村山ユキナは開幕したい

鐘雪花

村山ユキナは開幕したい

 はあ……困った……

 母の推し球団はわたしの推し球団でもあるから、絶対応援するって決めてるんだけど……

 対戦球団の先発投手が、わたしの推し選手なんだよねぇ。


 ああ、こういうときって、どっちを応援するべきなんだろう!!

 わたしみたいなプロ野球そのもののファンにとっては、究極の選択だよぉ。


 推し球団には勝ってもらいたいけど、推し選手が打たれるところなんて見たくないし……

 どうしたらいいの!?

 だれか教えてーっ!!


「……っくしゅ」


 くっそぉ、寒いなぁ……

 薄手の春コートなんかで外に出るんじゃなかった。

 北海道の3月下旬がまだ冬だってこと、毎年忘れてるんだよね。

 というか、早く春になってくれって願望みたいなものもあって、薄着で外に出ちゃうんだろうな。


 3月下旬……正確に言うと、3月27日。

 記念すべきプロ野球開幕の前日。


 シーズン終了した昨年11月から今日まで、約5ケ月……

 いったい自分が何をしていたのか思い出せないくらい、長い年月だった。

 体感的には、10年くらい。

 そう母に言うと、床のほこりも舞い上がるんじゃないかってくらい大きなため息をつかれてしまった。


 本当に、わたしはプロ野球に人生を捧げてしまっているらしい。

 でも、今さらほかにどうしろというのか。

 もう捧げてしまっている人生を返してもらったとしても、わたしはまたプロ野球に人生を捧げているに違いないだろう。


「いらっしゃいませー」


 サギサワマートは、思ったよりも空いていた。

 ちょうどお昼のピークが過ぎたところらしい。

 わたしの大好きな『唐揚げ弁当』がまだ残っているといいんだけど。


 サギサワマートは、わたしの家の近所にあるご当地スーパーだ。

 ここでしか買えない『ラーメンおかき』という駄菓子が人気で、駄菓子マニアの間ではかなり有名だと、この前テレビで紹介されていた。


 店内には、サービスカウンターの中に宅配受付のコーナーがあって、ここから『ラーメンおかき』を送ることができる。

 もともと『ラーメンおかき』専用の宅配サービスだったのだが、最近では誕生日ケーキの配送など、手広く展開しているらしい。

 わたしは使ったことがないから、よくわからないのだけど。


 つきあたりの鮮魚コーナーを右に曲がると、加工肉のコーナー。

 所狭しと並ぶハムやソーセージには、パッケージに地元球団の選手写真が使われていた。

 どうやら、ハムやソーセージを買って応募すると、抽選で観戦チケットが当たるらしい。


 なるほど、なるほど。

 この北海道にもプロ野球が根付いてよかった。

 まあ、わたしは母の影響で、地元球団ができる前からプロ野球が大好きだけれども。

 母の推し球団と地元球団はリーグが違うから、どっちも応援できて楽しいな。


 ……わっ。

 人が立ってるかと思ったら、地元球団の監督の等身大パネルだった。

 まったく、選手より目立ってどうすんだ。


 野球一色の加工肉コーナーを抜けると、美味しそうな香りが漂うお惣菜コーナー!

