浪漫部ストレンジライフ

@oscars_tavern

第1話 浪漫部へようこそ!

春の風が心地よく吹き抜ける季節、桜の花びらが舞い散る中、大崎結衣は学校の中庭に立っていた。


朝の柔らかな光が彼女の肩に降り注ぎ、新しい制服を少し窮屈に感じる。


入学したばかりの高校生活は、まだすべてが目新しく、少しだけ不安混じりの期待感が彼女の胸に渦巻いていた。


「どの部活に入ろうかな……」


校舎を見上げながら、結衣は独り言のように呟いた。入学から数日が経ち、クラスメートたちは次々と部活を決めていく。けれど彼女は、なかなか一歩を踏み出せずにいた。


中学時代はバスケットボール部に所属していた。

決して嫌いではなかったが、高校ではもう続けるつもりはない。


受験のストレスや忙しさから、いつの間にか自分の体が急成長していたことに気づいたのは卒業間近の頃だった。


新しい制服を合わせたとき、その成長はさらに実感として重くのしかかった。


入学式の日、並んだクラスメートたちの中で、結衣の体は一際目立っていた。


身長は女子の中では圧倒的に高く、大半の男子と比べてもやや大きかった。

周りからの「大きいね」という何気ない言葉が、彼女にはどこか刺さった。


制服が似合わない気がして、スカートを少し長めに履くようにしても、その視線を避けることはできなかった。


「……やっぱり、目立っちゃうな」


結衣はそっと自分の体に目を落とす。

周りと比べてしまうと、改めて自分の「違い」を強く意識してしまう。

特にこの学校は進学校であり、繊細でスマートな印象の生徒が多い。


その中で、自分だけが浮いているような気がして、どうにも落ち着かない。


「普通になりたいのに……」


呟きにもならない言葉が、桜の花びらとともに風に流れていく。

新しい生活が始まったばかりだというのに、まだどこにも自分の居場所を見つけられない結衣。

それでも、彼女はどこかで何かを求めていた。自分を受け入れられる場所――それがどこかにあることを、願わずにはいられなかった。


「どうしよう…」


結衣は心の中でひとりごとを繰り返し、足を一歩、また一歩と進める。

決断ができない自分に、少し焦りを感じていた。

そんな時、ふと目に入ったのが、校舎の壁に貼られた一枚の紙だった。


「浪漫部、新部員募集中」


その文字が目に飛び込んできた瞬間、結衣は足を止めた。しかし、それだけではなかった。紙に書かれた文字の奇妙さ、そしてその周囲のデザインが、彼女の視線を引きつけた。


貼られていたのは、少し古びた紙で、どこか手作り感のある印象を与える。文字は手書きで、少し歪んでいた。まるで誰かが急いで書いたかのような、温かみのある文字。大きく書かれた「浪漫部」の文字の下には、丸みを帯びた筆記体で「新部員募集中」という言葉が続いており、その下には小さく「ありふれた日常に、ひとさじの浪漫を。」とだけ書かれていた。


そして、その周りには絵も描かれていた。天使の羽のようなデザインに、星や月、さらには映画のフィルムのような細かな模様がちりばめられており、全体として、まるで異次元の世界へと誘うような幻想的な雰囲気を醸し出していた。そのデザインは、どこか不思議で、少し夢のようでもあった。


結衣はその貼り紙をじっと見つめ続けた

名前やデザインには不思議な魅力を感じる一方で、心の中に不安が広がっていった。部活名は夢見がちでユニークだが、その奇妙さが何かを掴みかけているようでいて掴めない感覚を呼び起こしていた。

興味が湧きつつも、何をする部活なのか分からないことが、どうしても心に引っかかる。


結衣はその場を離れずに立ち尽くし、貼り紙を見つめながら、心の中でその答えを探すように思考を巡らせた。何かが足りないような、でも引き寄せられているような不思議な感覚に包まれ、迷いながらもその場を動けずにいた。


迷いを抱えたままで、足を止めた彼女の前に、ひとしずくの桜の花が落ちる。


ーーーー


張り紙をじっと見つめていた結衣の耳に、不意に柔らかな声が届いた。

「おやおや、張り紙をこんなにじっくり見てくれるなんて、なかなかの物好きさんですねえ。」


振り向くと、そこには一人の女生徒が立っていた。

制服に身を包んでいるが、どこか浮世離れした雰囲気を纏っている。

その髪は艶やかな黒のおかっぱ頭で、端整に揃えられた髪の先が肩に触れるたび、静かな光を反射していた。

顔立ちは整っているが、何よりも目を引くのはその細い目だ。笑っているのか、目を閉じているのかすらわからない、細く長い線のような瞳。しかし、その顔には人懐っこい笑みが浮かび、どこか安心感を与えるような柔らかさがあった。


そして――制服の上からでも隠しきれないほどの豊満な胸が、彼女の存在感を一層際立たせていた。

それは彼女の細身の体型との対比で、まるで意図されたかのように強調されており、不思議と嫌味を感じさせないバランスを保っていた。


凛とした雰囲気を纏いながらも、どこか柔和な印象を与えるその姿は、見る者の記憶に深く刻まれるような強い印象を残していた。


「浪漫部の部長をしております、当学二年の綾瀬凛子と申します。どうぞお見知りおきを。」


彼女の声は敬語を交えた落ち着いた調子でありながら、どこか軽やかで親しみを感じさせる響きだった。まるで、長年の友人に話しかけられたような、不思議な感覚が結衣を包む。


