キリギリスになりたいアリ
ハタラカン
道
あるところに優しいパパと優しいママとその間にできた娘がいました。
3人は家族の幸せでスーパーハッピーでした。
しかし娘だけは満足していません。
娘は思います。
『どうしてパパもママも働くんだろう?
お金なんて遊んでても勝手に出てくるのに』と。
パパは朝早くに出ていって夜まで帰って来ないどころかなんなら帰ってきません。
ママは家に居るけど大別して掃除洗濯料理の3つに忙殺され、そういう家事をしてない風の時はすぐパートに出てしまいます。
娘はそれが大層不満でした。
パパもママも全く意味不明で要らない謎の活動に励み、娘と遊ぶ時間を減らしているのです。
娘はついに我慢できなくなり、両親に説教しました。
「2人とも働くの禁止!!
人間はもっと自由に自分のために生きなきゃダメなの!!
そういうもんなの!!
わかった!?」
2人はなるほどと納得しました。
そして働くのを辞め、毎日毎日娘と遊びまくりました。
家事はヘルパーを雇って全部やらせました。
パパとママとずっと一緒にいられて娘はようやく満たされる事ができました。
こうして得たウルトラスーパージャイアントハッピーな日々の中のとある朝。
娘はよそ行きの服に着替えるよう言われました。
お出かけのようです。
「海!?山!?遊園地!?」
娘が質問に見せかけた希望を並べると、巨大なリュックを背負ったパパがにこやかに答えました。
「ははっ、そうだなぁ〜山にしようか。
海はエラ呼吸できないと厳しいからね」
ん?
なんか変な事を言われたような気がしましたが、中年男性によく見られる寒暖調節機能の故障だと思う事にしました。
パパもそろそろ年頃なので仕方ありません。
娘は寛大な心で耳の摩擦係数を減らして聞き流し、玄関を出ます。
するといつもは化粧だの念の為だのオバ心と老婆心で最後に出るママが先に待っていました。
それもそのはず、ママはスッピンで手ぶらでした。
謎のポーチも持たず謎のバッグも背負わず謎のガラガラも引いていません。
「何にも持っていかなくていいの?」
「準備万端よ〜」
いつもの可愛い笑顔、いつものぶりっ子ポーズ。
装備こそ違えどママ本人がいつも通りなので娘は特に気にせず手を繋ぎました。
それを見届けたパパは娘の空いてる方の手を握り、にこやかに宣言します。
「よぅし出発だ!」
3人はスタスタと歩き始めました。
愛車の4WDを横切り、大人のペースでどんどんどんどん歩きました。
「ちょっと待って…ちょっと待って!!」
急激に異様さを増した展開に娘は戸惑い、喉と両足を懸命に使って抵抗しました。
しかしパパもママも全然スピードを落としてくれません。
大人2人にとっては普通でも幼女にとっては暴走車の勢いです。
「待って…待って待って待って待って待って待ってって!!
待って!!待って!!待って!!待って!!待゛っ゛て゛!!ま゛っ゛………ゔぇ゛ぇ゛〜ん゛」
「こらこら静かにしなさい」
「うう〜んどうしちゃったのかなぁ〜」
ついに泣き出した娘をパパが速歩きしながら優しくたしなめ、ママは速歩きしながら困ってしまいました。
2人はどうしても速歩きを止めません。
娘を引きずってでも止めません。
理由はわかりませんが、もうパパもママも泣いてどうにかなる相手ではなくなってしまったようです。
娘は言葉での解決に頼らざるを得ませんでした。
「ぐずっ゛…な゛ん゛で…なんで車に乗らないの?」
話の流れからすると論点がずれているようにも見受けられますが、娘にとっては
『そもそも歩かなければいけない事』が速歩きの件より大きい問題でした。
いつもなら4WDでどこだろうとスイスイで、帰りは寝てればいつの間にか家だったからです。
つい1週間前だってパパの運転で日帰り温泉旅行に行ってきたばかりなのです。
「なんで乗らないって…ははっ、そりゃあ車持ってないからね」
パパは子供らしい馬鹿な質問だなあ、という感じで笑って答え、娘は脳を記憶ごとひっくり返されたような衝撃を受けました。
「ウソだぁ!!
