5
「初めて会った日に紡の鞄に入れたんだ、あの日限りで終わらせたくなかったから。あれっきり会えていなければ、偶然を装って会いに行くつもりだった」
「どうしてそこまでするの……」
思ってもいなかった告白に動揺を隠せない。
僕なんかにそこまでする必要があるわけないのに。
混乱した頭は、律の言葉を受け止めきれない。
吐息のように漏れた言葉を聞き逃さなかった律は、悲しみの色を纏いながら下を向いて微笑んだ。
「怖がらせるって分かってた。だけど、それ以上にもう会えなくなる方が嫌だった」
「…………」
「ごめんね、紡が思っているような健全な神さまじゃなくて」
それはあまりにも切ない懺悔。
僕の神さまは、清廉潔白な神様ではなかった。
どう声をかければいいのか、分からない。
隣にいるはずなのに、映画のワンシーンを観ているかのような。
どこか他人事のような心地で、自分が当事者であることを忘れてしまいそうだった。
「こんなに執着するほど誰かを好きになったのは初めてなんだ」
「…………」
「紡が俺から離れていくのが怖い」
長い睫毛で瞳に影ができる。
その横顔は何よりも美しくて、けれど確かに愛おしかった。
「ごめんね」
「……謝らなくていいよ」
「うん、それでもごめん」
「……狡いなぁ」
だって、謝られたら許すしかないじゃないか。元よりそれ以外の選択肢は持ち合わせていないのだけど。
悪いことをしたと反省している子犬のような姿に絆された僕は仕方ないなぁと、小さな笑みを零すしかできなかった。結局、律になら何をされたって嫌いになることなんてできないのだから。
そして最早恒例とも言うべきか、一緒に寝る・寝ないの論争を繰り広げた僕ら。結局大方の予想通り、「じゃあ俺が床で寝るよ」という律の一言で決着がついた。
いつもそう。僕の負け。
だけど文句の一言さえ言えない僕は先にベッドに入った律を一瞥して、緊張しながら同じベッドの端に寝転んだ。
しんとした真っ暗な部屋。
ぼんやりと天井を眺めても、まだ夜に目が慣れない。
「ふふ、今日がずっと続けばいいのに……」
約束通り僕に触れることはせず、律は独りごちた。その声がホットミルクみたいに優しい甘さを孕んでいるものだから、胸の奥がきゅっと切なく泣いた。
しばらくすれば、律の寝息が聞こえてくる。それは僕にとって、静かな夜に聞く極上のBGM。
寝返りを打って、律の方を向く。
天使のような寝顔がぼんやりと見えた。
手を伸ばせば触れられる距離に律がいる。
ただそれだけで胸の高鳴りは止まらなくて、心臓の音が部屋中に響いているようで落ち着かない。
距離を縮められた分だけ、後ろに下がっている自覚はある。だから僕は、いつまで経っても律に触れることはできない。
それは勇気が出ないとか、そんな簡単な理由じゃない。
……僕はただ、終わりが来ることが怖いのだ。
僕の人生は律ファースト。
律だけがナンバーワンで、オンリーワン。
これから先もずっと、律は僕の人生のセンターを陣取り続ける。どんなことがあっても、何をされても、この気持ちだけは変わらないと確信している。
……だけど、律は違う。
僕を好きになった?
それは律が勘違いしてるだけだよ。
あの東雲律が僕なんかに恋するわけがない。そんなこと、誰よりも理解している。
百歩譲ってもし仮にその気持ちが本当だったとしよう。だけど、情熱的に愛を囁いていたって、次の日にはその熱がすっかり冷めているかもしれない。
ゴールのない僕らの関係は、いつかきっと終わりがやってくる。
地味で平凡な上、男である僕は綺麗な女の人に勝てっこない。結婚という形でお互いを縛る関係にもなれない僕らに、未来の確証なんてないのだから。
律に運命の人が現れたら、僕はあっさりと捨てられる。泣いて縋ることもできず、律の前から姿を消すことしかできない未来がある。
そのうち思い出さえ綺麗に忘れられて、律の記憶の片隅から吉良紡は存在しなくなる。
そうなった時、僕は僕でいられるだろうか。律から消えるということは、僕にとって死を意味するのと同じだ。
それなら、ただのオタクとして遠くから見守っていたい。それができなくても、せめて今の距離感を保ったままの方がいいんじゃないって思ってしまう。
本当は、僕だって律のことが好きだと伝えたい。
だけど、一度手に入れてしまったらそれだけ離れがたくなるから。幸せをもらった分だけ、傷付くことが怖いから。
だから一歩踏み出すことを躊躇って、逃げ出すこともできず、臆病者はその場で足踏みをすることしかできないのだ。
翌朝、目が覚めた僕はなぜか律と肩を並べて、迎えにやって来た楠木さんを玄関で出迎えた。
始発が動き出したら帰ろうと思っていたのに。そんな僕の考えなんてお見通しだったのか、律にいろいろと言いくるめられた結果こんなことになった。
楠木さんは死んだ目をする僕と上機嫌にニコニコしている律を視界に入れると、ハッと息を飲んだ。
「まさか……」
「いや何も無いですからね」
「あんなに熱い夜を過ごしたのに、ひど~い」
即座に否定すれば、律が悪ノリする。
「プライベートはお任せしてますけど、紡さんの気持ちは尊重しないと駄目ですよ」
「何でマネージャーが背中押してるんですか」
「合意だから大丈夫」
「ならいいです」
「いや、こっちがよくないです」
日本で一番売れているスーパーアイドルのマネージャーがそれでいいのか。
僕の声なんて聞こえていないみたいに巫山戯たやりとりを続ける二人。
朝から何なんだ、無駄なカロリーを消費している気がしてならない。わざとらしくため息を吐き出せば、楠木さんは咳払いをすると居住まいを正した。
「さて茶番はこの辺りにして、紡さんの家まで先にお送りしますね」
「それなら大丈夫です。もう電車も動いてるので」
「駄目、ちょっとでも一緒にいたい」
「律さんもこう言ってますし、少し早めに来ているので時間なら大丈夫ですよ」
頭の回る二人によって、包囲網は既に完成されていた。
「ほら行くよ、家の場所なら分かってるんだから」
「……こわいよ」
「逃げられないってやっと分かった?」
「…………」
「ふふ、ごめんね。俺も本気だから」
口調は冗談じみているのに、目の奥が本気だった。青い炎がゆらゆらと揺れていて、僕はそれ以上何も言えずに黙って車に乗り込んだ。
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