第3話 寄生体

 今年の桜の開花は平年より二週間近く早かったため、直人が退院した時にはすでに桜が開花していた。だがそんな春の華やかさとは対照的に恵子の体調は著しく悪化し始め、休職を余儀なくした。その後、独り身の恵子は生活基盤である住まいを宗一郎の下に移動させたが、桜が満開を迎える頃、恵子は体力的にも日常的な活動が困難になっていた。

 

                  ***

 

 ある夜、不意に桜が見たいと恵子が云い出した。直人は宗一郎に頼むと、ドライブしながら夜桜を楽しむことを提案してくれた。


「夜の運転は苦手なのですよ。それに通常、私は助手席には座りません」

 宗一郎は真顔で直人に告げた。


「じゃあ、僕が伯父さんの高級車を運転するんですか? まあ一応免許は持ってますけど……でも十日前に退院したばっかりで……ちょっと不安です」

 直人が躊躇していると、


「情けないわね二人とも! 死にゆく人間の願いが聞けないっていうの?」

 二人の会話を黙って聞いていた恵子が割り込み、

「叡治君に頼みましょう」

 そう云ってハンドバッグから携帯を取り出した。

 

                  ***


「宗一郎、やっぱりお前はどこか浮世離れしてるよな」

 バックミラーに映る宗一郎に一瞬視線を向けると、渡辺は声を立てずに笑った。


「助手席に座ったのは叡治君の車が最初で最後ですね」

 後部座席から宗一郎は昔を懐かしむように微笑んだ。


「それにしても凄い静かな車だなぁ」


 カーブに差しかかったが、渡辺のハンドル捌きが車輛を道路に吸い付かせながらターンをすると、そのまま夜桜のトンネルを走り抜けていった。宗一郎の隣で恵子はサイドガラスを見詰めていたが、助手席に座っていた直人には恵子の表情までは読み取れなかった。


 暫くの間、渡辺は車を走らせていたが、

「車停めて少し歩くか?」

 と尋ねると、恵子は静かに頷いた。


 恵子は直人に支えられながら、歩いた。漆黒の空に薄紅色の力強いコントラストが今まさに季節の最高潮であることを大胆に主張している。渡辺は宗一郎を車に残すと、二人の足跡を辿った。


「散り始める前に見れてよかったわ」

 始終、恵子の口数は少なかったが、声のトーンはしっかりとしていた。


 恵子は暫く黙ったまま夜の幻想的な光景を見詰めていたが、

「直人、お母さんのハンドバッグから携帯を持ってきてちょうだい」

 そう云うと直人を宗一郎の車に送り返した。恵子は渡辺の腕に支えられながら直人の後ろ姿を目で追うと、率直に聞いた。


「叡治君、正直に教えてちょうだい。私の余命はあとどれぐらい?」

 渡辺は無言のままでいたが、恵子は構わず話を続けた。


「自分の体は自分が一番よく知っている。私にはわかるの、もう長くないって。だったら心の準備がしたい。突然動けなくなるのは嫌よ」


 恵子は渡辺の腕を掴んでいた指先に力を込めると、顔を上げ渡辺の瞳の奥を覗き込んだ。


「叡治君なら絶対に解ってくれるはずよ。あとどれくらい、私には時間があるの?」

 渡辺は押し黙っていたが、恵子の中にある炎のような強い意志を無視することはできなかった。


「年末に宗一郎から聞いた時、半年だと云っていた」

「ありがとう、叡治君」

 特に驚いた様子もなく恵子は静かに感謝を伝えた。


「心の整理をする時間があるだけマシだわ。急死だとお別れも言えないから」


 すると、何かを決意したように恵子は一点を見詰めた。

「事故死した隆一のようにね」


 渡辺は無言のままだったが、恵子は気にせず思いを吐き出した。

「オルフェウスの物語のように、黄泉の国に下れば隆一の魂は見つけられるかしら」


 その時、直人の姿が遠くから現れた。恵子は笑みを浮かべたが、

「無理ね。だから今度は隆一が私を探す番だわ」


 声には氷のような冷たい響きがあった。渡辺は視線を合わせることも相槌を打つこともなく、ただ口を閉ざして遠くを見詰めるだけだった。

 

                  ***


 夜桜を眺めに外出した日を境に、恵子の体調は坂を転げ落ちていった。そして二か月半後、まるで夏至の太陽に誘われたかのように、恵子は永眠した。

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