3

 ◇◇


 控え室から少し離れたところにあるトイレで顔を洗い終えた僕は、泣き腫らした目をすれ違うひとに見せまいと下を向いて歩いていた。


 律って本当に実在したんだ。

 今になって、そう実感する。


 目と目が合った瞬間、ありがとうと言われた瞬間――どこを切り取っても現実に起きたことだと信じられなくて、改竄された記憶なんじゃないかと疑ってしまう。


 伸びた前髪の隙間から見える眼差しと柔らかな微笑みがふと脳裏に浮かんできて、顔が熱くなった。


 やっぱり律がこの世界で一番綺麗だ。

 そう確信する。


 胸の奥がじんと熱くなって、夢の中かと錯覚したあの瞬間を反芻しながら、ふわふわとした心地で僕は控え室に戻っていた。


 あともう少しというところで、前から足早にこちらに向かってくるひとがいる。

 これ以上、この世界に痕跡を残したくない。

 廊下の端に寄った僕は、存在感を消すことに努めた。


 スタッフさんかと思っていたその人は、目の前まで来ると、突然僕の右手を掴んで走り出した。


 え? ど、して……。

 あまりのことに声も出せない。


 何も言わず、僕の手を引く後ろ姿を視界に入れた瞬間に、語彙力なんてものはどこかに吹き飛んだ。

 まるで人間としての機能を失ったみたい。思考は停止して、ただ足だけを動かしていた。


 やっぱり都合のいい夢を見ているとしか考えられない。僕の作り出した幻だって、そうとしか思えない。


 八年間、ずっと追いかけてきたんだ。

 顔を見なくたって、すぐにわかる。



 (どうして、律が……)


 少し伸びた髪が邪魔だったのだろうか。収録の時とは違って、ハーフアップにした髪がぴょこぴょこ揺れる。奇しくも初めて律に出会った時と同じ髪型だなんて、人生わからないものだ。


 僕の全身からは?マークが絶え間なく飛び出ていることだろう。それほど、今起きていることが理解できない。意味がわからない。


 そんな様子をちらりと確認した律がきらりと瞳を輝かせ、楽しそうに口角を上げていたことなんて、混乱し過ぎている僕に気がつけるはずがなかった。

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