2話 父の影
その夜、家に帰ると、リビングには冷たい空気が漂っていた。父はソファに座り、無言でテレビを見ている。画面にはニュースが流れていたが、父がそれに注意を向けている様子はなかった。ぼくがリビングに足を踏み入れると、その視線が一瞬でぼくに突き刺さる。
「その腕、どうした?」
低く、硬い声。まるで鋭い刃のように、ぼくの胸を切り裂く。
一瞬、視線を泳がせ、袖を無意識に引き下ろした。何も見せないようにと必死だったが、その仕草がすべてを物語っていた。父は立ち上がり、ぼくの方に一歩近づく。その動きだけで、心臓が一気に縮み上がる。
「聞いてるんだ。答えろ。」
言葉が命令のように響く。その場の空気をすべて支配するような重圧に、ぼくは逃げ場を失った。
「転んだだけだよ。」
口から出た言葉は、掠れていて頼りない。嘘だと自分でもわかっていた。それでも、これ以上の問い詰めに耐えられる自信がなかった。
父の視線がさらに鋭くなる。言葉の隙間に潜む真実を、暴こうとしているかのようだった。やがて、静かに吐き捨てるように言った。
「またか。」
その言葉がナイフのように刺さった。
「弱いから、そうなるんだ。」
冷徹な一言が、ぼくの中に突き刺さり、そしてそのまま抜けなかった。
父の目には、ぼくへの失望しか見えない。何度も「もっと強くなれ」と言われてきた言葉が、頭の中で反響する。強くなるとはどういうことなのか、ぼくにはわからなかった。ただ、父の期待に応えられない自分を情けなく思う気持ちが増していく。
「情けない。」
短く吐き捨てられたその言葉は、ぼくにとってすべてを否定されたような気がした。肩が震えるのを抑えようとしたが、無理だった。涙が出そうになるのを必死にこらえた。泣けば、もっと弱いと思われる。それが怖かった。
そのとき、母が割って入る。「ちょっと、やめて!」
彼女の声は強いようでいて、その中に明らかな怯えが混じっていた。普段は父に従うことが多い母が、ぼくのために声を上げた。それが、どこか悲しかった。
「この子だって、頑張ってるのよ!」
母の声には涙が混じっていた。しかし、父は表情ひとつ変えない。
「頑張る?そんな言葉は何の意味もない。」
父は静かにそう言い放つ。その言葉には、逆らえない力があった。母の反論を一瞬で押しつぶすような重みが、部屋の空気をさらに重くする。
「守ってどうする?弱いやつを甘やかして、何になる?」
冷酷な声が、ぼくの心をえぐった。
「甘やかしてなんかいない!この子を守れるのは、私たちしかいないのよ!」
母は必死に叫んだが、その声も虚空に消えていく。
父はしばらく沈黙した後、ゆっくりと母の方を振り返った。そして、静かに、しかし重く言葉を続けた。
「守る?お前はわかってない。弱さを受け入れたら、終わりなんだ。」
その声に、ぼくは心の奥底が押し潰されるような感覚を覚えた。父の言葉は絶対だ。否定しようという気持ちは、最初から芽生えもしない。逆らえば、その言葉の刃がさらに深く突き刺さるだけだとわかっていた。
母は何も言えなくなり、ただ俯く。その肩が小刻みに震えているのが見えた。ぼくは立ち尽くすことしかできなかった。
部屋に戻り、扉を閉めた瞬間、膝から力が抜けて床に崩れ落ちた。頭の中で父の言葉が何度も反響する。
「弱いからだ。」
「情けない。」
「守る価値なんてない。」
目の奥が熱くなる。自分を否定する言葉を受け止めきれず、ベッドに身を投げ出す。涙が頬を伝うのを止めることはできなかった。
「ぼくは、弱いのか…?」
胸の奥で何かが崩れ落ちていく。自分の存在が、何もかもが無意味に思えた。
それでも、心のどこかで生きる理由を探していた。その夜、暗闇の中で、ぼくはまた思った。
「行き場がないなら、自分でその行き場を決めるしかないのかもしれない。」
その思いが、静かにぼくの中で芽生え始めていた。
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