 早速、お弁当の棚でお目当てのものを物色する。

 ……よし、あったあった、唐揚げ弁当。

 最後のひとつだった、よかったぁ。

 そういえば、昨日も最後のひとつだった気がする。

 人気だなぁ。


 けっこう大きめの、衣ガシガシ系唐揚げが4個も入っていて、食べ応えあるんだよねぇ。

 付け合わせのポテトサラダも手作り感あって美味しいし……

 あ、大きいニンジンがはみ出して唐揚げの区画に侵入してる。

 昨日のポテトサラダからも、同じようにはみ出してた気がするけど……

 作ってる人が同じなのかな。


 近くのおにぎりコーナーも覗いてみる。

 サギサワマート名物『おにぎりトーナメント』開催中。

 第3回は『ホタテvsシャケ』のようだ。

 美味しいと思ったほうの札にシールを張っていくシステムなんだけど、今回はシールの数がパッと見でわからないくらいの接戦だ。

 どうやら、明日が結果発表当日らしい。


 明日か……

 残念だけど、明日は来る予定ないんだよなぁ。

 気になるけど、結果はいつ見られるかわかんないや。


「お箸お付けしますかー?」

「あ、大丈夫です」


 結果といえば……

 去年は消化試合ながらも高卒ルーキーがけっこう頑張ってたんだよなぁ。

 どの球団の選手も活躍してて、来シーズンが楽しみだって思ったよね。

 そんなルーキーたちが、わたしと同い年なんてなぁ……

 ほんと「シンジラレナーイ!」って感じだよ。


 今年は、どんな活躍を見せてくれるんだろう。

 そのうち、彼らが自分たちのチームを……

 いや、プロ野球全体を引っ張っていく存在になるんだろうな。


「ユキナー。おーい、ユキナー」


 その頃、わたしはどこで何をして生きてるんだろう。

 就職して、もうこの町に住んでないのかな。

 バリバリ働いてるか、結婚してお母さんになっているか。

 それとも……

 今と何も変わらない、母と野球を観る生活をしているのかもしれないな。


 明日のことすら、わからない人生だ。

 未来のことなんて、わからなくて当たり前。

 でも、そんなわからないことだらけの世界で、ひとつだけ確実にわかっていることがある。

 それは、たとえどこにいようとも、わたしがプロ野球を観続けているということだ。

 なんてったってわたしは、三度の飯よりプロ野球が


「おいこらユキナー! 村山ユキナ19歳、大学1年生―! 大学生活最初の春休みを満喫している、プロ野球大好きなそこのおねーさんやーい!」


 サギサワマートの南出口を出て、右に曲がった先にある大きめの十字路で声をかけられた。

 四辻の一角に女の子が立っていて、先ほどからわたしのことを呼んでいたらしい。


 冬物のダッフルコートを着て、両手を腰に当て、両足は肩幅に開いて立ち、じっとわたしを見上げている。

 その顔は明らかに不機嫌そうで、眉間にはグッとシワが寄っていた。


 どこかで見たことがある……

 あ、そっか。

 久々に会うから……というか、会えるなんて思ってなかったから、すぐにはわからなかったけど、


「もしかして……まーちゃん?」


 わたしは、おそらく10年ぶりくらいに、親友の名前を口にした。

 まさか、またこの名前を呼ぶときがくるとは……


「そうだよ! 久しぶりだね!」


 まーちゃんはというと、わたしを下から睨みつけて、低い声でそんなことを言った。

 ちぐはぐにも、ほどがある。

 でも……ちぐはぐなのは、それだけじゃない。

 それらを指摘しようとしたところで、まーちゃんが「ごめん」と口を開いた。


「いろいろ聞きたいことはあると思う。でもね……今は、それどころじゃないんだよ」


 まーちゃんはそう言うと、わたしの顔を穴が開くんじゃないかと思うほどじっと見つめて、


「あたしは、ユキナに教えに来たんだ。3月27日がループしてるってことを」


 と、言った。


「は?」


 開いた口が塞がらない、とはまさにこのことで、道行く人は不思議そうにわたしに視線を向けて足早に去っていった……恥ずかしい。

 ……いやいや、待て待て。

 それどころじゃない。


 まーちゃん、今、何て?

 3月27日が、ループしている……?

 それって、3月27日は今日だけじゃなくて、昨日も一昨日も、その前日も……ってこと?

 えええ、そんな……

 そんなこと……


「もう、まーちゃんってば何言ってんの? そんなの、マンガやアニメの世界じゃあるまいし、現実に起こるわけないじゃん! シンジラレナーイ! だよぉ~!」


 あ~、びっくりした。

 まーちゃんってば、突然現れたと思ったら、そんなよくあるSFみたいなこと言っちゃって……


 今どき、それぐらいじゃフィクションの世界ではやっていけないと思うよ?

 もっとこう、派手なアクションとか、異世界がどうしたとかがないとさ。

 時間がループしてるだけじゃ、フィクションとしては弱いと思うね、わたしは。


 さ、早く帰って、お正月にやってたのを録画しておいた『リアル野球BAN』観ながら唐揚げ弁当食べよーっと。


「じゃ、帰るね。ばいばい」


 わたしは、まーちゃんに手を振って歩き出そうとした。

 早くしないと、唐揚げが冷めてしまう。

 しかし、まーちゃんは表情ひとつ変えずに、わたしの唐揚げ弁当を指さして、


「ユキナ、昨日も唐揚げ弁当だったよ。あたし、実はレジ横の窓からこっそり見てたの。昨日も今日もね」


 と、言った。

 その顔はいたって真剣で、まるで自分の目に自信をもって審判団にリクエストする監督のようだった。

 今のはアウトじゃない、絶対にセーフ……!

 確信の表情だ。


 しかし……残念!

 わたしは首を横に振った。

 たったそれだけじゃ、判定は覆らない。

 3月27日……今日がループしている証拠にはならないのだ。

 なぜなら、


「最近は、毎日サギサワマートのお弁当だから、昨日も今日も買ってたって言われてもねぇ……昨日も最後の唐揚げ弁当買ったの、覚えてるし」

「え、そうなの?」

「うん」

「……飽きたりしないの?」

「だって、美味しいんだもん。毎日でも飽きないよ。まーちゃんだって小学生の頃、ここの『ラーメンおかき』毎日5袋は食べてたけど、飽きないって言ってたじゃん。あれと同じだよ」

「……」


 わたしの解説に、まーちゃんはすっかり黙ってしまった。

 リプレー検証は確実な証拠がないと判定が覆ることはない。


 9回ウラ二死ツーアウト、一塁アウトの判定を巡ってまーちゃん監督はリクエストしたものの、失敗。

 判定覆らず、三死スリーアウトで試合終了。


 ……さて、そろそろ本当に帰らないと、母から頼まれている家事が時間までに終わらなくなってしまう。


「それじゃね、まーちゃん」


 手を振って、家路を急ぐ。

 そんなわたしの背中から、まーちゃんの声が聞こえてきた。


「ユキナは、明日もここに来るよ。そして、唐揚げ弁当を買って帰るところで、またあたしに会うんだよ。本当だからね」


 わたしはその声に答えて、後ろ手に手を振った。


 まーちゃん、それが本当だとしたら……

 また、まーちゃんに会えるんだね。


 わたしは、明日が来るのが少し楽しみになっていた。

 そんなはずはないと、心では思っていたのに。



◆◇◆



 14:00。リビングで唐揚げ弁当を食べつつ、録画してとっておいてある『リアル野球BAN』を観る。

 テレビに向かって「もう来シーズン分の併殺打ゲッツー打ったから、もう打たなくて済むかもよー!」と、なんとなく慰めの言葉をかけてみる。


 17:00。パートに出ていた母が帰宅。

 サギサワマートの品出し担当の母には、空容器だけで唐揚げ弁当を食べたことがわかってしまう。

 で「太っても知らないからね」と脅される。


 18:00。晩ごはんの時間。

 2日目のカレーでつくるカレーうどんは、コクがあって美味しい。

 会社の友人と旅行中の父、高校の部活で合宿中の妹から、それぞれエンジョイしている内容のメールが届く。

 ……ちょっとウザイ。


 19:00。カレーうどんを食べていると、気をつけていたにも関わらず服に染みができる。

 母に「子どもじゃあるまいし~」とバカにされ、悔し涙を堪えつつ染み抜きをする。

 食後は入浴タイム。


 21:00。お風呂上りはスポーツニュースのチェック、明日のことばかり考えている。

 一緒にテレビを観ている母は、推し球団が全解説者から最下位予想されててかなりご立腹。


 23:00。就寝時間。

 まだリビングに残ってテレビを観ている母に「おやすみ」と挨拶し、自室へ撤収、そのままベッドへ。


 ……とまあ、これがここ一週間のわたしの日常である。

 こうして3月27日も終わっていくのだ。


 そしてついに明日は、プロ野球開幕日!

 わたし的注目の一戦は、母の推し球団vs.わたしの推し投手……

 うーん、今からもう楽しみで楽しみで……!


 そういえば、明日はサギサワマートの『おにぎりトーナメント』結果発表なんだっけ。

 ああでも明日は母と一緒に開幕戦をゆっくり観るために、家のこと全部終わらせる作戦で家から一歩も出ない日なんだよねぇ。


 3月28日金曜日、プロ野球開幕……!

 うわぁ~楽しみだなぁ~っ!

 わたしの推しが先発なら、母の推し球団は一番打者リードオフマンをあの選手にしてくるはず。

 先頭打者本塁打ホームラン、出ちゃったりして……!