「浪漫部…?」


結衣が口にすると、凛子はふんわりと笑った。


「ええ、浪漫部。『日常の中に潜む非日常を追い求める部活』といえば、少しは伝わるでしょうか? 新入生さん、貴女にはそのセンスがあると見ましたよ。」


唐突な言葉に戸惑いを隠せない結衣。しかし、凛子の瞳の奥には、何か強い確信めいたものがあった。それが結衣を否応なく引き込む。


「いえ、私、そんなつもりじゃ――」


「まあまあ、そう堅苦しく考えずに! 部室までお越しください。すぐそこですから、ね?」


凛子はにっこりと笑いながら結衣の腕を軽く引いた。彼女の力はそれほど強くはないが、不思議な説得力があり、断ることが難しい空気を作り出していた。


「あ、えっと……はい。」


結衣は戸惑いながらも、その後に続くことにした。

凛子の背中は大きくないが、彼女が放つ雰囲気には、ただならぬ存在感があった。


「こちらですよ。おっと、足元に気をつけてくださいね。」


凛子の案内に従いながら校舎を歩く結衣。その間、彼女の胸の中には不安と好奇心が入り混じったような感情が渦巻いていた。「浪漫部」とはどんな部活なのだろうか。そして、この不思議な先輩が語る「日常の非日常」とは?


そんな疑問を抱えたまま、結衣は凛子のあとに続き、部室へと向かっていった。


凛子の後に続きながら、結衣は彼女の話に耳を傾けていた。その声は飄々としていて、どこか掴みどころがない。しかしその言葉には妙に引き込まれるものがあった。


「浪漫部というのは、ただ遊んでいるだけの部活ではございませんよ。こう見えても意外と成果を出しておりましてね、学校からも正式に認められているのです。」


「成果って…何の成果ですか?」


結衣は思わず問いかけた。


凛子は振り返りもせず、柔らかく笑う。


「ふふ、それは部室に着いてからのお楽しみですよ。百聞は一見に如かず、というやつですね。」


そう言って軽快な足取りで歩く彼女の後ろ姿を追いながら、結衣は少しだけ不安を覚えた。

この人は本当に信用して大丈夫なのだろうか。

だが、不安以上に、彼女が語る「成果」という言葉に興味が惹かれる。


しばらく歩くと、校舎の一角に佇む一室が見えてきた。凛子が足を止める。

扉の上には重厚感のある札が掛かっており、ゴシック調の豪華な装飾が施されていた。細かな彫刻や金色の塗装が、どこかヨーロッパの古い洋館を思わせる雰囲気を醸し出している。


「どうです? これ、私の手作りなんですよ。」


凛子は自慢げに微笑み、札を指差した。


「手作り…ですか?」


結衣は思わず聞き返す。


「ええ、意外と器用なんです、私。まあ、これも浪漫部の活動の一環といったところですかね。」


そう言いながら扉を開けた凛子。結衣は促されるまま中に足を踏み入れる。


そこで彼女が目にしたのは、まるで西洋の探偵事務所をそのまま切り取ってきたかのような空間だった。


壁一面には古びた洋書がぎっしりと詰まれた本棚があり、その横にはアンティーク調の地球儀が控えている。


重厚な木製の机が部屋の中央に置かれ、その上には真鍮のランプが暖かな光を放っていた。

机の傍らにはヴィンテージ風の革張りのソファと、それに合わせた低いテーブルが配置されている。天井からはシャンデリアが吊り下げられており、繊細な装飾がきらきらと輝いていた。