だって見たもん!!
さっきお家のガレージにあったもん!!」
「それはその通り。
どういう事かわかるかな?
あれはもううちの車じゃないって事だよ。
今日の昼には業者が取りに来る」
娘は歩くしかなくなった事だけ理解できました。
山に行く気らしい、のに歩くしかない。
それは産まれてから殆ど車移動しかしていない娘にとって地獄の始まりを意味しました。
当然イヤなので両親に命じます。
「帰る!!もうお家帰る!!
ねえほら帰るよ!!
帰るってば!!」
「お家はもう無いのよ〜」
今度はママが脳をひっくり返してきました。
「だ…え…?
だって…そんな…だって…」
「1か月前に売っ払って、今日が立ち退きの日なのよ〜」
「あ…え…ああ!!
お金はあるよね!?
だってお家売ったんだし…!!」
「使い切ったわよ〜」
「ははは読めたぞ娘よ。
次は『家の中の物はどうなるの?』と聞くつもりだろう。
もちろん全部売ったぞ!
というか差し押さえられたぞ!
ははははは!」
パパとママは熟練のパン職人よろしく娘の脳をこねくり回しました。
娘には一言絞り出すのがやっとでした。
「なんでお金ないの…?」
「そりゃそうだろう、働いてないんだから」
パパはいつも通り優しく答えてくれました。
「働かなきゃ何も得られない。
生きてるだけで何かを消費する。
働かない者が生き続けたらゼロになる。
当たり前の事だ。
君も学校へ通えば算数で習ったかもね」
それは本当に言うまでもない当たり前の道理でしたが、未就学児であるうえに地頭が悪い娘は言われてもよくわかりませんでした。
ただ、自分が何かを履き違えていた事だけは察しました。
娘のイメージする家族の幸せとは無条件で絶対に保障されていて何もしなくても必ず実現されるべきルールです。
でもそれはエネルギーと食料を無限に得られる状況が前提となる夢の世界の幸せでした。
これも言うまでもない当たり前の話ですが、現実世界に夢の世界の幸せは存在しません。
現実における家族の幸せとは、家族のために働くという条件を満たして初めて実現できる努力の結晶だったのです。
絶対だと信じていた幸せが食べれば溶けてしまう綿飴だった事を悟った娘は、また泣きたくなってきました。
「うっ…ゔぐゔぅ゛〜っ!!」
「娘よ、どうしてそんなに悲しそうなんだ?
人間は自由に自分のために生きなきゃダメだ!
そう言ったのは君だぞ。
いやあおかげでパパもママも目が覚めたよはははは!」
「おほほほほほ!」
自由に自分のために娘を引きずり回す2人はとっても楽しそう。
自分の自由のための命令が発端だったと知った娘は後先考えず怒りで叫びました。
「大人なんだから子供の命令なんか無視してちゃんとやってよぉ!!」
パパとママはなるほどと納得し、無視して引きずり回し続けましたとさ。
めでたしめでたし。
「めでたくない!!」
朝から日没まで歩きに歩いてやっと山に着きました。
3人はここまで歩いてきた国道を外れ、木と草の中の獣道へと分け入っていきます。
「えっえっ、いや、山ってキャンプ場とかじゃないの!?」
「あのね、キャンプ場にホームレスが住み着いてたら通報されちゃうだろ?