 ああでもわたしの推しに負けがつくのは嫌だなぁ。

 仕方ない、推しにはほかのとこから勝ってもらうとして、明日は「勝ち負けつかず」が理想だね。

 で、母の推し球団が勝つ……いいねぇ。


 えーっと、ほかの対戦カードはテレビで観れるんだったかな。

 イニング間にCMが入るから、その間にチャンネル変えていろいろ観てみよう。

 あと、データ放送でスコアも確認しつつ、もちろんスマホで経過もチェックして……


 なんてことを楽しく想像しているうちに、わたしはいつの間にか眠りに落ちていた。

 その日、久しぶりにまーちゃんに会ったことも、そのときに言われた言葉も、このときのわたしはきれいさっぱり忘れていたのだった。

 まるで、土がついたから交換されてボールボーイに持っていかれたボールのように。



◆◇◆



 いつもと同じようでいて、少し違う朝がやってきた。

 8:00に起床し、リビングへ向かうと、今日はパートを休みにしているはずの母が出掛ける支度をしていた。

 ソファに置かれたカバンは、昨日と同じ仕事用のものだ。


 ……あれ?

 おかしいな、だって今日は……


「開幕戦、ゆっくり観たいから今日は仕事休みにするって言ってなかったっけ?」


 対面式キッチンへ向かいつつ、声をかけてみる。

 しかし母は、


「それは明日の話でしょう、ユキナってば開幕戦楽しみにしすぎなんだから」


 と言って、苦笑いを浮かべていた。


 ……変だな。

 昨日もこうやってリビングから玄関まで見送った気がするけど。


 訝しむわたしに母は気づいていないようで、カバンの中身を指さし確認している。

 そして、全部入れたと思いきやスマホが充電中で慌てて2階に取りに行って、戻ってきてスマホをカバンに入れた。


 ……おかしい。

 何もかも、昨日と同じだ。


「それじゃ、行ってくるね。朝ごはんは昨日のカレーが残ってるから、温めて食べてね。夜ごはんはそのカレーにうどん入れるから、全部食べないで残しておいていいから」


 母が指さす先、コンロには昨日空になったはずの鍋が置かれている。

 中を確認してみると、昨日食べ終えたはずのカレーが残っていた。

 ……なんで。


「お昼は自分でなんとかしてね。何かあるもので作ってもいいし、サギサワマートのお弁当買ってもいいし……洗い物、ちゃんとやっといてね」


 自分で作るの面倒くさいから、お弁当にしよう。

 唐揚げ弁当あるかな……と思いつつ、昨日も同じことを考えていたような気がしている自分に驚く。


 昨日と同じ……

 と、そこでわたしは、昨日のまーちゃんのことを思い出した。


『ユキナは、明日もここに来るよ。そして、唐揚げ弁当を買って帰るところで、またあたしに会うんだよ。本当だからね』


「……まじか」


 あのときのまーちゃんの言葉が鮮明に思い出された。

 まーちゃんは真剣な顔をしていた。

 わたしは……

 そうだ、まーちゃんに会えるんだって、ちょっと嬉しくなったんだった。

 それはもう、まーちゃんの言ってることを信じてないってことだって、気づいてなかったんだ。


「ちょっとユキナ、聞いてるの? 返事ぐらいしてよね」


 思わず口から出た「まじか」に反応した母の鋭い声に、話を聞いていなかったと少し焦った。


 おわわ、大変だ。

 お母さん、今何て言った?

 あーでもこれ、聞き返したら怒られるやつだよねー、どうしよう……


 と、内心で慌てつつ、待てよと気がついた。

 これも、昨日と同じってことになるんだよね。

 それなら、無理に聞き返さなくても大丈夫なんじゃない?

 昨日、何て言われたか忘れたけど。

 たぶん、昨日も聞いてなかったんだろうな。


「うん、聞いてるよ、大丈夫」

「えー、ほんとー?」

「うん、本当。ほら、もう行かないといけない時間じゃない?」


 面倒くさくなる前に逃げよーっと。

 わたしが玄関の時計を指さすと、案の定、母は「大変! じゃ、あとは頼んだからね!」と慌てて出て行った。

 リビングの窓からは、走って行く母の姿が見えた。

 隣の家の生け垣と身長が同じらしく、その先は見えない。


 ……昨日と同じだ。


 キッチンへ戻り、恐る恐るもう一度コンロに置かれた大鍋の中身を確認する。

 そこにはやっぱり、昨日食べ終えたはずのカレーがまるまる残っていた。


 なんで!? どうして!?


 いろいろ考えてみなくては……

 と決意したところで、わたしのお腹が応援団の鳴り物のように轟いた。

 ……とりあえず、朝ごはん食べよう。

 話はそれからだ。


 無造作によそった大皿のカレーライスを口に運びながら、テーブルに置かれている朝刊の日付に目をやる。

 それは、まぎれもなく、


 3月27日 木曜日 大安


 だった。

 まさか、とは思うけど……

 この村山家にだけ古新聞、つまり昨日の新聞が届けられた……

 なんてことは、ないはず。


 テレビのスイッチを入れてみると、ちょうどワイドショーをやっていた。

 司会者が「3月27日木曜日、時刻は午前9時30分を過ぎました」と全国に向けて笑顔を振りまいている。


「……」


 これはやっぱり、まーちゃんの言っていたことが……

 いや! まだだ。

 まだ確認していないことがある。


 わたしはテレビを消してから、スマホを叩き壊す勢いで操作し、次々とSNSの情報を確認していった。

 フォローしているプロ野球関連のアカウントを片っ端から開いて、最新の投稿をチェックしていく。


 今日が開幕日なら、かなりの数の投稿があるはずだ。

 プロ野球球団の公式アカウントはもちろん、ファンの人たちも楽しみにしていて当たり前で、何かしらイラストや写真を投稿しているに違いない。


 突き指しそうなくらい、激しくスマホの画面をスクロールしていく。

 しかし……

 勢いよく走っていた指は、飛球がフライアウトになった打者バッターのようにスピードを緩めることになった。


「なんで……これ全部、昨日のままじゃん!」


 開幕投手のコメント、新監督チームの紹介、FAフリーエージェントとかトレードとかで来た選手の意気込み、トライアウトから復帰を目指し、新天地で頑張る選手のインタビュー……

 あれもこれもそれも、ときどき入り込んでくるスマホゲームの広告まで、全部昨日見たまんまだ。

 知ってることばっかり!