机の隅には古めかしいタイプライターが置かれ、部屋の片隅には蓄音機まである。

窓際には濃紺のカーテンが重たげに垂れ下がり、薄暗い光が部屋全体を包み込んでいた。

それはどこか現実離れした、非日常の空間だった。


「どうですか、この部屋? レイアウトから装飾品の選定まで、全て私が手がけました。」


凛子は胸を張って言う。


「すごい…まるで映画のセットみたいですね。」


結衣は呆然としながら言葉を漏らした。


「そうでしょう? 浪漫部の活動において、雰囲気作りはとても大事ですからね。」


凛子の言葉に結衣は頷きながらも、その不思議な空間に少し戸惑いを覚える。

だが、同時に心の奥底にわき上がる何かがあった。

それは新しい世界を目の前にしたときに感じる、純粋な好奇心と興奮だった。


「さて、ここからが本番です。浪漫部の真髄、しっかり堪能していただきますよ。」


凛子の言葉に、結衣はまた少し戸惑いながらも、先を期待する気持ちが止められなくなっていた。


結衣が部室の非日常的な雰囲気に半ば呆然としていると、突然、扉が勢いよく開いた。


「よぉ、凛子」


その音に驚いて振り向くと、一人の女生徒が無造作に部室へと入ってきた。


彼女は、黒髪を長く流し、まるで刃物のように鋭い三白眼が印象的だった。その瞳には強い意志と闘志が宿り、全身から漂う迫力は、並大抵の人間を容易に寄せ付けないだろう。

痩せた体型ながらも引き締まった筋肉が制服越しにも窺えた。どこかボーイッシュな雰囲気を纏いながらも、美しい黒髪がその印象を和らげている。

彼女の存在感は、まるで場の空気を掌握するかのようだった。


「うん?そいつは誰だ?」


彼女は凛子に向かってぶっきらぼうに声をかけた。

その口調には荒々しさがあり、結衣は思わず少し身を縮める。


「新しい部員候補ですよ晴香さん。優しくしてあげてくださいね。」


凛子は飄々とした態度で応じたが、晴香は少し驚いた様子で疑いの目を向けた。


「へえ、そいつが?」


晴香は結衣を値踏みするようにじろりと見たあと、ふと顔を緩めた。


「ところで、凛子。この前の活動で捕まえたカエルな、大学の研究所に持ってったら30万で引き取ってくれたぞ。研究結果も送ってくれるってよ」


「まあ、それは素晴らしいですね!」


凛子の目が輝く。


結衣は耳を疑った。

カエルが30万円? この人たちは一体何をしているのだろう――

呆然と立ち尽くしていると、晴香の視線が再び彼女に向けられた。


「で、アンタ、新入生か? …こんな怪しい部活に来るなんて、変わってんな。つーか…それにしても、デッケェな。」


晴香の率直すぎる物言いに、結衣は思わず俯いた。

体格の大きさを気にしている彼女には、その一言が鋭く刺さった。


「こらこら晴香さん、失礼ですよ。あなたも胸が小さいのを気にしているじゃないですか。」


凛子がどこか楽しげに窘めると、晴香の表情が一瞬で険しくなった。


「誰が気にしてるってぇんだよ!」


晴香は凛子を軽々と持ち上げ、そのまま見事なバックブリーカーを決めた。

凛子の背中がぎしぎしと音を立て、結衣は慌てて二人の間に駆け寄った。


「や、やめてください! 背骨が壊れちゃいますよ!」


「大丈夫です、大丈夫です。」


凛子は苦しげに笑いつつもどこか楽しそうに応じる。


「これくらい、いつものことですよ。」


ようやく技を解かれた凛子は、ゆっくりと起き上がると結衣に向き直った。


「ごめんなさい、驚かせてしまいましたね。そういえば、私、まだちゃんと名乗っていませんでしたよね。」


軽く肩を回しながら凛子は微笑む。


「改めて、浪漫部の部長、綾瀬凛子と申します。結衣さん、私のことは気軽に凛子って呼んでくださいね。」


「おい、凛子!」


晴香が割り込むように言い放った。


「こっちは一条晴香だ。副部長やってる。まあ、適当にやってるから、よろしくな。」


そのぶっきらぼうな口調に、結衣は少し戸惑いつつも会釈を返した。


「あ、あの……大崎結衣です。まだ入部はしていませんけど、よろしくお願いします。」


結衣の自己紹介に、凛子は満面の笑みを浮かべた。


「よろしい!では、さっそく浪漫部の魅力をもっとお伝えしますよ!」


結衣はその明るい言葉を受けながら、部室の非日常的な空気の中で不安と期待の入り混じった感情を抱いていた。


ーーーーー


空は澄み渡り、柔らかな日差しが街角を包み込んでいた。穏やかな風が頬を撫で、結衣は凛子が運ぶ木製の台車を後ろから押していた。ぎしり、と車輪が石畳を擦る音が、静かな道にリズムを刻む。