人が居ない所に行かなきゃ」
「ホームレスって国に言えば助けてもらえるんじゃないの…?」
「それじゃあ自由じゃないだろ」
子供らしい馬鹿な質問はあっさり流されました。
「いたっ。
いたいぃ…」
山の枝葉は幼女にも全く遠慮なくブチ当たってきます。
ですが怯んではいられません。
いつの間にか手繋ぎをやめた両親がどんどん先行してしまうからです。
辛くとも納得いかずとも今は追うしかありません。
「うぅ…うぅ〜…」
疲れと痛みと怒りと寂しさで情緒はごった煮です。
ゲロ味の混沌です。
ただひとつ…たったひとつ、
『なんだかんだ言って娘だし家族だしなんとかしてもらえるだろう』という甘美な期待だけが頼りでした。
でもそれは夢の世界の期待でした。
「なんで私があなたのために働かなきゃならないの?」
「なんで俺が俺のために働かない奴のために働かなきゃならないんだ?」
どうにか山の川原まで辿り着いた後。
パパとママの言い争いが始まりました。
幼く愚かで疲労困憊の娘にはよくわかりませんが、どうやら今の2人は役割分担すらまともにできないようです。
家族のために働いていた頃、何も考えず遊んでいた頃からは想像もつかぬ大喧嘩でした。
「仲良くしてよぉ!!」
娘の仲裁も虚しく、2人は互いに背を向け離れて行きました。
中心に娘を残して。
「えっ!?」
娘は慌てふためき、本能的にパパを選んで縋りつきました。
「あのっちょっ、ちょっと待って!
こういう時ってもっとあるよね!?
子供のためにとか子博士ガイとかどっちを選ぶとかさ!」
「人間は自分のために生きるべき。
君は俺じゃない。
Q.E.D」
パパは変な呪文を唱えてどっか行きました。
明確な拒絶。
「うぁ…ゔぁ゛ぁ゛ぁ゛〜…」
追いたくてももう足が限界です。
娘はへたり込んで泣くしかありませんでした。
何の意味も無くても他にできる事がありませんでした。
「ゔぁ…う…うぅ…」
そのうち意識の限界を迎え、娘は不揃いな小石の絨毯で眠りにつきました。
翌朝。
飢えと渇きと寒さで早くに目覚めた娘は、とりあえず泣きました。
「パパ…ママぁ…」
呼んでみてもどちらも来ません。
来ませんし、この場に2人が居ても特に何もしてくれなかったでしょう。
2人とも人間らしく自由に自分のために生きているのですから。
「……………………」
お昼に差し掛かった頃、疲れで泣くのも難しくなってきましたので、娘は誰か助けてくれる人を探す事にしました。
いくら娘が無知蒙昧でもこのまま黙っていれば確実に死ぬ事、自力では生きていけない事くらいは直感できたのです。
娘は川の水を殺菌とか濾過とか考えず直で飲み、腹をゴロゴロ言わせながら歩きはじめました。
「あっ!!!」
ほぼ無補給で下し気味のクッタクタ幼女が山を10分ほど歩き、直線距離にして300メートルほど進んだあたりでしょうか。
娘は大きな叫び声をあげました。
『あ』そのたった1音にはち切れんばかりの喜びが詰まっています。
森の中にママの後ろ姿を見つけたのです。
「ママっ!!」
駆け寄る娘。
いやいやいくらなんでも目の前に居れば助けてくれるっしょ!
昨日ノータイムでパパ選んじゃったけど大丈夫っしょ!
そういう期待をまだ幼い娘はどうしても捨てきれませんでしたし、その夢こそが足を動かす力になっているのは確かな現実でした。
「グゥルルルルルルゥ……!!!」
しかし直後。
娘の足を止める現実の音が響きました。
娘の腹の音?
いえ、そんな可愛いものではありません。
獣の唸り声です。
幼く地頭の悪い無知蒙昧な娘ですら本能で理解し止まれる危険な殺意の音です。
唸り声はママのほうから聞こえていました。
「マ…マ…?」
娘の夢はしぶとく現実を疑い、もう1度確認の声をかけました。
その音に反応し振り向いたママの顔は…食料を見つけた喜びの笑顔でした。
「ギャオオオオオオオオンッ!!!」
狩りに昂った獣の咆哮。
賢いママは自由に自分のために生きるうえで1番邪魔なものを捨てたのです。
倫理、物理、論理、事実など、あらゆる場面で人間を縛りつける鎖…知性を。
「ひっ…ひっ…!」
ギャオられた娘は今度こそ現実へ帰り、ママに背を向け逃げ出しました。
「グギャッ!!!