「……」


 これは、なんというか……まさに、


 シンジラレナーイ!


 じゃないか!


 ああ……

 1回表に満塁本塁打ホームランを2本も打たれた先発って、こんな気持ちなのかな。

 いきなり8点のビハインド。

 もう、ぐうの音も出ない。


 ……えっ!?

 ちょ、ちょっと待って……

 もしかして……

 ずっと、このままってこと……!?


 ど、どどどどうしよう!!

 このまま、永遠に3月27日が続いたら……

 大変だ!


 プロ野球が開幕しないじゃないか!!


「そんなの絶対に嫌だあぁぁぁーっ!!」


 ダンッ!

 とテーブルを叩いた衝撃で、カレーライスを食べ終えたスプーンが宙を舞い、凄まじい金属音とともにテーブルの上を跳ねまわった。

 ……スプーンが動きを止めると、リビングには静寂が訪れた。

 水を打ったように静かな部屋の中で、ふと、


『ユキナは、明日もここに来るよ』


 昨日のまーちゃんの声が、頭の中に流れてきた。

 ああ、そうだ……

 昨日会ったときから、まーちゃんはわたしに3月27日を繰り返しているって教えてくれていたんだった。


 と、いうことは……

 まーちゃんなら、この状況をどうにかする方法を知っているかもしれない!


 まだだ、まだ1回表が終わっただけじゃないか。

 こんなところで諦めたりなんかしないぞ。

 8点のビハインドがなんだよ。

 それならこっちは、本塁打ホームランでも適時打タイムリーでも打ちまくって、9点取ればいいだけの話じゃないか!

 母の推し球団なんて、10点差をひっくり返して勝った試合があるんだぞ!


 わたしは大急ぎで朝ごはんの洗い物を済ませて、サギサワマートへと向かった。

 3月下旬とは思えない寒風吹きすさぶ住宅街を、マフラーに顔をうずめて足早に歩いていく。

 コートも冬物にしてきてよかった。

 雪かきで集められた空き地の雪山が、こちらを見下ろしている。


 さて、まずはまーちゃんに会ったら謝らないと。

 せっかくいろいろと教えてくれようとしていたのに、何も信じようとしなくてごめん。

 これで許してもらえるだろうか。

 いや、許してもらえなくてもいい。

 まずは、この状況をなんとかしないと。


 1回ウラ、まさかの8点のビハインドで迎える初回の攻撃……

 まずは、何が何でも塁に出る。

 話はそこからだ。



◆◇◆



 この状況である。

 わたしはもう、サギサワマート名物の『おにぎりトーナメント』のシール台に「結果発表は明日! お楽しみに!」と書かれていても、もう驚かなくなっていた。


 ああ、これから変えるのかなーとか……

 あれ? 忘れてる? とか……

 そんなことは、微塵も考えていなかった。


 お弁当コーナーで、昨日と同じポテトサラダのニンジンがはみ出した唐揚げ弁当を買い求め、大急ぎで十字路へ向かう。

 そこには昨日と同じ女の子がひとり、暖かそうなダッフルコートをはおって両手を腰に当て、両足を開いて踏ん張りつつ、わたしを待ち構えていた。

 眉間にぐーっと寄せられていたシワは、わたしの姿を見るなり緩められ、


「あれー? ユキナってば昨日と違って冬コートなんだねぇ」


 そう言って、まーちゃんは勝ち誇ったようにニヤリと笑った。

 すべてお見通しらしいまーちゃんに、わたしは「何もかも昨日と同じなら、寒いと思って……」と答えて目を逸らした。

 ……って、いやいや、そんなことを話している場合じゃない。

 わたしは、目の前のまーちゃんに、ぶんっと音が鳴るくらい勢いよく頭を下げた。


「昨日はごめん! まーちゃんの言うこと、何も信じようとしなくて……本当にごめん!」

「……ん。わかってくれたんなら、よし。顔、上げなさい」


 促されるまま顔を上げると、まーちゃんはまだニヤニヤと笑っていた。

 どうやら、怒ってはいないらしい。

 ほっとした……けどちょっとイラッとする。


「ふふ……言った通りだったでしょう?」


 ニヤニヤ笑うまーちゃんに、わたしは神妙に頷いた。

 そして、


「確かに、まーちゃんの言う通りだったけど……これってまさか、もうずっとこのままなの……? そ、そんなわけ、ない、よね……?」


 恐る恐る確認してみると、まーちゃんは「そうだなぁ」と遠い目をして、


「時間の流れをもとに戻す方法は、なくもない、かな」


 と、呟いた。


 えー……

 なんだその頼りにならない一言は。

 君は先発の勝ちを消してしまう中継ぎか抑えか。


 でも……方法があるなら聞きたい。

 そして、それを実行したい。

 わたしにできることなら、なんだってやるつもりだ。

 だってそうじゃないと、いつまでも今日のまま、明日が来ない。

 明日が来ないと……


「教えて! まーちゃん! わたしは、どうしたらいいの!?」

「え? ユキナってば、急にどうし」

「だって明日が来ないとプロ野球が開幕しないんだもん!!」

「……」


 思わず叫んでしまった。

 道行く人が昨日と同じように、わたしをチラチラ見ながら通り過ぎていく。

 しまったまたやっちゃった恥ずかしーっ!

 しかし、身悶えるわたしに、まーちゃんは、


「あはははは! ユキナってば、相変わらずだねぇ!」


 そう言ってひとしきり笑ってから、目元を拭った。


「やっぱり、三度の飯より野球が好きなんだ~」

「いやぁ、そこは小学生の頃から変わってないからね」


 うんうんと頷いてから、わたしは慌てて「いやそれより!」と話をもとに戻した。


「どうしたらいいか、知ってるなら教えて!!」


 わたしは、飛球に向かって思い切り腕を伸ばす外野手のように必死だった。

 ボールよグラブに入ってくれ!