「これ……一体なんなんですか?」

結衣は手を台車にかけたまま、戸惑い混じりに尋ねた。


「紙芝居ですよ。」


凛子は振り返り、穏やかな笑みを浮かべながら答えた。その笑顔には、何かしらの期待が込められているようだった。


「紙芝居……ですか?」


結衣の頭には、古びた風景が浮かんだ。

歴史の教科書で見たことがある。

昭和時代の子供たちが地べたに座り、熱心に紙芝居を見つめる姿――だが、それはもはや過去のものだと彼女は思っていた。


「今日の活動テーマは、大昔の子供たちが夢中になった紙芝居が、今の子供たちにも通用するのかを検証することです。」


凛子の飄々とした口調に、結衣は言葉を失った。


前方では、晴香が台車に視線を投げながら呟いた。


「こんなもん、今の子供にウケるのかねぇ。」


結衣も心の中で同じように思っていた。今どきの子供たちはスマートフォンやゲームに夢中で、紙芝居など見向きもしないのではないかと。


「ウケるかどうか、それを確かめるのが今日の目的なんですよ。」


凛子の声には、どこか楽しげな響きがあった。


「それに、古き良きレトロなロマンというものを、子供たちにも少しでも感じ取ってもらえたら嬉しいじゃないですか。」


彼女は振り返り、台車に手を添えたまま結衣に柔らかな笑みを向けた。その笑顔は不思議と温かく、結衣はただ静かに頷いた。


こうして一行は、昼下がりの光に包まれた公園にたどり着いた。


青々とした芝生の上には家族連れや子供たちが点在し、遊具で遊ぶ声や鳥のさえずりがのどかに響いている。


「よし、ここにしましょう。」


凛子が台車を停め、満足そうに頷いた。結衣と晴香も足を止め、奇妙な活動の始まりを静かに見守るように、紙芝居の準備に取り掛かった。


凛子が紙芝居台を公園の広場に据え終えると、少しずつ周囲の注目が集まり始めた。


奇妙な木製の台と、それを囲む三人の少女たち。人々は不思議そうにこちらを見つめるが、遊びをやめるわけでもなく、ただ気にかける程度だった。


準備が整うと、凛子は紙芝居台に備え付けられた小ぶりな太鼓を手に取り、その面をリズムよく何度も叩き始めた。


「ドンドンドンッ!」


軽快で力強い音が公園中に響き渡る。


その瞬間、公園の空気が一変した。人々の視線が一斉に集まる中、凛子が台の前に一歩進み出る。驚くべきことに、いつの間にか彼女の服装は昭和の紙芝居屋を思わせるものへと変わっていた。


白いシャツに無造作にまくり上げた袖、腹には赤い腹巻を巻き、青い作務衣を羽織った姿。


足元は草履がきっちりと履かれている。頭には手拭いを巻き、堂々と立つその姿は、まるで時代を遡ったかのようだった。


ただ、一点だけ現代との違和感を覚えさせたのは、その服の上からでも分かる彼女の豊満な胸だ。作務衣の前をきっちり締めたつもりでも、形が浮かび上がるほどのその存在感が、昭和らしい格好の中に奇妙なアンバランスを生んでいた。


「いつの間にそんな格好に……」


驚きを押し隠せない結衣が声を漏らすが、凛子は気にも留めずにさらに太鼓を叩きながら声を張り上げる。


「さぁさぁ、よってらっしゃい、見てらっしゃい!」


凛子は台の前で大きく手を広げ、まるで興行師のように高らかに声を響かせた。


「本日は特別大サービス!懐かしの紙芝居をお届けいたします! お代はなんと……笑顔一つで結構でございます!」


その軽妙な口調と確かな声の響きが、人々の耳に届くと、遊んでいた子供たちが足を止めてこちらを見つめ始めた。親たちは不思議そうに遠巻きに様子を伺っている。


結衣はその光景を呆然と眺めていた。ほんの少し前まで、部室で穏やかに話していた凛子が、まるで別人のように変わっていた。


「今日のお話はなんと、大人気の『桃太郎』でございます! 鬼退治の冒険、楽しいお話をお届けしますよ!さあさあ、小さなお友達は前へどうぞ!」


その言葉に誘われた遊具で遊んでいた子供たちが、次々に凛子の前へと集まってきた。彼らの目は好奇心で輝き、期待に胸を膨らませている。

その様子に、凛子は満足そうに微笑み、さらに声を張り上げた。


「いいですね、皆さん。さあ、座ってくださいませ。ここが特等席ですよ!」


小さな子供たちは嬉しそうに地面に腰を下ろし、凛子の動きをじっと見つめている。


彼らの親たちも最初は困惑していたものの、次第に笑みを浮かべ、その様子を微笑ましく見守っていた。


「本当に集まってくるんだ……」


結衣が呟いた言葉は、隣で腕を組んで立っていた晴香の耳に届いた。


「驚くことはないさ。凛子は何だかんだで、人を惹きつける妙な魅力があるんだよ。」


晴香がぼそりと呟くと、結衣は「なるほど」と小さく頷いた。


凛子は準備を整えながら、まるで劇場の開幕を告げるかのように再び太鼓を叩いた。

「ドンドンドンッ!」という音が、再び公園中に響き渡る。まさに「非日常」が幕を開けようとしていた。


凛子が紙芝居の扉をゆっくりと開けると、その背後から現れる一枚の絵。青空の下を歩く桃太郎が描かれた、どこか懐かしいタッチのイラストが、午後の日差しを受けて鮮やかに映し出された。


「昔々、あるところに、おじいさんとおばあさんが住んでおりました。」


凛子の声は、柔らかくも力強く響く。語り口には独特の抑揚があり、まるで物語そのものが目の前に立ち現れるかのようだった。子供たちは目を輝かせて絵に見入り、その表情は完全に凛子の語りに引き込まれていた。


「おばあさんが川で洗濯をしていると、大きな桃が流れてきました。それはそれは立派な桃で――」


凛子は一瞬、視線を観客たちに向け、ニヤリと笑った。


「――どれほど立派だったかというと、この私の胸ほど!」


唐突なアドリブに子供たちは一瞬きょとんとしたが、次の瞬間、ケラケラと笑い声が弾けた。親たちは呆れながらも微笑みを浮かべ、遠巻きで見守る結衣も思わず吹き出しそうになる。


「ええ、冗談ですってば!」


凛子は肩をすくめながら、にっこりと笑った。


「私の胸はこんなに立派じゃありませんよ、せいぜいこの桃の半分くらい、いや、もうちょっと立派かしら?」


その言葉に、子供たちは再び爆笑。結衣も思わず手で口元を押さえながら、凛子の抜群のタイミングに感心する。


絵が一枚一枚切り替わるたびに、凛子の語り口は熱を帯びていった。鬼退治に向かう桃太郎が犬、猿、雉を仲間に加えるシーンでは、彼らの声色を見事に演じ分け、笑いを誘う。鬼との戦いの場面では、太鼓を鳴らし、声を張り上げて臨場感を高める。