バギャアアアアッ!!!」
ママが追いかけてきます。
環境に適応したとか秘められた真の能力が覚醒したとかではなくただ自分の事しか考えなくなっただけなので、ごく普通の行き倒れ女性の動きです。
しかしそれはごく普通の行き倒れ幼女を圧倒するスピードでした。
娘は転んだ隙に追いつかれる、というフィクションの定番に従うまでもなくごく普通に追いつかれ、ごく普通に捕まりました。
ママは娘をうつ伏せに倒し、馬乗りになって両肩を抑えつけます。
「ママっ!!ママっ!!」
すると獲物が差別的な鳴き声で権利を侵害してきたので、まず頸動脈を噛み破って黙らせようと大口を開けました。
「目を閉じてろっ!!」
次の瞬間。
何者かの叫びとともに無数の粒が飛んできました。
砂利です。
砂利はビシャアッと鋭い音を立ててママに当たりました。
「アギャアアアアアオッ!!!」
致命には至らぬ攻撃ですが、目と口を大きく開いていたママには効果的でした。
耐え難い気持ち悪さに襲われたママは堪らず立ち上がり、一目散に逃げていきました。
「うっ…うぅっ…!」
そんな事は知る由もない、うつ伏せで目を閉じている娘はやっぱり泣くしかありません。
そこへ頭上からの懐かしい声。
「ふぅ…生きてるか?」
パパでした。
「パバ…ゔぁゔぁ〜!」
娘は約2日ぶりにパパに抱きつき、約2日ぶりによしよしされました。
「で、だ」
パパが娘を引き剥がし、いい雰囲気は秒で霧散しました。
「君は何の役に立つ?」
「え…」
「助けるのだってタダじゃない。
砂利を集める作業もゼロカロリーではできない。
俺は砂利を消費し、ここまで走る体力を使い、いまこの会話で貴重な時間を失っているわけだが、君は見返りを用意できるのか?」
めちゃくちゃめんどくさい事になりました。
自由に自分のために生きるようになったパパは獣でこそありませんでしたが、娘と相容れぬ生き物になってしまったという意味ではママと大差ない存在でした。
「あの…えと…」
「…ま、できるわけない、か。
コスパもタイパも最悪だ。
やはり放っておくべきだった」
パパは自責の言葉を吐き捨て、捨てた分を埋め合わせるかのように懐からペットボトルを出し口にしました。
「のみもの…」
「濾過した川の水だ。
食い物もあるぞ」
続いて懐から出てきたのはちっさい焼き魚。
それをパパは一口で全部食べてしまいました。
娘はまた仄かに灯りはじめた期待の光を頼りに涙声で問います。
「わたしのぶんは…?」
「無い」
きっぱり言われ、娘は怒り泣きでパパの足にしがみつきました。
「なんで!?
なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで!?
家族でしょ!?」
「もう忘れたのか?
君は俺じゃない」
この念押しで娘はパパと己の『自分』が違う事に気付きました。
浅はかで図々しい子供である娘にとって自分とは
『無条件で絶対に助けてくれる両親』含む3人家族を指します。
だからこそ己を助けてもらえる前提で
『自由に自分のために生きろ』などという破綻した妄言を吐けたのです。
ですが言うまでもない当たり前の言語学的常識として自分とは個人なので、当たり前の常識をそこそこ身につけた大人であるパパにとって自分とはパパ個人なのでした。
それに気づいた娘はどうするか?
「ゔぁ゛〜やだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだ!!」
そう、泣くしかありません。
時すでに遅し。
パパが自分のために生きるようになった今…自分以外の全てを道具にする万物の敵と化してしまった今、敵の心変わりを願うほかに手段は残されていないのです。
もし娘が何らかの見返りを用意しパパと取引できるようになったとしても、所詮それは取引できる敵に過ぎないのです。
家族のような味方ではありえません。
「わたしはどうなってもいいの!?
子供だけじゃ生きてけないよ!
お手伝いする!
なんでもするからぁ!
助けてよぉ!」
「いや、君が何をしたところで俺の仕事には及ばない。
そもそも俺は1人で充分だ」
とまあ、こんな具合に。
利用し合うか、役立たずとして捨てるか捨てられるか。
取引の行く末はこれだけです。
そして今まさに捨てられかけの娘はなんとかもう一度パパに家族をやってもらわねば生きていけません。
娘はただただパパにしがみつきました。
「やだ…やだぁ…パパ…パパぁ…」
「……………………」
するとどうでしょう。
意外と効いていました。
パパは娘を振り払わず迷っています。
もともとママの撃退という損しか無いであろう行為をやってくれたパパですから、情に訴えればいけるのでしょうか?
