第4話 化かし合い
身なりを整え、フレームの細い眼鏡をかけ直すと、直人は若いビジネスマンに化けた。その隣に座る上司は若干緊張気味の部下を察すると、
「会話は俺が進める。お前は夫人の感情の揺れを見逃すな」
そう軽く耳打ちした。
直人と渡辺は保険会社の調査員に扮して軽井沢にある山本宅を訪れている。眺望の良い高台に築造された山本宅はそれほど大きな山荘ではないが、夫婦が休日過ごすには十分の広さである。二人が案内された居間には大きなガラス戸があり、そこからテラスへと出入りできる。そしてそのテラスの奥に離れ部屋があり、そこが山本一郎の書斎である。
ようやく人の気配と足音が聞こえてくると、沙織に案内されて弁護士が居間に入ってきた。
「遅くなりました、申し訳ございません」
沙織の弁護士は礼儀正しく一礼し、名刺を差し出した。
渡辺と直人もソファから立ち上がり、丁重に一礼すると沙織と弁護士に名刺を手渡した。ただし、差し出した名刺は事前に渡辺が保険会社に用意させたものだ。名前も違っている。
「では早速、奥様の生命保険に関する調査のため、いくつかお話を伺いたいと思います。よろしいでしょうか?」
「はい、大丈夫です」
沙織はゆっくりとうなずいた。
渡辺はありったけの書類を鞄から取り出すと、自分の膝の上にどさりと置いた。さらに書類を指でめくる動作をしながら一番下にあった警察の報告書の写しを引っ張り出し、書類の山の一番上にあざとく重ねた。視界の隅に沙織の緊張している様子が映っていることを確認すると、渡辺は書類から視線をゆっくりと離し、沙織を正面に見据えながら低く落ち着いた調子で質問を開始した。
「まず、奥様がご主人を発見された時の状況をお聞かせいただけますか?」
「昨夜、私は二階の寝室で寝ていましたが、夜中に喉が渇いて目が覚めました。キッチンへ行く途中、夫がまだ書斎にいると思ったので、ベッドで寝るように声を掛けようと離れの書斎に寄りました。そこで夫が倒れているのを見つけました」
「その時、ご主人の状態はどのような感じでしたか?」
「意識がありませんでした。すぐに救急車を呼びましたが、間に合いませんでした」
「非常にお辛い経験をされたかと思います」
「突然の出来事に……目の前が真っ暗になりました。私はどう生きればいいのかと……あの時の光景が網膜に焼き付いて離れません──」
沙織の声が掠れ、噴き出した涙が形の良い頬をなぞった。隣に座っていた弁護士がハンカチを差し出し、慰めるように沙織の肩に触れる。渡辺は少し間を置いたが、そのまま質問を続けた。
「──ご主人の書斎には薪ストーブがあったとのことですが、昨夜はストーブを使われていましたか?」
「はい……夫は書斎で本を読みながらストーブを使用していました。あの部屋は元々は離れの茶室でしたが書斎に改造したのです」
沙織は涙を拭きとり、冷静さを取り戻すと、丁寧に返した。
「警察の調査報告書によりますと、薪ストーブの炉の排気口が閉まっていたために一酸化炭素中毒が引き起こされたとされています。何か心当たりは?」
「いいえ、私は都会育ちで薪ストーブなど馴染みがありませんので、いつも夫が火をつけたり掃除したりしていました。でも煙突掃除はいつも業者に任せています。何かの手違いか……故障があったのかもしれません……」
「では昨晩、書斎──、またはご主人について何か異常を感じたことは?」
「特にありません……」
直人も山本一郎の残影を覗いたが、沙織が云うように薪ストーブに関して異変は感じられなかった。だが、警察が「排気口が閉まっていた」と報告をするのであれば、考えられるのはやはり何らかの故障という事故なのか、もしくは外部の人間によって故意的に閉められたかのどちらかである。後者の場合は動機が必要であり、犯人が計画的に行ったのであれば、沙織が関与していたかも探る必要がある。直人は二人の会話を丁寧に聞き取りながら、メモを取るフリをして横に座る上司を見た。