「鬼が桃太郎たちを睨みつけます!しかし、桃太郎も負けてはいません!さあ、皆さん、一緒に『えいえいおー!』と叫んでください!」


凛子が叫ぶと、子供たちは一斉に声を上げた。その姿に結衣は目を見張った。凛子の語りはただの「紙芝居」ではなかった。子供たちを物語の一部に巻き込むその手腕に、結衣はすっかり見惚れてしまっていた。


「なんて人なんだろう……」


結衣は心の中でそう呟く。普段の飄々とした姿とはまた違う、観客を引き込む堂々とした凛子に、自然と視線が釘付けになっていた。


そして、最後の絵。


「鬼たちは桃太郎に謝り、宝物を差し出しました!めでたしめでたし!」


凛子が手を広げて話を締めくくると、子供たちが一斉に拍手と歓声を上げた。


「お姉さん、面白かった!」

「またやって!」


子供たちの声に、凛子は穏やかな笑みを浮かべて一礼した。しかし、その輪の外から、不意に冷めた声が響く。


「桃太郎なんか、子供向けでつまんねーよ。」


声の主は、小学生くらいの男の子だった。彼の周りにも同年代の子供たちが数人、腕を組んで立っている。その表情は少し挑戦的だ。


「こういうの、幼稚園の時に何度も見てるし。」


子供たちの純粋な歓声とは対照的なその言葉に、結衣は眉をひそめた。一方で、晴香は苦笑しながら肩をすくめる。


「ほら見ろ、言っただろ?生意気盛りのガキってやつは、こういうのを『子供っぽい』って言って、絶対に乗っかってこないんだよ。『俺たちは大人だ』って顔してさ。」


「晴香さん、ちょっと言い過ぎですよ!」


結衣が慌てて止めようと声を上げるが、晴香は全く気にした様子もない。


「いや、別に悪気があるわけじゃないんだけどな。これくらいの年頃のガキって、『もう子供扱いされたくない』って思ってるだけなんだよ。『あんなの、幼稚だ』って反発したい年頃なんだろ。」


晴香が肩越しに凛子を見やると、凛子は太鼓を静かにしまいながら、どこか得意げに笑った。


「ふふ、実は予想しておりました。」


凛子が取り出したのは、古びた台紙。そこには「黄金バット」と書かれた文字が大きく描かれている。


「さあ、次なる物語は少々趣向を変えまして――」 凛子はニヤリと笑いながら宣言する。


「スリルと冒険、そしてヒーローの誕生を描く名作!『黄金バット』の幕開けでございます!」


その言葉に、小学生たちの顔にもわずかに興味が浮かんだ。晴香は「やれやれ」といった調子で腕を組み直しながら呟く。


「ようやるぜコイツは…」


ーーーーー


凛子は次の紙芝居を用意しながら、ふと顔を上げた。そして子供たちに視線を向け、軽くウインクを送る。


「皆さん、ご存じでしょうか?この『黄金バット』は、世界最古のスーパーヒーローとも言われております。生まれたのは昭和のずっと昔、戦前ですよ。あの『スーパーマン』よりも先輩なんです。」


子供たちは「へえ!」と感嘆の声を上げた。その中には先ほど生意気な口を利いた少年たちの姿もある。


「そして、この黄金バットはただのヒーローではありません。彼がどこから来たのか、正体はまるでわかっていない。けれど、悪に苦しむ人々の前に必ず現れ、その不敵な笑いと力で救う、正義の象徴なのです!」


その言葉に、子供たちの興味は確実に凛子へと引き寄せられていた。結衣も思わず耳を傾ける。そして凛子はふと、紙芝居を持つ結衣に振り返り、穏やかな微笑みを浮かべた。


「さて、結衣さん。この黄金バットが颯爽と登場するシーンがございます。その時、私が『黄金バット登場!』と言いますので、その瞬間にページを――」


凛子はおかっぱ頭を軽く揺らしながら、目を細めてこう続けた。


「ダイナミックに、華麗なる動きで、勇壮にめくってくださいませ。」


「えっ……私がですか?」


結衣は面食らったように目を見開く。しかし凛子はさらりと頷き、まるで当然だと言わんばかりの態度だ。


「ええ、そうですとも。黄金バットの登場シーンは、この物語のハイライト。そこにドラマと迫力を加えるのは、結衣さんの大切な役目なのですよ。」


「いや、そんな……私、そんな……」


「大丈夫、結衣さんならできますとも!」


凛子の声はやけに自信に満ちていて、それ以上否定する余地を与えない。結衣は困惑しながらも小さく頷いた。


内心では「恥ずかしいけど……やるしかないか……」と、未知の挑戦に半ば諦めと興味の入り混じった気持ちを抱いていた。


ーーーーー


黄金バットの物語が始まる


凛子がページをめくり、物語が幕を開けた。


「あるところに、ナゾー博士という悪の科学者がいました。彼は恐るべき発明品を次々と生み出し、世界征服を目論んでいたのです。」


凛子の語り口は、桃太郎の時と変わらず見事な抑揚と熱量を持っていた。絵を一枚一枚切り替えるたびに、太鼓の音を鳴らして緊張感を演出し、時には声色を変え、悪役の冷酷な声を見事に演じ分ける。