「時間の無駄だ…泣いてる暇があったらついて来い。
魚の一匹くらい食わせてやる」
「わはぁ…!
うんっ!」
結局パパは娘を連れて行く事にしたようです。
裏があるかもしれません。
無いかもしれません。
何であれ、家族の絆を取り戻した…という感じの態度ではありません。
でも娘にはそんなパパを頼るしかないのでした。
「んぐ、んぐ…」
パパの拠点に行くと、しっかり濾過された水を飲ませてもらえました。
冷えたジュース以外には飲料と名乗れる飲料権を認めてこなかった娘ですが、この1日半の厳しさは好き嫌いをひとつ減らしてくれました。
「ほら」
続いてパパは捕っておいた鮎を塩焼きにして出してくれました。
「はぐ、はぐ…」
娘は無我夢中で食べ、寿司と刺身以外も魚として認められそうな気分になりました。
「ごちそうさま…」
食べ終わった娘は訝しげに拠点を見回します。
来た時は助けてもらう事しか頭になかったので気にもとめませんでしたが、頭に血が巡った状態で見るとそこがかなり不自然な光景だとわかったのです。
便利すぎました。
小さく簡素とはいえテントが張られ、イスがあり、明らかに既製品の濾過器やら釣り竿やらナイフやらがあります。
ちなみにさっきの水はコップで、鮎は洗って再利用できるステンレス串で渡されました。
完全にキャンプです。
パパは手ぶらの妻子をよそに1人だけ文明の恵みを受けていたのです。
そこで娘はパパが1人だけ大荷物を背負っていた事を思い出しました。
パパだけが苦労するのはいつもの事だったので違和感なくスルーしていましたが、その苦労の見返りを自分のために使った結果が便利な拠点のようです。
「パパ、ずるい…」
「君は何もしなかった。
俺はした。
それだけの事さ」
正論です。
回避も反撃も不能の致命打を容赦なく放つ、敵としての正論です。
味方から打ち込まれればブチギレ開戦ものの発言でしたが、パパが無条件の味方などではない事を既に学んでおり、かつ幼稚園で人間社会の基本を教えられはじめたばかりの娘には、むしろストンと腑に落ちる言葉でした。
納得いかない部分があるとすれば、それは何もしなかった人が他にもいるという事でした。
「……………ママは、呼ばないの…?」
「……………………」
しばし沈黙。
不可能だとは思うけど…不可能だとは思ってるけど、自分にしてくれてるような施しをママにもしてくれたら、ママがそれを受け入れてくれたら、色々上手くいくんじゃないの…?
娘の言外の意にパパは気づいていましたが、すぐに返事はできませんでした。
パパにとってもママとの関係を整理するのは簡単ではなかったのです。
「彼女は………もう無理だ」
なのでパパは、結論できた部分から搾り出していきました。
「脱帽だよ…凄まじい。
俺にはとてもあそこまで徹底できない。
才能の塊だ。
あれほど野生に還れるなんて…君も体験しただろ?
『弱いから』『助けてくれ』そう言える君みたいな謙虚さが素粒子レベルで見当たらない。
ママにはもう、人の言葉が通用しないんだ。
正直羨ましい…嫉妬する。
彼女に比べて俺は…」
娘の頭を撫でながら自嘲するパパ。
自由に自分のために生きるならこんな無駄な事をしてる暇は無いのに、パパにはどうしても娘を食肉扱いできませんでした。
娘はそんなパパの悩みを知る由もなく、パパを敵だと思わずにいられるこの時間を楽しんでいました。
「…あ〜ダメだダメだ!
切り替えよう!
こっちに来い!
