生のミュージカルがみたかっただけなのに
さとみ@文具Girl
生のミュージカルがみたかっただけなのに
オペラ座の怪人を知っていますか。
ミュージカルや映画になっていて有名ですよね。
シャンデリアが落ちる場面。顔の半分を覆う仮面の男。
ホラーめいた雰囲気のポスター。でも実際は悲劇のラブストーリーです。
そんなオペラ座の怪人に恋してやまない子どもがいました。二十年ほど前のさとみさんです。中学生ぐらいでしょうか。流行のポップソングなんてそっちのけでミュージカルにハマりました。
2004年公開のオペラ座の怪人の映画を見たさとみさん――つまり私は、その物語の美しさや切なさ、衣装の豪華さや見ごたえ、そして歌のすばらしさに魅了されました。原作本を読み、映画のサントラCDをなんどもリピートする日々を送ります。
そんな私は〈ニューヨークの生のミュージカルが観たい! 本場ブロードウェーのミュージカルでオペラ座の怪人を観たい!〉とまるで恋する乙女のように思い詰めるようになります。
もちろん、ほかの有名なミュージカル作品もDVD化されているものはいくつも自宅で観ました。サウンドオブミュージック、雨に唄えば、コーラスライン、ウエストサイドストーリー。どれももちろんすばらしいのですが、オペラ座の怪人に寄せる強い恋慕に比べたらどれも「あー、感動したー」程度でした。たとえるなら、三日ぶりに湯船に浸かったときの感動ぐらい、でしょうか。
さて、庶民の子・さとみさんは、はじめての受験を中学三年生で迎えました。高校入試です。本人はどこでも良いや、なんなら親友と同じ高校が良いかな、なんて楽観的でしたが、親は「公立の進学校に行こう。というか、行ってくれ」というものですから、私は「はいはい」と軽く受け流す感じで勉強をしていました。その勉強に熱が入ることになったのが、とある日の母からの提案がきっかけでした。
「志望校に受かったら、ニューヨークに連れて行ってあげる!」
私立高校に入ることを思えば、地元公立の進学校に入れば、その入学費用やら三年分の学費やらの差額でニューヨークぐらい行かせてあげよう、とのこと。しかしこの提案でさとみさんは俄然やる気に満ちたのでした。
そして中学三年生の冬。
早朝から学校に行き入試の過去問を解く。そして中学校のあとには進学塾に行き、帰宅してさらに夜更けまで自宅で勉強。翌朝早々に起床してはラジオで英語のレッスンを聞いて学校へ――そんな受験生生活を送った私は、無事にと言いますか、なんとかかんとかと言いますか、とにかく運良く志望校の某公立進学校に受かったのでした。
まあ、ムリに滑りこんだ結果、授業についていけなくなったのですが、その話はここでは関係ないのでスルーしましょう。
とにかく母はよろこんでニューヨーク行きを手配してくれました。
私としては「ブロードウェーで生のオペラ座の怪人が観られるぞ!」とご満悦だったのでしたが、母は暴走していきます。
「ブロードウェー観るだけじゃもったいないわ」
「生の英語をたくさん聞かなきゃ!」
「そうだわ、せっかくなら短期留学で学校にでも入りましょうか!」
「夏休み用の短期プログラムがあるわね!」
「どれにする?」
そんなにっこりとほほ笑んでこちらを見られても、困ったものです。いやいや、私はニューヨークに行っておのぼりさんしてミュージカルが観られればそれで良いのです。そんなお金を使わんでも。
そもそも私はブロードウェーや洋楽は好きでも、英語は苦手。五教科で一番苦手。それなのに英語漬けとは……いや、勉強にはなるだろうけれど、私には耐えられぬ。
しかし出資者たる母はあれよあれよという間に私の夏休みの予定を決めてしまいました。私としては「もう、オペラ座の怪人が観られればそれでイイです」という傍観者の立ち位置で夏休みを待ちました。いいえ、夏休みを待つというより、高校一年生の春から夏まであっという間で「もういくつ寝るとニューヨーク?」なんて歌っていられずに夏休みを迎えていました。
夏休み前の試験が惨憺たる結果だったのも、きっと時間が経つのが早すぎたせいで、私のせいじゃない。
さて、待ちに待った夏休みがはじまって一週間もしないうちに、私は成田空港で大きなスーツケースを持って歩いていました。うしろからは両親がうれしそうな……いや、さびしそうな……いいえ、きっと邪魔者がいなくなってせいせいしていることでしょうから、やっぱりうれしそうな笑顔で、私を見送っていました。
「元気でやんなさい。おばさんに迷惑をかけないでね」
「はぁーい」
「ま、心配してないから。さとみならなんとかなるでしょう」
「任せて」
「ホームシックになるかな」
「ならないでしょ」
ちなみに、私は本当にホームシックになりませんでした。が、ジャパンシックにはなりました。ラーメンや寿司、みそ汁がどれほど恋しかったことか……。
未成年の私は、空港の職員の方に案内されて優先的に飛行機に乗りました。そのとき、私以外に補助が付いたのは小学校低学年ぐらいのちいさな男の子。こちらは私、高校生。この対比に、ちょっと恥ずかしさを覚えたのはここだけの話です。
ようやく、さとみさんのニューヨーク行き短期留学編がはじまったのです。
半日のフライトを終え、JFK国際空港に着くと、私のおば――母の妹――さんが家族総出でむかえに来てくれました。私のおばはニューヨークに住んでいたので、私が留学でお世話になる大学への送迎をしてくれたのです。
私は母の申し込んだ短期留学プログラムに参加することになっていましたが、概要をまーったく理解していませんでした。行き当たりばったり、やってみればなんとかなるさ、という楽観精神。
ニューヨークの某大学のキャンパスに場所を借りて、外国人の英語学習プログラムを支援するグループに所属する。期間は二週間。私のように個人で申し込む人もいれば、団体で申し込んでいるグループもいて、多くはイタリア人、フランス人、ロシア人などヨーロッパ方面が多かったです。
アジア人の生徒は? って思いますよね。思いますよね?