「『この地球は私のものになるのだ!フハハハハハ!』とナゾー博士が高笑いを上げると、人々は震え上がりました。誰もこの恐怖に立ち向かう者はいない――そう思われた、その時です!」


凛子の声が一段と高まり、子供たちは身を乗り出した。結衣もまた、物語の展開に自然と耳を傾けていた。


「そして、黄金バットはその笑いとともに現れるのです!さあ、結衣さん、参りましょう!黄金バット登場!ワハハハハハハ!!」


凛子が高らかに黄金バットの笑いを演じたその瞬間、結衣は覚悟を決めた。


「ええい、ままよ!」


心の中で叫びながら、結衣は思い切り紙芝居のページをめくった。その動きは勢いよく、まるで舞台の幕を引く俳優のようだった。結衣の長身と大きな体格がそのダイナミックさをさらに際立たせ、紙芝居がまるで現実のドラマになったかのような迫力を生み出した。さらに、彼女が無意識に決めた力強いポーズは場面の緊迫感をさらに引き立て、見る者全ての目を奪った。


その姿に子供たちは一瞬唖然としたが、次の瞬間、歓声が爆発した。


「かっこいい!」

「お姉さん、すごーい!」


大盛り上がりの子供たちの反応に、結衣は顔を真っ赤にしていた。けれど、その心の中では何か新しい感情が芽生えていた。それは恥ずかしさと同時に、妙な充実感だった。


(こんな気持ち、今までのスポーツじゃ味わえなかった……。自分がこうして誰かを楽しませるなんて、ちょっと新鮮かも。)


凛子はその場の盛り上がりをさらに加速させるべく、太鼓を力強く打ち鳴らした。その音は空気を震わせ、子供たちの歓声と混ざり合い、何とも言えない一体感を生み出していた。


結衣はその光景を見渡しながら、胸の中に湧き上がる熱い感情を感じていた。


(ちょっと恥ずかしいけど……私、こういうの、嫌いじゃないかも…)


結衣はそっと息を吸い込んだ。その瞬間、午後の日差しが彼女の頬を優しく照らしていた。


ーーーーー


青空の下、秋風が心地よく吹き抜ける公園の一角で、紙芝居の物語はクライマックスを迎えていた。

凛子の抑揚のある語りと、結衣の力強いページめくりに子供たちの視線は釘付けだ。


「ナゾー、黄金バットの力を思い知るがいい!」

黄金バットがナゾー博士の陰謀を打ち破る場面では、凛子がその代名詞ともいえる高笑いを響かせる。

「ワーッハッハッハ!」

その声が公園中に響き渡り、子供たちは驚きながらも大笑いした。


「黄金バット、かっこいいー!」

「ナゾーをやっつけた!」


子供たちは無邪気に叫びながら、物語の展開に夢中だ。


「これで平和は守られました。めでたし、めでたし!」


凛子がそう締めくくると、子供たちは一斉に拍手をしながら口々に歓声を上げた。


「やったー!」

「おもしろかったー!」


その賑やかな声に結衣は少し恥ずかしく思いつつも、子供たちの笑顔に自然と頬を緩めた。


紙芝居が終わると、凛子は台の裏から大きな袋を取り出した。にこやかに子供たちに声をかける。


「今日は楽しんでくれてありがとうございます!この飴、紙芝居屋さんからよ皆へのプレゼントです。順番に並んでねくださいね。」


袋から取り出された飴は色とりどりで、秋の陽光を受けてキラキラと輝いて見えた。


「わーい、飴だー!」

「どれがいいかなー!」


子供たちは列を作りながら、凛子の手から飴を受け取るたびに嬉しそうに声を上げる。


色とりどりの飴を手に子供たちは笑顔を浮かべていた。秋の日差しが穏やかに公園を照らし、平和そのものの光景が広がっているかに見えた。


ーーーーー


だが、その平和は突然破られた。


「おい、誰に断ってこんなとこで商売してんだ?」


乱暴な声が響き、公園の空気が一変する。振り向くと、そこには三人組の不良たちが立っていた。


先頭の男は金髪リーゼントに丈の長い学ランを着た、典型的な不良の姿。目つきは鋭く、口元には薄ら笑いが浮かんでいる。その背後には、いかにも取り巻き然とした二人の男が控えていた。