 そんな感じで、ボールという名のまーちゃんの次の言葉を待った。

 しかし、まーちゃんは渋い顔で、


「うーん……教えてあげたいのは、やまやまなんだけどねぇ……」


 と言って腕を組むと、


「これは、教えちゃいけない決まりになってるんだよ。原因であるユキナが自分で気がついて、自分でなんとかしないとダメなんだって」


 そう言って「ごめんね」と苦笑いを浮かべた。


 ああ……

 取れるはずだったボールが、あと1ミリってところでグラブに収まらず、だれもいない外野を転々としていく。

 その間に、打者バッターは快足を飛ばして三塁へ。

 うーん、無死ノーアウト三塁の大ピンチ。

 そうだなぁ……

 ついさっきまーちゃんに謝って2点返したってことにすると、2回表で2対8、無死ノーアウト三塁か……

 ああ、どうしよう!


 ……ん?

 ちょっと待ってよ……?

 まーちゃん、今、何て言った?

 わたしの聞き間違いじゃなかったら、さっき「原因であるユキナが」って言わなかった?

 言わなかった!?


「これって、わたしのせいなの!?」


 またもや声が大きくなってしまって、道行く人にチラチラ見られるわたしを気にすることなく、まーちゃんはポカーンとした顔で、


「えー? 言ってなかったっけ? そうだよー、ユキナのせいだよー」


 なんて言ってのけた。

 えー……何それー……

 それじゃあまるで、さっきのプレーは記録では三塁打スリーベースヒットじゃなくて、二塁打ツーベースヒットにわたしの失策エラーがついて結果的に走者ランナー三塁になったってこと……

 みたいな感じなのね。


「……まじか」

「うん、まじまじ」


 まーちゃんの言葉は、投手の手の中で宙を舞い、またマウンドへと戻されたロジンバッグの煙のように、フワフワと頼りなかった。

 しかし、そのままグラウンド全体に流れて消えていくのかと思いきや、


「……答えは教えられないけど、ヒントなら教えてもいいみたいなんだよねー。だから、心当たりがあるなら言ってみてよ」


 なんて、その場に漂い続けているのだった。

 ……どうやら、ここは風の吹かないドーム球場らしい。


 それにしても、ありがたい。

 まーちゃんの一言のおかげで、三塁に走者ランナーはいるものの、なんとか二死ツーアウトまでやってきた感じがする。


 そうだよね……

 野球は、1人でするスポーツじゃないもんね。

 グラウンドには、8人の仲間がいるんだ。

 ……まあ、8人ともわたしの分身のようなものだけど。


「心当たり、か……」


 腕を組んで、必死に頭を働かせてみる。

 この「3月27日がループしている」という奇妙な現象は、わたしのせいで起こっている。

 だから、わたしがループの原因に気がついて、なおかつそこから何かしらの行動を起こさなければ、3月27日が永遠に続くことになる……


「……」


 まずは、その問題について考えてみる。

 この現象がわたしのせいで起こっているってことは、わたしが何か「悪いこと」をしているってこと……なのかな。

 例えば、知らず知らずのうちにやっちゃってる「ダメなこと」がある、とか?

 うーん……それって、何だろう。


「……」


 ここで少し、わたしの春休みを振り返ってみることにする。

 修了式が終わって、部活やサークルに所属していないわたしは、お金を貯めてやりたいこともないからアルバイトもせず、ただ家でゴロゴロと時間を浪費する春休みを過ごしている……

 この生活の中に、時の流れを止めてしまうような「悪いこと」や「ダメなこと」はあるだろうか……


「……」


 しかし、これといって何かした記憶はない。

 それから、家には何やらいわくつきの古時計もなければ、なぜかめくれなくなっている日めくりカレンダーもない。


 そして、この空間自体が『だれかの夢の中』という可能性もあり得ない。

 先ほどから唐揚げ弁当のいい匂いが漂っているし、袋を下げている手の指先はかじかんできているのだ。


「……」

「いや~、長考だねぇ」


 まーちゃんの間延びした声に、わたしはグッと現実に引き戻された。

 気がつかないうちに、うんと長いこと考え込んでいたらしい。


「まっっったくないみたいだね、心当たり」

「……」


 まーちゃんの一言に、わたしは見逃し三振した打者のように天を仰いだ。

 2回ウラ二死ツーアウト満塁、せっかくさっきのピンチを抑えて迎えた大チャンス……

 ああ、それなのに……!

 せめてバットを振っていたら、何か起こっていたかもしれないのに!

 何が何でも走者ランナーを帰そうという気概はなかったのか!

 何やってんだよ、わたし!


「ねぇねぇ、ユキナ」


 チームメイトのまーちゃんが、まだバッターボックスに立ったままのわたしを見かねて迎えに来てくれた。

 ああ、こういうときベテランが声をかけてくれるチームって良いよね。

 ベンチの雰囲気が明るいチームって、大好きだよ……

 まーちゃんは、わたしをベンチに連れて行きながら、


「心当たりがないってことは、さ……そもそも、逆なんじゃないかな」


 と、耳元で囁いた。


「逆……?」

「そうそう。何をしたのか、じゃなくて、何をしてないのか、ってことなんじゃないかなー。きっとユキナは、何かを忘れているんじゃないかなー。で、その何かのせいで3月27日をループしてるんじゃないかなー」


 と、まーちゃんは歌うように囁いてから、


「まあ、ここまでだったら教えてあげられるかなー」


 と付け足した。

 そういえば「教えちゃいけない決まり」とかなんとか言ってたっけ。


 わたしが何をしたのかじゃなくて、何をしていないのか……

 それを、まーちゃんは知っている。

 知っていて、教えられない、と……


 いやそんなもん知るかーっ!

 今すぐ教えてくれーっ!


 ……と思ったけれど、そういうルールなら仕方がない。

 与えられたルールの中で頑張ろう。

 プロなら木製バット、当たり前だよね。


「……わかった、頑張って思い出してみるよ」


 捕手キャッチャーが出すサインに頷く投手ピッチャーのように、わたしは神妙な顔でまーちゃんに頷いていた。

 するとまーちゃんは、チャンスで四番に打席が回ってきたときのファンのようにキラキラした瞳で、


「うん! 応援してる!」


 と、両こぶしを握った。

 グラウンド整備中の花火みたいに眩しい笑顔に見送られて、わたしの戦いは始まった。

 大切な何かを思い出す、という戦いが。



◆◇◆



 14:00。わたしは唐揚げ弁当を食べながら、忘れている大切な何かについて考えていた。

 いつもなら、録画してある『リアル野球BAN』を観ながら「もう来シーズン分の併殺打ゲッツー打ったから、もう打たなくて済むかもよー!」と、なんとなく慰めの声をかけるところなのだが、さすがに今日は観る気になれなくてやめておいた。

 静かなリビングの中で、咀嚼音だけが響いている。


 わたしが忘れている大切な何か……

 そのせいで、世界は3月27日を繰り返している……


 ……ダメだ、さっぱりわからない。

 わたしは、いったい何を忘れているんだ?