答えは簡単――アジア人も、ましてや日本人の参加者も、私一人でした。
もう少し具体的に言うと、私の参加する期間に日本人含めたアジア人が一人もいなかったのです。直前までの参加者の中には中国人がいたとか――そう教えてくれたのはこの留学プログラムで先生をする「アニーカ」という日本とアメリカのハーフの女性でした。
身長は私と同じぐらい(155センチ)なのですが、寸胴体型の私に比べて、もう、ステキ。ボッキュンボン、でした。サバサバしていて、頼りになるお姉さん、という感じ。彼女が唯一このプログラムの参加者で日本語を〈使える〉人でした。〈話せる〉というには少しカタコトな日本語でしたが、それでも「日本語は普通、英語はちんぷんかんぷん」なさとみさんには大いに頼りになったものです。
プログラム参加者には一人一部屋四畳程度の個室が与えられました。さらにその個室が四つで一つの大部屋になっていました。その大部屋の中には共有のキッチンと冷蔵庫。さらにトイレとシャワーとバスタブが部屋の東西にワンセットずつありました。
留学初日――つまり入居初日。
私が入った大部屋にはほかに二人の女の子がいました。フランス人とイタリア人だったと思います。どちらも私と同じスタート日だったのですが、しかしその二人は同じ国の子がいる部屋にそれぞれあっさりと移ってしまったのです。
「えー……。ぜ、ぜいたくダナー」
まさかの大部屋に一人住まい。しかも最終日までこのままでした。
冷蔵庫は私の私物だけだし、東のトイレとシャワー・バスタブを普段使いしながら西のバスタブで洗濯&物干しという使いよう。はじめての一人暮らしがこんな優雅で良いんだろうか……と思う〈こともなく〉、私は快適な留学生活をスタートさせたのでした。
とは言っても、やっぱり英語を学ぶのが趣旨。英語で英語の説明をされて、何が分かると言うのだろうか。クラス分けの試験もほぼ白紙、配属されたクラスでも無言を貫く始末に、担任のアニーカも苦笑い。
時には「こんなことも分からないの?」と本気で言われました。私は「分からない! 知らない!(日本語)」と本気で答えました。
このプログラムは座学が少なく、ニューヨーク近郊の観光がメインでした。観光バスのような大勢乗れるバスに乗って、遠くはワシントン近くはタイムズスクエアに向かって、バスを降りると現地集合現地解散で自由行動でした。日本語は通じないし英語は分からない……そんな私を助けてくれたのは、アニーカ――ではなく、多くのイタリア人参加者たちでした。
プログラム参加者はおよそ五十人強いたと思います。その半数近くがイタリア人でした。団体で申し込んだのかな、と思うぐらいその方たちはお互いに仲良しでした。そしてめずらしい日本人のぼっちガール(注意・私)をイタリア人の陽気なみんなが構ってくれたのです。
これは本当にラッキーでした。地図も持たなければ土地勘もないところで現地解散された私は、ウロウロオロオロしていました。それを「一緒に行こうよ!」とばかりにイタリア人の小グループが連れて行ってくれたのです。男女の区別なく、みなが私をかわいがってくれたのです。日本でもこんなにかわいがられたことがなくて、本当に感動しました……。
仲良くなった人たちはみな「これを日本語で何て言うの?」と尋ねてきたものです。ナンパな男の子なら「ユーアービューティフルって日本語で何て言うのー?」みたいな。あるいはバス移動の際に「日本の歌うたってー」と言われて、とっさのことに国家〈君が代〉をうたったのも恥ずかしながら良い思い出。いや、もっと日本の歌はあるでしょうよ、と家族につっこまれました。たしかに。
そう言えば「僕の名前を日本語で書いて?」と言った男の子、マルコの話もついでに。おそらく漢字で書いてほしかったのだろう、と察して私は「丸狐」と書いてあげました。「丸子」にしなくてよかったと今でも思います。
二週間のプログラム期間は本当にあっという間でした。
たくさんの友だちができ、簡単な英語と身振り手振りで意思疎通した経験も楽しかったなあ。
アメリカの大学を借りての疑似キャンパスライフも楽しかったものです。今でもあるのかな、私の参加したプログラムやグループ。
