5

 境界線の向こう側は眩しくて、僕みたいな平凡な人間なんて手を伸ばすことすら烏滸がましい。ただ、その世界を見ているだけで満足だった。


 目が覚めるとその存在に感謝して、今日もやっぱり律が好きだなぁって思いながら眠りにつく。そんな日々。


 けっして交わることのない関係のはずだった。

 それがどうしてこんなことになっているのだろう。

 何度考えても、答えは見つからない。


 そうして悩む僕と思考の読めない律を乗せて暫く走り続けたタクシーは、超高層マンションの前に停車した。


 普段高級住宅街に足を踏み入れることなんてないから、こんな間近で見たことない。窓から見上げる建物のスケールに萎縮してしまう。



 「着いたよ」



 柔らかい律の声がそう言うけれど、「どういう状況?」とますます疑問が湧いてくる。


 支払いを終えたタクシーにいつまでも乗っているわけにはいかないからしかたなく降りたけど、正直このまま連れ去ってほしかった。


 だけど、繋がれ続けた手がそれを許してくれることはなかった。最早、律に触れられているところの感覚がない。



 「あの、僕はここで……」

 「ん?」

 「…………」



 さすがに聖域に足を踏み入れるわけにはいかない。


 勇気を振り絞って声をかけたけれど、きょとんと見つめ返してくる律を前にすると、何も言葉は出てこなかった。


 律は慣れた手つきでオートロックを解除すると、ロビーを通り抜け、二人揃ってエレベーターに乗り込んだ。


 狭い箱の中に二人きりという現実に目眩がする。広いドームでさえ、律の濃度が高いからという理由で避けてきたのに。目的の階に到着するまで、息を止めることしかできなかった。


 そして律の暮らす部屋、その扉が今目の前で開かれている。迷わずUターンしてしまいたい。



 「やっぱり帰りま、」

 「入って」



 でも有無を言わさぬ物言いに逆らえるわけがなくて、キャパオーバーで魂が抜けたまま、僕はとうとう聖域に侵入してしまった。



 「ここ座って」



 指示された通りソファに座って、律を待つ。これまでしたことがないぐらい、背筋はピンと伸びている。


 少しずつ魂が戻ってきて、脳が正常に働き始める。あまりじろじろ見ないようにしつつも、欲望は素直で、律の部屋を網膜に焼き付けてしまう。


 何度も妄想した律の部屋に比べると殺風景。必要最低限の家具が置いてあるだけの、生活感がない無機質な部屋。


 まるで、律が存在していないみたい。

 なんとなく少し、寂しくなった。

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