「……」


 考え事をしていると、自然と手が止まってしまう。

 お弁当の唐揚げは、いつも通り美味しいはずなのに。

 早く食べ終わらないと、この後のことが何も進まない。

 このままじゃ、何もできないじゃないか。


 何もできない……

 何もしていない……

 ずっと家にいるだけの春休み……

 あ、そういえば……


『何もしないで家にいるだけなら、家の掃除とかしといてくれないかなぁ。働かざる者食うべからずって、学校で習わなかった? 習ってないなら、今から教えてあげようか??』


 ふと、母の小言が頭の中によみがえってきた。

 春休みが始まって、3日ほど経った頃……

 確か、テレビを観ながらリビングのソファでゴロゴロしていたときに言われたんじゃなかったかな。


 ……今思い出してみると、なんてだらけた生活だったことか。

 部活にもサークルにもアルバイトにも行かず、かといって家事を手伝うわけでもなく、家でグダグダと野球関連のニュースをはしごする日々……

 わたしが母の立場だったら、こんな奴もう家から追い出しているだろう。


「……家の掃除、か」


 わたしが忘れている、大切な何か……

 何かをするのを忘れているから、明日が来ない……

 その何かって……


「そうだよ、掃除だよ……うん! 間違いない!」


 きっと、家中ピカピカにすれば明日が来てくれるんだ!

 たぶん……いや、絶対コレだ!

 ああ、でも……

 なんか、お正月に向けての大掃除みたいになってきた感が……

 ま、いっか! とにかく、やってみよう!


 わたしは急いで唐揚げ弁当を食べ終えると、キッチン横の収納から掃除機を引っ張り出し、慣れない掃除機がけを始めたのだった。



◆◇◆



 スコアは5対8。

 9回ウラ二死ツーアウトからの連打で満塁とし、打者バッターは得点圏打率8割超えの四番。

 マウンドには今季被安打0の絶対的守護神、しかしここまで四球フォアボールが2つと制球が定まっていない様子。

 これはもう、絶対に何点かは入るだろう。

 もしかしたら、ここで逆転の……


「あ~、残念! いい線いってたけど、そーいうことじゃ、ないんだよね~!」


 2ストライクからの3球目……

 ……空振り三振―っ!! 試合終了―っ!!


「だ……だよねー!」


 だって朝起きたときから昨日と同じだったもんねー!

 そうだよねー! 掃除じゃないよねー! 違うよねー!

 ……はあ。


 いつもの十字路で、わたしは唐揚げ弁当を手に、また天を仰いでいた。

 目の前に立つまーちゃんは、昨日と同じようにフワフワとしてはいるものの、若干渋い表情を浮かべている。

 今にも「相手のほうが何枚も上手だったな」なんて言い出す監督みたいだ。

 遠い目をするわたしに、まーちゃんは、


「でも、本当にいい線いってたんだよ。お母さんの言ってたことを思い出したのは、あの、アレだね、あの……ファインプレー! だね」


 なんて、それほど詳しくない野球を例えに出して、野球好きのわたしを慰めてくれたのだった。

 しかも、新しいヒントまでくれて。

 ……危うく聞き逃すところだったけど。


「お母さん、の……?」

「そうそう。けっこ~大事なこと言ってるんだよね~」

「え、まじか。何だろう……」


 ふむ、と考え込むわたしに、まーちゃんは真剣な顔で、


「今からでも遅くないから、ちゃんと話を聞いてみるといいよ。ユキナ、最近お母さんに生返事ばーっかりしてるでしょう」


 と言った。


「……」


 うーん、図星。

 まーちゃんってば、見てきたように言うなぁ。

 確かに今朝だって「うん聞いてた」とかなんとか言って玄関で見送ってきたけど……


 まーちゃん、もしかして見てた……?

 まぁ、いいか。

 わたしはまーちゃんに「わかった」と頷いてから、ふと気になったことを尋ねてみた。


「もしもわたしが忘れてることを思い出したときは……ここに来たら、まーちゃんに会えるんだよね?」


 これは、確認のつもりの質問だ。

 なんとなく、答えを知っているまーちゃんに「正解!」って言ってもらいたい、というか……

 ちゃんと正解かどうか知りたいのだ。

 まあ、気持ちの問題なんだけれど……


 まーちゃんはというと、わたしの確認に「うーん」と首を捻って、


「どうかなぁ……いるかもしれないし、いないかもしれないなぁ……残念だけど、あたしにもわかんないや」


 そう言って、寂しそうに笑った。


 わからないの?

 自分のことだよね?

 ……とは、聞けなかった。


 どうやらまーちゃんは、わたしにはわからない秘密を抱えているらしい。


「……そっか」


 そろそろ帰らないと、母が帰ってくるまでに手伝いが終わらない。

 足を踏み出した、そのとき。


「ユキナ」


 まーちゃんが、改まった口調でわたしの名前を呼んだ。

 そして、満開の桜みたいな笑顔で、


「久しぶりに、たくさん話せて楽しかったよ。ありがとう」


 と言った。


 ……ちょっと待ってよ。

 なんでそんな、最後の挨拶みたいな……

 最後じゃないよ!

 まーちゃん、わたしまだ思い出してないもん、また会えるよ。

 ねぇ、まーちゃん……

 まーちゃんってば!!