キャンプを使いたいなら相応に働いてもらうぞ!」
擬似家族終了のお知らせ。
結局1分と経たずパパは敵との取引を再開しました。
「はいこれ持って」
娘はキャンプ裏の森の中100メートルほど歩かされ、そこで鉄棒を渡されました。
スコップです。
「お、お、お、…ふぅい」
持つどころではありませんでした。
用途上、強度を高める造りになっているスコップの重みは幼女にとってほとんどドラゴン殺し同然。
倒れぬよう支えるのが精一杯です。
その様子を見たパパはまた自嘲のため息を吐きました。
「…ま、そりゃそうか。
スコップはもういい。
君はその辺から葉っぱを集めてきてくれ。
方法は任せる」
スコップをプラスチックバットみたく軽々取り上げたパパは穴掘りを始め、娘に構ってくれなくなりました。
娘は『自分も泥んこ遊びしたい!!』とすがりつきたくなるのをどうにか抑えながら、意味がわからないまま葉っぱを集めに行きました。
「これだけか?」
「…うん」
「そうか」
20分後。
両手いっぱいの草葉を差し出すと、パパの反応は極めて平坦で温度の無い失望でした。
怒られてはいません。
それが却って不気味です。
必要だから集めたはずなのに、足りなくても気にする様子が無い。
本当にこれはやるべき仕事だったのか?
気になった娘は尋ねます。
パパは答えました。
「落とし穴をな…作ってるんだ。
葉っぱはカモフラージュ。
猪でもかかればいいなと思ってる」
「イノシシなんて居るの?」
「さあな…」
肝心要の獲物が存在するのかしないのか。
自分の掘ってる穴が役に立つのか立たぬのか。
パパにはそれすら気にする様子がありませんでした。
しかしさらに30分後、あまりに手間取る娘を見かねたパパはさすがに作業を止め、今度はキノコ採りを頼んできました。
二人で山菜を集めるようです。
「ほら手袋して…よし。
キノコを見つけたらこの鞄に入れてくれ。
働きに応じてこちらも食料を出そう」
「わかった!」
食い気が娘の声に張りを与えました。
キノコなんてお菓子とは比較にもならぬ下等食品という認識であり、そのお菓子の中でもタケノコ派な娘でしたが、餓死を間近に感じている今ばかりはキノコといえど大歓迎です。
娘は衰退産業の如くヤケクソに材を集めました。
「あった!あっちにも!」
これに関しては人の手が加わらぬ獣道なのが奏功したようで、キノコは大漁でした。
しかし始めはたくさんの収穫でテンションアップだった娘も、鞄を埋めていくカラフルな菌を見て当然の疑問を抱きます。
……これは食べていいやつなのか?と。
「パパ、キノコ知ってるんだよね?」
「知らない」
パパの無知が疑問を嫌悪にまで発展させました。
「危ないかもしれないもの食べたくないよ!!
なんで!?
なんで食べられるかわからないのに集めたの!?」
「なんでって…ははっおいおい、食べるからに決まってるだろ?
君が食べないならそれでもいいよ、魚と交換だ…俺が全部食う」
またこの反応です。
キノコが生存に役立つのか立たぬのか、食えるのか食えぬのか。
その最も重要なはずの意味をまるで気にしていないパパ。
「ダメッ!!
そんなの絶対ダメ!!
食べたら死んじゃうかもしれないんだよ!?」
「別にいいじゃないか。
毒キノコは美味いらしいからな…美味いもの腹いっぱい食って楽しめるならそれでいい。
俺の人生だ。
俺の自由だ。
俺を楽しませる以外に俺の意味なんて無いんだよ」
敵としての正論を放った時のように淡々と説明するパパ。
しかしその表情は、勝利した敵の破顔と似て非なる弱者の自嘲でした。
「ウソつきっ!!」
「俺が、嘘つき…?」
「パパが本当に自分のためだけに生きてるなら、わたしを助けたりしない!!
コスパもタイパも最悪なんでしょ!?
