、落葉くんを裏切ったんだよ。だからずっと、それを謝りたかった」


 その言葉で、忘れていた過去と目が合った。……そうだ。そういえばあの日も、今日みたいに激しい雨が降っていた。


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