 ……残念ながら、わたしの言葉は声にはならず、まーちゃんには届かなかった。

 まーちゃんは、石みたいに動かないわたしに、


「大丈夫。ユキナが何を思い出しても、あたしは怒ってないから。これだけは、忘れないでね」


 と手を振って、十字路の角を左に曲がってしまった。


「まーちゃん!」


 我に返ったわたしは、すぐにまーちゃんの後を追った。

 しかし、住宅街を貫く長い一本道のどこにも、まーちゃんの姿はなかった。



◆◇◆



 母に生返事ばかりしているわたし……

 それはつまり、母の話を聞いているようで聞いていないということ。

 今まで……3月27日までは、何事もなく過ごしていたから、心当たりがあるなら今日……


 家に帰ってから、わたしはひたすら考え続けた。

 母の話が疎かになる本末転倒な事態にならないよう気をつけつつ、頭を巡らせ……

 そしてついに、見つけたのである。


「ちょっとユキナ、聞いてるの? 返事ぐらいしてよね」


 8:00過ぎ。

 仕事へ出掛ける母を見送るため玄関へとやってきたわたしは、ぼんやりと母の言葉を聞き流していた。


 よかった、やっぱりここだった……

 と、安心している自分がいる。

 あえて聞かないようにしていたから、本当に何を言われたのかわからない。

 さっそく聞き返してみよう。


「あ、ごめん、聞いてなかった。何?」


 いつもなら「聞いてるよ大丈夫」なんて軽く返事をするところだけど、今日はちゃんと謝ったぞ。

 まあ、あまりに心のこもっていない謝り方だったから、母の眉間にはシワが寄ってしまったけれど……

 それでも母は、すぐに答えてくれたのだった。


「だから……今日はユキナの大親友まーちゃんの誕生日だけど、プレゼントとか準備してるの? って聞いたの」

「……あ」


 一瞬でも、何が飛び出すのかとワクワクしていた自分が恥ずかしくなった。

 心臓がドキンと跳ね上がる。

 まーちゃんの誕生日……

 ああ、わたしは……

 わたしは、どうしてそんな大事なことを忘れて……


 ああ……

 だからか……

 そっか……


 どうしてまーちゃんは知っているのに教えられなかったのか。

 そもそも、どうしてまーちゃんは知っていたのか。

 そして……

 どうして、まーちゃんはあそこにいたのか。


 全部、わかってしまった。


 わたしの「……あ」を、母は何もしていない「あ」だと思ったらしい。

 とんでもなく大きなため息をついて「まったく」と言い出したので、てっきり怒られるのかと思いきや、


「サギサワマートから、速達で何か送りなさい。小さいサイズなら、今日中に届けてもらえるから」


 と、優しいアドバイスを残して仕事へ出掛けていった。


 なるほど……それは名案である。

 まーちゃん家の住所なら文通していたし、部屋の引き出しを開ければすぐにわかる。

 まーちゃんのお母さん宛てに手紙を書こう。

 わたしは、朝ごはんのカレーを飲み込むように食べ切ると、2階にある自分の部屋へと階段を駆け上がった。


 机の引き出しを開けると、使いかけのレターセットと一緒に住所が書いてあるメモ用紙が出てきた。

 そうそう、これこれ。

 難しい漢字が多くて、何回書いても覚えられなかったから、ずっとレターセットの中に入れていたんだった。


 あまり使わないからとしまい込んでいた一筆箋を1枚取り出し、わたしは自分史上最高にキレイな字(だと思われる)で、まーちゃんのお母さんに一筆したためた。


『ご無沙汰しています。村山ユキナです。まーちゃんのお誕生日なので、まーちゃんの好きだったラーメンおかきを送ります。たくさんお供えしてあげてください』


 ……うーん、字はキレイなのに、なんだか稚拙な内容だな。

 まあでも、わたしらしいといえば、わたしらしいかな。

 よし、準備万端だ。


 わたしは、住所のメモ用紙と書き上げた手紙を持って、大急ぎでサギサワマートへと向かった。



◆◇◆



 サギサワマートの宅配コーナーは、いつも人が押し合いへし合いしていて、避けて通るのも一苦労だ。

 いっそのこと休日を作ってくれたら通りやすくなるのになぁ、と小さな恨み言を心の中で常日頃呟いていたわたしだったけれど……

 今日ほどこの宅配コーナーに感謝した日はない。

 というか、生まれて初めて感謝したと思う。

 ありがとう、宅配コーナー!


 わたしは、お菓子コーナーでサギサワマート名物『ラーメンおかき』を5袋カゴに入れて、宅配コーナーの受付へと向かった。

 今日中に届けてもらえる小さいサイズの箱には、ラーメンおかき5袋が限界らしい。

 小学生の頃、1日に10袋は食べていたまーちゃんを思い出して「2箱送ればいいのでは?」と思ったけれど、まーちゃんの家族がラーメンおかきを好きかどうかわからなかったので、1箱にしておいた。


 手紙を同封してもらい、これで準備はOK。

 わたしは、いつも通り最後の唐揚げ弁当を買って、いつも通り十字路へ向かった。

 いつも通りの朝、いつも通りの朝ごはん、いつも通りのサギサワマート、いつも通りの十字路……

 たくさんのいつも通り……

 その中に、まーちゃんの姿だけがなかった。


『いるかもしれないし、いないかもしれないなぁ……残念だけど、あたしにもわかんないや』


 どうやら……

 わたしは、ようやく「正解」を見つけたらしい。

 まーちゃんの誕生日を思い出し、彼女にプレゼントを贈る、という正解を……


 よかったんだ、これで……

 これで、ちゃんと明日になるんだ。

 ちゃんと、プロ野球が開幕するんだ。

 それなのに……

 心から嬉しいはずなのに……

 わたしは、親友に「お誕生日おめでとう」の一言も言えなかったなんて……!


 昨日と同じ、スコアは5対8。

 9回ウラ二死ツーアウト満塁。

 そこから守備固めで出ていた今季無安打ノーヒットの選手に打順が回り、なんとサヨナラ満塁本塁打ホームランが飛び出した!

 9対8で奇跡の勝利!!


 でも……

 打たれた抑え投手は、最多セーブのタイトルを狙っている、わたしの超超超推し投手だった。

 ……そんな気分。


 って、こんなところまで野球に例えてしまうわたしを見て、まーちゃんは天国で呆れかえってるんだろうな。

 あ、でも……


『大丈夫。ユキナが何を思い出しても、あたしは怒ってないから。これだけは、忘れないでね』


 なんて言ってたっけ。

 まーちゃん……

 そんなこと言われても、わたし……!