損してでも誰かを助けたいから、誰かのために生きたいから助けたんだよ!!」
「………………」
娘の指摘通りです。
パパは完全に自分を持て余していました。
自分の生存に関わる穴掘りや危ないキノコにはほとんど意味を感じていない。
一方で娘をママから助け、撫で、貴重な食料を無償で提供し、取引の形とはいえ協力する…明らかに自分の為にならぬ利他をしてしまう。
パパは自分を自分以外のため費やさずにはいられない、独身に全く向いてない人だったのです。
「もう無理して自分のために生きなくていいから…わたしが変なこと言ったの謝るから、元のパパに戻ってよぉ…。
前みたいに…家族のために笑っててよぉ…。
危ないことしないで…死なないで…」
涙ながらに訴える娘。
パパが毒で倒れる=自分が見捨てられるも同然な娘がロシアンキノコを看過できないのは当然です。
ですが娘はまだ幼女なのでそんな計算できていません。
パパに関する考察も働いてた頃の方が元気だったなくらいしかわかっていません。
娘の涙は、ひとえに大好きなパパのための心でした。
「………そうかもな……」
「…パパ」
「実を言うと…昨日ママと君と離れてキャンプの準備を始めた時、人生が終わったような気がしたんだ。
魂が消えて、あとは抜け殻が壊れるのを待つ時間だけ残ったような…。
翌朝ゾッとしたよ。
これからずっとこんな風に壊れるまで寝て起きてを繰り返すのかってね。
それでも昼までは我慢した。
そうするのが、自分の自由のため生きるのが正しいと思ったからだ。
だけど…君達を探さずにはいられなくなった。
建前に隠れてでも動きたかった。
君の言う通りかもしれない…俺は、誰かのために生きたいんだ…」
結論を待たず、娘はパパに抱きつきました。
自分がそうしたかったし、パパに生き甲斐を感じてほしかったのです。
「パパぁ〜だっこして〜」
「はははっ、よぅしこれでもかこれでもか!」
二人はひとしきりじゃれ合った後、協力して一応落とし穴を完成させ、焼き魚で腹四分目の夕食を済ませました。
貧しい貧しい悲惨な生活です。
しかし孤独にさまよっていた二人にとっては暖かな家族の幸せでした。
あとキノコは猪をおびき出す餌分だけ残して全部捨てました。
夜。
キャンプと言っても男が1人で背負っていける程度の設備しかありませんので、山奥はすぐさま暗くなります。
焚き火の数メートル外はほぼ無明の闇。
怖いし娯楽も無いしで、娘は寝るしかありません。
落とし穴制作で掻き出された土を何十往復も運んだり草葉を集めたりした疲れが恐怖を押し潰してくれました。
「ん………ん」
しかしどうしたことでしょう?
眠りは限界まで深かったはずですが、どういうわけか目が覚めてしまいました。
寝袋に入ったまま上体を起こしてみれば、闇で染められたテントがオレンジのゆらめきに照らされているとわかります。
焚き火の光です。
火の始末をしていないという事は、どうやらまだパパは寝ていない様子。
まあ娘にはさして関係ありません。
どうあれ、朝でないなら寝るしかないのです。
娘は寝直すべくまた横になります。
グジュッ…ハブッ…ゾジュジュルッ…
そこへ音が聞こえてきました。
ジューシーな肉の咀嚼音。
両親が仕事を辞めた後に行った高級ステーキ店の音そっくりです。
娘はすぐに落とし穴の事を思い出しました。
本当に猪が罠にかかったのだ、と。
そしてパパが独り占めしているに違いない…と、空腹に濁った頭が瞬時に連想しました。
「んもう!」
娘は馬肉が一番好きです。
でもそれはそれ、これはこれ。
今は猪肉をパパだけに食べさせてなるものか、という食い意地が全てです。
娘は寝袋、テントと一気に抜け出し、パパを呼び咎めました。
「パパ!!………………パ………あ………」
焚き火のほうを向きパイプ椅子に座っているパパの胴体。
その隣に仲睦まじく寄り添い、しゃがみ込む影がありました。
影が娘の音に反応して振り向いた時、炎が真っ赤に染まったパパの頭と、その首にミ゛チ゛ミ゛チ゛かじりつくママの真っ赤な顔を照らしました。
食べられてたのはパパでした。
「あぁああああああぁぁぁあぁああ!!!」
「ギャオオオオオオオンッ!!!!」
