9割引

dede

サーモンピンクと聞いてまず鮭の切り身を思い浮かべた自分はきっと悪くない


「私ってばサーモンピンク好きなんだよね」


 俺はノートから顔を上げて、思わず彼女の方を見る。台所の冷蔵庫にスーパーで買ったものをひとまず詰め込んでいる彼女を見る。俺は知っている。「お、うまそ」と言ってその半額の鮭を買っていたのを知っている。


「色?」


「そ。色。コーヒー貰っていい? 一緒飲む?」


「聞かなくていいって。俺の分もお願い」


 あいよーと軽口が返ってくる。コポコポ、という音。おまちーと彼女がカップを両手に持って運んでくる。コトン、という音。辺りにコーヒーの匂いが漂いだす。あちちと指先をふーふーしてる。


「ありがと」


「どういたしまして。でも手、止まってるね? 分からないところあった?」


 俺の手元を覗き込む。彼女の長い髪はハラリと落ちて、俺のシャーペンを持った手を撫でた。

 ゾクリとして思わず手を引っ込める。コーヒーに紛れた彼女の匂いが鼻孔をくすぐる。クラクラする。コーヒーカップを口元に運ぶ。匂いを打ち消す。気をしっかり持たないと。


「どうしたのかな?」


「別に?」


 まだ熱いコーヒーで口元を湿らせる。


「まだエンジンが掛からないんだよ。変な事言い出すし」


「変なこと?」


「サーモンピンク」


「変かな?」


「鮭の色、いいか? というかピンク? オレンジじゃなくて?」


 すると彼女は苦笑いを浮かべた。


「あー、これは色が想像ついてないな? ちょっと待ってて」


 彼女はカバンをガサゴソ漁ると雑誌を取り出す。そして俺の横に座ると、そのたくさん付箋の貼られたファッション誌をめくり、あるページで止める。一つのリップを指差す。淡い、ピンク。


「これがサーモンピンク」


「キレイな色じゃん」


「当たり前でしょ……って、何その目?」


「別に?」


 ただ鮭の切り身から連想した女子を見る目としては妥当だと思う。このページにも付箋が貼られてる。……欲しいのかな?


「なあ?」


「なに?」


 俺は人差し指で雑誌のリップを指す。


「クリスマスにプレゼントしてやろっか?」


「10年早い」


 彼女の人差し指が俺のおでこを弾いた。


「中学生から貰うには気の引けるお値段だしね。私に喜んで貰いたかったらクリスマスだなんて言ってないで成績上げなよ? そしたら私のバイト代も上がるから。ね、受験生くん?」


 そしたら私もリップが買えるわとカラカラと笑う。それに俺はカチンときた。


「なあ?」


「なに?」


「今この家に二人きりって、分かってるか?」


 彼女は笑うのをやめ、無言で雑誌から目を俺に向ける。


「あんまり、子供扱いするなよ」


 俺は彼女の肩を押す。ドサッと床に倒れる音。ドン、と俺が床に手を突く音。彼女の長い髪が床に広がった。


「本気を出せばっ」


「で」


 彼女の無色なリップの塗られた唇が動いた。


「なに?」


 平坦で、震える声が発せられた。


「あなたのお母さんからすぐ戻るって連絡あったの忘れた? 5分? 10分? その間で何する気かな?」


 潤んだ目をした彼女の顔が、間近にあった。途端に頭が冷えた。


「どうするの?」


「ごめん」


「はい。じゃあ、おふざけはお終いね。ほら、体どかして」


 俺は大人しく体をどかす。彼女は身体を起こした。


「じゃ、勉強始めようか」





「あら、美味しそうね」


「ええ、安かったんですよ。それに半額でした」


 と、母の言葉ににこやかに返事をする彼女の手には鮭の入ったエコバッグ。


「じゃ、今日はこれで失礼しますね」


 帰り道気を付けるのよー、とは台所の母の言葉。あれから暗くなるまで勉強を続けたが、まるで頭に入らなかった。なんであんな事をしてしまったのか。恐がられたよな。嫌われたかもしれない。次はもう来ないかも。そう思うと過去の自分を殴って止めたかった。


「おーい、今日言った課題、次回までにちゃんとやれよー?」


「……はい」


 そんな俺の様子を一瞥すると、彼女は大きく溜息をついた。そして俺の手を取ると


「来い」


 無抵抗な俺は彼女に引っ張られるまま玄関まで連れて来られる。そして彼女の指先が俺の耳へと伸び、引っ張った。


「イダッ!?」


 そして耳元に口を寄せるとギリギリ聞こえる声で彼女は言った。


「もう、今日みたいな事しないでよね? したら2度と来ないから」


「はい」


「ホントだからね?……結構恐かったんだから」


「絶対しません」


「ん、ならよろしい。ほら、もう怒ってないから。元気出しなよ? 受験生だろ? 集中しなよ? 志望校、私の母校なんでしょ? あそこ結構レベル高いって知ってるよね?」


「だけどさ……」


 そんな彼女は何度か視線を彷徨わせた後、観念したかのように溜息をまたついた。


「なら挽回するために、成績上げてよ。そしたら私は喜ぶからさ?」


「うぅ……ドライだ」


「いや、じゃなくてさ。……私にうつつを抜かしてたせいで成績下がって志望校落ちましたーって、私が今後あなたのお母さんに会う時どんな顔すればいいのさ? ……来年なら」


「来年?」


「うん。10年も待てそうにないし。来年なら、いいよ。クリスマス、楽しみにしてるね。だから。今年は受験、頑張れ」

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