晴香は、その姿を見るなり、眉をひそめた。


「……なんだあいつら。」


彼女の鋭い視線が不良たちに向けられる。表情には明らかな警戒と苛立ちが浮かび、まるでこの場の空気を一瞬で凍らせるような迫力を放っていた。


公園にいた子供たちは、その不良たちの登場に怯えた様子で母親の後ろに隠れる。母親たちも、子供たちを抱き寄せながら緊張の色を隠せない。公園の喧騒は消え、静まり返る。


「なに……あの人たち……」


結衣はその場面を固唾を飲んで見守っていた。状況は明らかに異常だ。


何が目当てなのか、それとも単なる因縁なのか――理由はどうであれ、この場に不穏な影を落としていることは間違いない。


凛子は飄々とした様子を崩さず、声をかけた。


「アハハ、商売だなんてそんな、我々はただ紙芝居をしていただけですよ。」


だが、先頭の不良はその言葉を聞いても、からかうように鼻で笑うだけだった。


「紙芝居? へえ、そんなもんで人集めて金稼ぐってか? 俺たちの公園でよ。」


「お金なんか貰ってないですよ。それにすこの公園は皆さんのものではないと思いますが……」


凛子は笑みを浮かべたまま淡々と応じる。その冷静さが不良たちを少し苛立たせたのか、後ろの取り巻きの一人が前に出てきた。


「おいおい、文句ばっか言ってねえで、これみかじめ料ってことで預かっとくわ。」


男がそう言うや否や、凛子が持っていた飴玉の入った袋を乱暴に奪い取った。


「あ、それは困ります!」

凛子が慌てて手を伸ばすが、もう一人の取り巻きの不良が間に立ち、凛子を押しとどめる。

「なんか文句でもあんのか?」

男は凛子を睨みつけ、威圧的な態度で凄んだ。


子供たちは完全に萎縮し、母親たちもただ見守るしかできない。


「……どうしよう……」


結衣はその場を見つめながら、どうにかしなければと思うものの、足が竦んで動けない。


そんな中、ただ一人、堂々と立ち向かう人物がいた。


「……おい。」


低く、冷えたような声が不良たちに向けられる。振り向くと、晴香が立っていた。彼女は眉を吊り上げ、不良たちを睨みつけている。その鋭い視線は、まるで獲物を狙う猛獣のようだった。


「なんだ、姉ちゃん。お前も文句あんのか?」


不良たちは最初こそ余裕の態度だったが、晴香の迫力にわずかに声を揺らす。


「文句大ありだ、この馬鹿野郎!」


晴香はそう怒鳴ると、間髪入れずに飛び出した。その動きは鋭く、無駄がない。


「うおっ!」

次の瞬間、彼女の腕が唸りを上げ、ラリアットが不良の一人に炸裂する。男は派手に地面に倒れ込み、声を上げる間もなく悶絶していた。


「な、なんだこいつ!」


もう一人が後ずさるが、晴香は容赦しない。すかさずもう一発ラリアットを決め、取り巻きの不良をも地面に沈めた。その速さと力に、先頭のリーゼント男は唖然と立ち尽くしている。


晴香は倒れた男たちから奪われた飴の袋をひったくり、凛子に向かって放り投げた。


「ほら、しっかり持っとけ。」


凛子は落ち着いた笑みを浮かべながら、飴の袋を受け取る。そして、一拍置いてから、静かに口を開いた。


「晴香さん、助かりました。でも……子供たちの見ている前で乱暴は少し控えてもらえたら……」


晴香は肩をすくめてそっぽを向くと、短く吐き捨てるように答えた。


「何が悪いんだよ。悪が勝って終わりとか、それこそガキどもの教育に悪いだろ。」


そのぶっきらぼうな物言いに、凛子は一瞬言葉を失い、困惑したような表情を浮かべた。結衣もまた、ぎこちない笑みを浮かべながらその場の空気を感じ取っている。


(そ、そういうものなのかな……?)

と結衣は心の中で呟く。


その時だった。倒れた取り巻きの不良たちを唖然として見ていたリーダー格の不良が、怯えた様子を見せながらも、突然逆上して声を荒げた。


「てめえら、よくもやりやがったな! こんな紙芝居なんざぶっ壊してやる!」


叫びながら、不良は結衣のすぐ近くに置かれた紙芝居の台車へと向かって駆け出した。


「くそっ!」


晴香は咄嗟に身を動かそうとしたが、油断が祟り対応が遅れる。


結衣は瞬間、男の目に怒りと狂気が宿るのを感じ、体がすくみそうになる。

しかし、楽しかった紙芝居の光景が頭をよぎった。

夢中になって笑う子供たちの顔。凛子の楽しく軽快な語り。暖かな午後の日差し。


「やめてっ!」


声を振り絞りながら、結衣は恐怖を押し殺し、男の進行方向へ思わず両手を突き出した。その瞬間、彼女の腕に意外な力がこもった。


――ドンッ!


男の体はまるで弾き飛ばされるように宙を舞い、そのまま地面に転がった。

「ぐっ……! な、なんだ、なんだよぉ!」



情けない声を上げ、男は背中を押さえながら這いつくばる。


紙芝居は無事だった。その事実にホッと胸を撫で下ろす結衣。


しかし、驚愕から立ち直る間もなく、晴香が鋭い声を上げて男に駆け寄った。


「ウチの新入りに何しやがるんだ、この野郎!」


叫ぶと同時に晴香は男の体をひっくり返し、彼の両足を掴むと器用に宙へと吊り上げる。


「ぎゃああっ! や、やめてくれ! ごめんなさい! 助けてえ!」


男の情けない悲鳴が響く中、晴香は冷ややかにロメロスペシャルを仕掛けた。不良の体は弓のように反り返り、その叫びが公園中にこだました。


それを見た取り巻きの不良たちは、互いに顔を見合わせて狼狽えながら後ずさる。


「お、俺たち、これ以上は無理だ……!」

「やべえ! 逃げるぞ!」


そう叫びながら、二人は必死に踵を返し、砂埃を上げながら公園の外へと走り去った。


その時、凛子が晴香へと声をかけた。


「晴香さん! ストップです、ストップ! 手を離してください! 試合終了です!」


プロレスのレフェリーを彷彿とさせる凛子の口調に、晴香は不満そうに眉をひそめたが、ため息混じりに男を地面に転がすと、腕を組んでそっぽを向いた。

「ったく、どいつもこいつも面倒ばっか増やしやがる……。」


倒れ込んだ不良は力なく呻き声を漏らすばかりだった。


一連の出来事を目の当たりにした周囲の人々は、言葉を失ったように静まり返っていた。大人たちは呆然と立ち尽くし、子供たちも大半は唖然としていたが、中には晴香をじっと見つめ、瞳を輝かせている子供もいた。


