第3話 追憶

 山本沙織やまもとさおりは鏡台に映った顔を覗き込むと、眼の下の隈をゆっくりと指でなぞった。それは昨晩の出来事から一睡もできなかったことを物語っているが、憂いを帯びた眼には、ほのかな女の色気が漂っている。


 沙織は左手首に巻いた金無垢の腕時計に視線を落とした。先月、七年目の結婚記念日に、夫から「金婚式は無理だろうから」と冗談交じりに云われて贈られた金の腕時計である。だが突然未亡人となった沙織は、金婚式どころか銀婚式でさえも祝えなくなってしまった。沙織の形のよい唇から苦笑いが漏れた。


 沙織はここ最近、体調が優れないせいか早くに就寝してしまう。逆に夫の一郎は就寝時間が遅くなった。避けられているのではないかとも考えたが、沙織の体調を労わり、些細なことにも気を配る一郎の姿勢は、沙織を拒否しているようには見えなかった。ただ時折見せる一郎の黙考する姿は、以前にはなかった何かを感じ取っているようであった。


 突然、発信音が鳴り、物思いに更けていた沙織は現実に引き戻された。


 携帯電話に手を伸ばすと、そこには今一番会ってはいけない人物の番号が通知されている。当分の間は外部者とのコンタクトを断つよう弁護士から注意深く指示されているが、昨日の今日である。沙織には電話の向こうの相手と会う気など更更なかった。ただでさえ六十四歳の実業家の再婚相手が三十一も年下だというだけで世間の注目を引く。沙織は受信を留守電に切り替えると、深いため息をついた。


「しっかりしなければ……」


 これから夫の葬儀の手続きや財産相続など、やるべき事が山積みである。沙織は腕時計から視線を離すと、艶やかな長い髪をしっかりと結い上げ、三時に予定されている面談に備えた。

 

                  ***

 

 まだ夏の避暑シーズン前だったこともあり、東京から軽井沢行きの新幹線は比較的空いている。直人は幸恵が確保してくれた窓側の指定席に座ると、先ほどオフィスで上司に報告をしていた時に感じた違和感を持て余していた。まるで雲の上にいるようで掴みどころがない──、そんなあやふやな気分である。


 直人が物思いに更けていると、不意に横から声が聞こえた。

「山本一郎は技術発明の特許取得によって一代で財を成した男だ」


 ネクタイを緩め、ゆったりと腰を下ろしていた渡辺が口を開いた。直人が車内に気を配ると、まばらな乗客の中でもノートパソコンを開き、忙しそうに作業をしているビジネスマンたちの姿が目立つ。幸い直人たちに目もくれない様子である。


「取得したのは今の沙織夫人の時だ。前の奥さんの時ではない」


 ならば山本夫人も幾分かは気が楽だろうと直人は思った。特許権も相続の対象になる。これなら前妻と揉めることもないはずだ。


「まあ、遺産分割の方法とか、遺言書ぐらい残してるだろうさ」

「子供はいないんですか?」


 直人は面談前に上司に確認するべき事項をいくつか用意していた。渡辺のように嘘とハッタリをかまして危ない橋を渡れるほど慧敏でも勝負師でもないことは百も承知である。今でも嘘をつくときは少し緊張してしまう。改めて自分には〝役者〟といった職業は向いていないと思える。


「ナシ。前の奥さんとの間にもいない」

「ご家族の方は?」

「親はすでに他界している。姉が一人いるかな? でも、遺産分割などは弁護士の仕事だ、俺たちの仕事じゃない」

「じゃあ、夫婦の関係は? 夫婦仲は良好だったんですか?」

「この間、派手に銅婚式を祝ったらしいぞ」

 直人は目を細めると、

「まさか、山本氏と知り合いじゃないですよね?」

 と鎌を掛けてみたが、渡辺は、

「ん──まあ、大学のOBだ」

 と濁すだけであった。


 直人は大きなため息をつくと、問題の核心に触れた。

「もしかして依頼主って、山本一郎だったとか云わないでくださいよ」

「ご明察」

 渡辺は満足そうに微笑んだ。


「すごい話ですね──って、もちろん詳しく説明してくれるんですよね!」

 上司の私情に巻き込まれたのだから、自分には当然知る権利があると主張した。冗談じゃない!