この大学で出会った人たちの中で、アニーカとだけ日本で再会できましたが、ほかの方々はもうどうしているのかわかりません。最初のころこそ、フェイスブックを使ってお互いの近況を投稿しあってはその投稿を逐一みていましたが、自国に帰れば旅先での出会いは赤の他人にもどって行く……さびしいですが、それも世の常なのかなと私は悟りました。
私の短期留学は二週間で終わりましたが、その後日談があります。
みなさん、覚えていますか? 私がニューヨークに来た理由。
〈オペラ座の怪人の生ミュージカルを本場ブロードウェーで観ること!〉ですよ? そうです、念願はちゃんと叶いました。
留学プログラムを終えた日、両親も渡米していました。
両親と合流した私は、タイムズスクエアのホテルに移り、短い観光を楽しんでブロードウェーに行ったのです。
生のオペラ座の怪人は……もう、よかった。
生演奏、生歌、生の演技。会場の空気を震わせる一音一音に、英語だからとかそんな語学の壁が一瞬で崩れ去るほどに私の心を揺さぶりました。
プログラムとキーホルダーのお土産も買って、ホクホクの私は、まさに〈青春〉と呼ぶに相応しい旅を本当に終えたのでした。
最初は生のオペラ座の怪人さえ観られればよかったのですが、結果的に短期留学をしたことは私の一生の思い出として、文字通り胸に刻まれました。
もちろん、楽しいことばかりじゃありませんでした。
オートロックの個室の中にカギを置いたまま外に出てしまって、九死に一生の体験をしたり。
食事代として渡されていた十ドル紙幣を、行動を共にしていた女の子たちに巻き上げられてしまったり。
毎日ハンバーガーやピザを食べられる食堂に通っていたのに、時差ボケからくる食欲不振で一時毎食バナナ生活になってしまったり。
遊園地の片すみでイレズミを入れる体験をして「あはは、さとみはバッドガールだ」なんて笑われたりして。
(ちなみに本物のイレズミではなく、吹き付けてからだにペイントするタイプで、一週間程度で消えるものでした。それでも刺激的でしたが)
でも、やっぱり思いだしたらどの記憶にも笑みがこぼれてくるのです。
目の前であいさつとして頬にちゅっとしているのが当たり前に繰り広げられていたのがカルチャーショックでしたし、押して開くとびらを善意で開けていたら、人の波が押し寄せてきてとびらを放すに放せなくなってしまい、律儀な日本人の性格を遺憾なくはっきしてしまったり。
やっぱりあげればキリがないぐらいの思い出があるのです。
なにも、私のように日本人がまったくいない世界に飛び込め、なんて無謀で勝手なことは言いません。でも、知らない世界や土地に行ってみる、それが自主的でもだれかの意図だったとしても、その機会を逃すのはもったいないと私は思います。
友だちを作れとも、危険に飛び込めとも言いません。
けれど、知らない道に一歩ふみ出してみるのは、価値があることだと言えるでしょう。
最初の目的通り〈ブロードウェーで生のオペラ座の怪人を観る〉これだけでも、もちろん私の経験値にはなりました。でも、そこにプラスの日々があったことが、今の私を作っているんだと思うと、あれこれ組み立ててくれた母には感謝です。
それでは最後に、ここまで読んでくれた方々に参考になる話をして終わりましょう。
イタリア人にイタリア語の数字を習ったときのことです。
「ウノ(1)、ドゥエ(2)、トレ(3)……」
ゆっくりと教えてくれる彼らに応えるように、私はくり返しました。
「うの、どぅえ、とれ……」
しかし私が「とれ」を言うたびに「ちがうよー」とみんなが大笑い。実はこの「トレ」、巻き舌で発音するのです。しかし私は巻き舌が苦手でした。
「トレ」
「と、とれ!」
「トレ!」
「とれ!」
私が「とれ!」というたびにイタリア人たちはあっはっはと愉快そうに笑ったものです。
なので、巻き舌が苦手なあなた。イタリア人と関わる機会がありそうなら、イタリア語を取得する前にまず巻き舌を取得しましょう。そうじゃないと、私のように笑われちゃいますよ。
それもまた、思い出ですが。
生のミュージカルがみたかっただけなのに さとみ@文具Girl @satomi_bunggirl
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