「わかりました。では次に、ご主人が睡眠薬を服用していた件についてお聞かせください」
一瞬、沙織の瞳に揺らぎがあったのを渡辺は見逃さなかった。
「報告書によると、ご主人が亡くなる前に特定の睡眠薬を服用していた可能性があるようですが、ご存じでしたか?」
「──はい、夫は処方された睡眠薬を服用するときがあります」
「昨晩、ご主人は睡眠薬を服用されましたか?」
渡辺の眼には何かが沙織の胸を掠めたことを捉えたが、静かに向こうの出方を待った。沙織は視線を少し落とすと、
「──わかりません。私は九時ごろ就寝しましたので……その後に夫が服用したのだと思います」
と曖昧に答えた。渡辺は間髪を入れず、糾すように、
「ご夫婦の間で最近何か問題はありましたか?」
と沙織の私生活に足を踏み入れた。透かさず弁護士が割り込む。
「失礼ですが、プライバシーに関わる質問は、慎重にお願いします──」
「睡眠薬を服用するほど、ご主人は何か思い詰めていたのでは?」
だが、渡辺の低い声は怯むことなく弁護士を遮ると、見る見るうちに沙織の顔は緊張し、声が上ずった。
「それは……」
「昨晩、山本一郎はどれくらいブランデーを摂取していたんだ?」
激昂した弁護士が沙織を現実に引き戻した。
「そのような質問は今回の事故とは関係がないように思います! これ以上、個人的な質問は控えていただきたい!」
「もう必要な情報はいただきましたので、調査結果については後日お知らせいたします」
そう云うと渡辺はソファから立ち上がった。直人も慌てて立ち上がると、
「本日はありがとうございました!」
と上司をフォローしながらも礼儀正しく二人に頭を下げた。
弁護士は渡辺を睨むと、特定の事実確認が必要であれば、今後は正式に自分を通じて質問するよう忠告した。もちろん法的に自分のクライアントが不利な状況に陥ることを避けるためだが、弁護士曰く、沙織の体調が最近優れないからだとの気遣いもあるようであった。直人が沙織に視線を移すと、蒼白な顔をした沙織の姿があった。
***
嵐のような時間が過ぎ去ると、山本宅は再び静寂に包まれた。先ほどの尋問のような面談を遣り過ごした沙織は、先ほどまで客が座っていた居間の長いソファにぐったりと腰を下ろすと、
「なんでブランデーを飲んでいたのを知っていたのかしら……」
と呟きながら昨晩の出来事を反芻していた。沙織は倒れた山本一郎を書斎で発見したときすぐに救急車を呼んだが、視界に入ったクリスタルグラスを慌てて片付けた。すでに数時間経っていたから、アルコールが体内から検出されたとしても夕食時に嗜んでいたと理解されるはずである。
「まさかあの後、こんな事故になるなんて──」
書斎は離れにあるため、家全体に一酸化炭素が充満することはない。だが人は正気を失うと、こんなにも恐ろしいことを平気でやってのけるのだ。
「あの人は私にも何かをするかもしれない──」
こんな山奥よりも、東京に戻った方が安全なのではないか? 夫の葬儀などの問題もある。すぐに東京に戻るべきだと沙織は直感した。
「明日、東京に戻ると弁護士に伝えないと……」
面談時の緊張が解けたからか、それとも最近の体調不良からか、瞼が次第に重くなっていくのが沙織にはわかった。
「でも、少しだけ、横にならせて……」
沙織は独り言のように呟くと、滑るように体をソファに預け、そのまま眠気の沼に身を委ねた。
「……頭がふわふわとして気持ちいい……」
沙織はそのまま深い眠りの沼に沈んでいくと、その沼は漆黒の海へと変わっていった。
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