「他の乗客もいるから、直人クンは声のトーンをもう少し落とそうね」

 渡辺はおどけて見せたが、直人からしたら食えない上司の尻尾を掴んだのだ。ここで失敗すれば煙に巻かれる。直人は声を落とすと、

「本人は死を予期してたんですか?」

 と質問を慎重に選んで上司に尋ねた。聞きたいことは山ほどある。だが簡単には教えてくれないはずだ。依頼主が死去しても秘密厳守の義務がある。


「どうかな? 健康には問題なかったようだよ」

 直人は拍子抜けした顔をしたが、渡辺は気にせずそのまま続けた。

「遺言書を改訂するからって山本氏の秘書から二か月前に連絡が来たんだ」

「もしかして浮気調査ですか? だったら俺よりも平岡さんの方が適切──」


 直人は渡辺事務所のもう一人の助手、平岡茂ひらおかしげるを思い浮かべた。周囲に溶け込むのが上手い平岡は、張り込みや尾行を得意とし、事務所でも重宝している人材だ。


「アイツはどこでも食って寝れる男だからなぁ」

「すみませんねぇ、繊細で」

「ははは、お前の繊細さは父親譲りだな──」

 渡辺は遠くを見るような眼差しで直人を見ると、

「でも顔は母親似だけどな。泣きぼくろも同じ個所にある」

 そう云って優しく微笑んだ。


「男のくせにやたら睫毛が長くて、おまけにこの泣きぼくろ──、渡辺さんのように険しい男顔の方が良かったって思う時がありますよ!」

「険しいって何だよ! お前の母さんは外見は可憐だったが、芯は燃えたぎる炎のようだったぞ!」


 渡辺は時々こうして直人のために昔話をしてくれる。直人の父、神崎隆一かんざきりゅういちと渡辺叡治、そして叔父の橘宗一郎たちばなそういちろうの三人は同級生であり、長い付き合いがある。だが、今でも交流を保っているのは渡辺と伯父の宗一郎だけで、隆一は二十年前に他界している。夫に先立たれた妻、恵子けいこは幼い直人を女一人で育てたが、そこには兄の宗一郎の金銭的援助が大きい。だがそんな恵子も四年前にこの世を去った。


「それで、平岡さんの調査は何と?」

 昔話にいつまでも花を咲かせていたかったが、そろそろ駅に到着してしまう。到着前に頭を整理しなければならない。


「学生時代の恋人と何度か密会していたようだが、一回物凄い口論に発展したらしく、それ以来お互いもう会っていないようだ」

「喧嘩別れということですか?」

「で、その後、山本氏が捜査の中止を依頼してきた。ちょうど一か月前だ」

「相手の男性は?」

有馬康弘ありまやすひろ、三十六歳。離婚歴アリ」


 依頼主である山本一郎本人が調査の中止を求めたのなら〝有馬康弘〟という男の調査も放棄されたはずだ。一か月前に何が山本一郎を変えたのかわからないが、こちらが勝手に調査を再開させることはできない。何か事情があるのか、それとも渡辺上司は他の契約を交わしているのか──。


 直人は夫人だけでなく、山本一郎の秘書にも面会する必要があると判断した。

「で、その秘書とは面会できるんですか?」

「もちろん。今夜七時に落ち合う予定だ」


 直人は今までの上司の話をすべて頭の中に叩き込み、調査を進める上での必要事項を絞り込んで整理した。これは直人の癖ではあるが、現場で動くときに目的を失わないためでもある。

  

  依頼人   生前の山本一郎

  調査対象者 山本沙織 有馬康弘

  依頼内容  妻の浮気調査

  期間    一か月間(四月) 

  メモ    山本が調査依頼をキャンセル

        渡辺上司による調査の再開(理由不明)

        山本の睡眠薬の服用(処方薬)

        薪ストーブの排気口の確認


 山本夫人から聞き出したいのは睡眠薬と薪ストーブの通気口の件だ。家族構成も複雑ではなく、相続問題も特にないと判断されているから財産問題から発展するような事件にはならないだろうと推測する。それから鍵を握る〝有馬康弘〟という男の存在は、山本一郎の秘書から聞き出すのが賢明だ。


 直人は頭の中で必要事項を整理すると、山本一郎の残影に触れたときに映った夫人のことを思い浮かべた。


 ──山本一郎の死に夫人が関わっているのだろうか──

 だが、夫人よりも何よりも一番厄介なのは、やはり得体の知れない上司なのだと思えた。

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