第5話 はなさない

「はなさないでね、絶対だよっ」


 はいはい、はなさないよ、と答えながら、腰をかがめて荷台を押す。がたがたと揺れる小さな肩が頼りなくて、守ってあげたくなる気持ちをぐっと堪えた。

 しばらく進んだところで、そっと荷台から手を離す。支えを失っても倒れることなく前へと進んでゆく、信頼の背中は、私の幼い頃の記憶を呼び覚ます。


 私の父は、潜水艦乗りだった。だから、一度海に潜ると、ひと月やふた月、家を留守にすることが当たり前だった。

 休日の公園で、近所の同級生たちが父親に自転車の荷台を持ってもらう姿を何度も目にしていた私は、それが普通なのだと思い込んでいた。私が普通ではないのだと。何故なら、私の荷台を持ってくれたのは、私のことを可愛がってくれていた近所のおじさんだったからだ。


 そんな環境で育った所為か、自分の子供には父親のことで寂しい想いはさせまいと固く心に誓っていた。そうすることで、幼い頃の自分の心を慰めたかったのかもしれない。それなのに、今こうして、娘の背中を母親の私が一人で見送っている。


『はなさないでっ……!』


 記憶の中の私が叫んでいる。目の前には、全てを無慈悲に呑み込む暗い穴が口を開け、夫は、自ら私の手を離した。あのまま手を繋いでいたら、二人とも穴の中へ落ちてしまっていただろう。


「離さなければ良かった……」


 ぽつりと呟いた言葉は、空気に溶けて、そのまま消えてしまう筈だったのに、背後でそれを拾い上げる声がある。


「はなさないよ」


 私の背後から優しく肩を抱く手は、夫のものではない。

 職場の後輩である松本くんは、何故か子持ちのバツイチ女である私を好きでいてくれる。ささくれだらけの荒れた指先を、綺麗だと言ってくれる。


「……あーっ、はなさないでって言ったのにー!」


 遠くで娘が怒っている。

 それを見た松本くんが私の肩から手を離した。


「自転車、乗れたじゃん!」


 私は、娘に笑顔で手を振った。


「探しに行きましょう。旦那さんを」

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