「まーちゃん、ごめんね……本当に、ごめん」


 わたしは、昨日までまーちゃんが立っていた場所に立って、空を仰いでいた。

 道行く人が不思議そうにチラチラ見ていても、もう何も気にならなかった。


 まーちゃん……

 わたしの大親友、上本マリナが亡くなって、4年の月日が流れていた。



◆◇◆



 小学生のころのわたしは、


「好きなことは、プロ野球観戦です」


 と自己紹介したせいで、だれからも話しかけられなくなった、クラスでもいちばんの変わり者だった。


 当時、この北の大地ではそれほどプロ野球はメジャーなスポーツではなく、女子でもルールを理解しているのはわたしくらいだった。

 もちろんクラスの女子とは話が合わず、かといって野球をやっている男子とも仲良くはなれなかった。

 わたしの知識量が多すぎて早口だしとにかく圧が強くて(いわゆるオタクである)、かなり煙たがられていたのだろう。

 まあともかく、わたしはおよそ「友達」と呼べる存在とは縁のない小学校生活を送っていたのだった。


 そんな変わり者のわたしが教室で『プロ野球選手名鑑』を読んでいたとき、


『村山ユキナちゃん、何読んでるのー? 面白いー?』


 そんなふうに声をかけてくれた子がいた。

 明るくフレンドリーな性格からクラスの人気者だった上本マリナこと、まーちゃんである。


 わたしは、別に友達なんていなくても何不自由なく過ごせる子どもだったのだが、まーちゃんと過ごす時間は野球の試合を観ているときと同じくらい楽しかった。

 しかも、わたしが野球のことを教えると、まーちゃんは目をキラキラさせて『ユキナ、物知りだね!』なんて褒めてくれるので、友達も悪くないなと思えた。

 まあ……わたしが少し頼りすぎなところはあったけども。

 そして、子どもだったわたしは、こんな日々がずっと続くと思っていた。


 しかし……

 今から10年前、小学3年生のとき。

 まーちゃんが道外へ引っ越すこととなった。

 もちろん、ここで友情を終わらせるわけにはいかないので、どちらが言い出したのかは忘れたけれど、わたしたちは文通を始めた。


 お互いの近況を報告する手紙の中で、まーちゃんは新しい学校のことや女の子らしい恋バナを書いてくれたりしていた。

 それなのにわたしときたら、年がら年中プロ野球のことばかり。

 やれ開幕戦だ交流戦だ球宴オールスターだCSだ日本シリーズだドラフトだキャンプだ……

 まーちゃんは野球について詳しくもなんともないのに、よく付き合ってくれたなぁ……と、今でも感謝している。


 それから6年の月日が流れ……

 わたしたちは、中学3年生になった。

 そして、志望校を道内の高校にしたいと言っていたまーちゃんと、わたしが学力を考えて選んだ高校が同じだとわかって、お互いに舞い上がって喜んだのである!


 わたしは、まーちゃん宛ての手紙に『推し球団が日本一になったくらい嬉しい』と書いて送ったことを、昨日のことのように思い出せる。

 それほど野球に詳しくないまーちゃんは、手紙には『日本一かぁ。なんでも一番は嬉しいよね!』なんて書いてくれていたっけ。


 わたしはその後、高校生になったまーちゃんを想像して『きっとまたクラスの人気者になるね。部活も勉強もこなして、まさに二刀流だね!』なんて浮かれた手紙を送ったのだが、残念ながらそれをまーちゃんが読むことはなかった。



 わたしがその手紙をポストに投函した日、まーちゃんは交通事故に遭い、亡くなったのだ。



 知らせを受けてから、わたしは初めてひとりで飛行機に乗り、まーちゃんのお葬式に参列した。

 まーちゃんの遺影の前で、ご家族の皆様に心配されるほど、わたしは声を上げて泣いた。

 そして、心にかたく誓ったのだ。


 これからは、一日一日を大切に、まーちゃんの分も大事に生きていこう……と。


 しかし、この誓いが守られたのは、忙しい高校生活の3年間だけだった。

 大学生になり、時間だけはある生活に慣れてしまったわたしは、誓いのことなどすっかり忘れてしまったのだ。

 特にやりたいこともなく、アルバイトもせずに家の中でただただプロ野球の開幕を待つ生活……

 お世辞にも、一日一日を大切に生きているとはいえない。


 きっと、こんな自堕落な生活をしていたせいで、罰が当たったのだろう。

 友達の誕生日を忘れていた挙句、ただの「プロ野球開幕前日」としか思っていなかったなんて。


 それで、まーちゃんは時間を止めてまで、わたしの前に現れたのだろう。

 記憶の中のまーちゃんよりは成長しているけれど、でもどこか幼さが残る子どもっぽい顔つきの、中学3年生の姿で。


 ……家に帰ってきたわたしは、黙々と唐揚げ弁当を食べている。

 テレビも点けず、スマホも見ず、ただ黙々と……

 部屋の中には、咀嚼音だけが響いていた。

 食欲をそそる香ばしい香りも、今のわたしにはキツイ柔軟剤みたいに不必要な香りだった。


 今日の唐揚げ弁当は、いつもより塩味が効いていて、しょっぱかった。



◆◇◆



 目覚まし時計が、狂った半鐘のように鳴り響く。

 布団から腕を伸ばして止めると、時刻はちょうど8:00。

 そして日付は……3月28日、金曜日。

 待ちに待った、プロ野球開幕の日だ。


 朝ごはんの良い匂いに誘われて、2階の自室からリビングへ向かう。

 対面式キッチンでは、早起きした母が白飯にネギと豆腐の味噌汁を用意してくれていた。

 そしておかずは、わたしの大好きな母の玉子焼きだ。

 ……昨日まであった、何度も蘇る『2日目のカレー』は、もうどこにも見当たらない。


 おはようの挨拶も済まないうちに「開幕戦だね」と声をかけると、母はニヤリと笑って、


「今年は気合入ってるよ! いつもの最下位予想なんて吹っ飛ばす勢いで、どんどん連勝してほしいよ!」


 そう言うと、空になったフライパンを応援傘のように上下に振ってみせてくれた。

 ……なんだ、わたしより楽しみにしてるじゃん。


 顔を洗うため、洗面所へ向かう。

 明日が来るということがわかっている……ただ、それだけが幸せなんだと気づいた。


 これからはまた、気持ちを入れ替えて生きていこう。

 例えば、そうだな……

 12球団の本拠地球場を制覇するために、これからアルバイトしてお金を貯めて旅に出るっていうのはどうだろう。


 きっと、まーちゃんが聞いたら、


「ユキナらしいね」


 って笑ってくれると思うな。


 待ちに待った開幕戦の朝は、どこか心に穴が開いたような、ほんの少し寂しい朝だった。



おわり

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村山ユキナは開幕したい 鐘雪花 @kaneyukihana

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