娘が悲鳴をあげると、耳障りなそれをかき消すようにママも叫びました。
そしてもちろんママは新鮮な肉を見逃しません。
コレステロール値が気になる古肉を無造作に投げ捨て、逃げていく獲物に突進します。
「ひいっ!!ひいいいっ!!」
逃げる娘の頭の中はもう物事を判断できる状態ではありませんでした。
何も考えていませんし、立て直しようもありません。
パパの死に顔。
パパを殺したママ。
ママから逃げなくてはならぬ環境。
一歩一歩縮まっていくのがわかる親子の距離。
その全てが四方から娘の脳を乱打し続けているのです。
正常な判断力を持たぬ娘は、パパと作った落とし穴の方向へ駆けていきました。
空が白み始めた程度の、まだ真っ暗闇に等しい森の中を。
そこに何があるかも忘れたまま、ただ楽しかった思い出にすがりたい一心で。
そして。
「あっ!」
娘は転びました。
『落とし穴の
パパと作った猪用の罠は、幼女の全力疾走の負荷に辛くも耐えたのです。
草葉でカモフラージュされた落とし穴の蓋は、少し歪みながらも娘を渡しきりました。
「ギャオオオオオオオッオゴォッ!?!?!?」
獲物の転倒に興奮し、勝利の雄叫びをあげつつ突進してきたママ…いや大型獣は、思い切り蓋を踏み抜いてしまいました。
落とし穴は生き甲斐を取り戻したパパが張り切り過ぎた結果とんでもない深さになっており、普通の成人女性が物理も論理も無く暴れて出られるような代物ではありません。
ただ、しっかり頭を使い工夫すれば出られるでしょう。
掘り終えたパパがそうしたように。
「グゴエアアアッ!!!
ギャオッ!!!
アギャオオオオオオンッ!!!」
獣は穴の中でひたすらもがきました。
食いたいのに食えない、欲しいのに手に入らない…こんな理不尽があってはならないのです。
獣の頭の中では。
獣は穴など無いかのように、自分が下に落ちてなどいないかのように壁に突進し続けました。
ですが何度壁にぶつかっても獲物に食いつけなかったので、獣はガラスの天井で蓋をされているような気持ちになりました。
「グォエッブヘッ!!!
ギャアオッ!!!
オギャギャオギィヤアーーーーーーッ!!!!!」
獣は声をあげ続けました。
自ら崩した土が顔にかかっても、喉へ落ちてきて詰まりかけても弁えませんでした。
むしろますます怒りに震え、さらに激しく暴れました。
「カ…カカ……、カ…ギ…。
ギギィ………」
喉が枯れ体が痙攣しても獣は止まりません。
自分は絶対に間違ってないからです。
自分は絶対に悪くないからです。
自由に自分のために生きるうえでは、内容も理由も因果も時系列も全て無視すべき下位の概念であり、無条件で自分は肯定されなくてはならないからです。
絶対善であるがゆえに、自分の無能悪徳で望みが叶わない、などという事はあり得ないからです。
そのあり得ないはずの意地悪をされてる可哀想な自分は力ずくでも救われなくてはならない。
そう信じ、獣は全力で痙攣しました。
心臓が破裂しかけています。
血管が悲鳴をあげています。
神経が焼き切れそうです。
しかし己の絶対善を保証してくれる怒りが心地よくて、いつまでもいつまでも怒っていたくて怒り狂いました。
「………………………………………」
やがて朝日が山を照らす頃、獣の動きは止まってしまいました。
「………マ、マ……?」
思考停止という最後の逃走経路を走り続けていた娘がようやく正気を取り戻し、呼びかけます。
葉擦れが代わりに応えてくれた時、娘は悲しみと安堵の涙を流しました。
これ以上山に残る理由はありません。
娘は立ち上がり、歩き始めます。
川まで戻り、そこからうろ覚えで進んでいくと、思いの外あっさり国道へ出られました。
中からは脱出不可能としか思えぬ迷いの森でも、出てしまえば小山に過ぎないものなのでしょう。
「うっ…うぐっ…」
娘はまだ泣いています。
しばらく、いや、永遠に泣き続けるのかもしれません。
それでも娘は国道を、先人が築いた人の道を、確かに歩んでいきましたとさ。
おしまい。
キリギリスになりたいアリ ハタラカン @hatarakan
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