「すごい……!」

「かっこいい……!」


その無邪気な声を聞いた結衣は、少し複雑な表情を浮かべながらも、どこか微笑ましい気持ちを抱いていた。


蹲る不良のもとに、凛子がゆっくりと歩み寄った。風に揺れるおかっぱ頭が日差しを反射し、不良の目にはどこか神々しいものに映ったのかもしれない。その歩みは一切のためらいを感じさせず、静かで、しかし決して侮れない力強さを秘めていた。


「な、なんだよ……!」


男は呻きながら、なおも自分を鼓舞するように悪態をつく。


「近寄るな! これ以上、俺をバカにする気かよ!」


だが凛子は何も言わず、そっと膝をつき、不良の顔の高さに視線を合わせた。


次の瞬間、不良は凛子のその大きな胸に抱き寄せられた。


柔らかくも圧倒的な包容力に、不良の動きは止まった。


「……なんだ、これ……。」


胸に触れる鼓動と共に凛子の声が静かに響いた。


「どうしてこんなことをしてしまったのですか?」


その問いかけは、ただ単に理由を知りたいというものではなく、不良の心の奥底に触れようとする響きを持っていた。


「……う……。」


不良の体がかすかに震えた。抵抗の意志は次第に霧散し、代わりに長らく閉じ込めていた感情が少しずつ溢れ出す。最初は目を泳がせていたが、やがてポツリと呟き始めた。


「オレは……ただ……飴が欲しかったんだよ……。」


「飴が……ですか?」


凛子の声は柔らかく、けれどしっかりと不良の言葉を拾い上げる。


「そうだよ……。けど、俺みたいなやつがガキみたいに飴を欲しがるなんて、恥ずかしくて言えなかった……! だから……だからこんなことして……。」


言葉の途中で、不良は堰を切ったように涙を流し始めた。家庭の問題、学校での孤立、誰にも求められていないという孤独感が、飴を通して語られる。その全てが彼の胸を締め付け、行き場をなくしていたのだ。


凛子はその背中をそっと撫で、彼が落ち着くまで何も言わず耳を傾けた。そして静かに口を開いた。


「分け合えば余り、奪い合えば足りない――そのことを忘れずに覚えていてくださいね。」


その言葉と共に、凛子は手の中から一粒の飴を取り出し、不良の手にそっと握らせた。


「ほら。これであなたの欲しかったものは手に入りました。今度からは、ちゃんと頼ってくださいね。」


不良は飴を見つめ、震える声で呟いた。


「……ありがとう……。」


凛子は満足げに微笑み、その頭を軽く撫でた。その様子を見ていた晴香は、そっと結衣の耳元で囁いた。


「あいつ、ああ見えて凄いんだよな。人の心を溶かすっていうかさ。」


結衣はその光景を目の当たりにしながら、どこかぼんやりと呟いた。


「本当に、不思議な人ですね……。」


周囲の子供たちは初めこそ唖然としていたが、やがてポツポツと拍手を送り始めた。その拍手の輪は徐々に広がり、大人たちや結衣も思わず手を叩き始める。暖かな音の波が公園を包み込み、先ほどまでの騒然とした空気が、静かに消え去っていった。


ーーーーー


不良は立ち上がり、服の埃を払った後、子供たちやその親たちのほうを向いて深々と頭を下げた。


「すみませんでした……怖がらせて…」


その声は震えていたが、真剣さが滲んでいた。親たちは互いに視線を交わしつつ、少し戸惑いながらも静かに頷いた。子供たちはそんな不良の姿に何かを感じ取ったのか、怯えた表情を緩め、再びその顔には笑顔が戻った。


そんな中、何人かの子供たちが晴香のもとに駆け寄った。


「お姉ちゃん、強いんだね!」


目をキラキラさせた子供たちの勢いに、晴香は少し戸惑いながらも、目をそらし気味に返した。


「……まあ、ちょっとな。」


子供たちはその言葉にさらに盛り上がり、

「すごーい!」

「もう一回あの技やって!」


などと口々に騒ぎ始めた。晴香は顔を赤くしながら手を振り、


「おいおい、簡単に技なんて見せられるもんじゃねぇよ。」


とぶっきらぼうに言う。その態度に、子供たちはますます彼女に憧れるような視線を向けていた。


一方で、何人かの子供たちは結衣のもとに集まってきた。一番小さな子が、無邪気な声で言う。


「お姉ちゃんも大っきくて強いんだね!」


その言葉に結衣は一瞬固まった。自らの大きな体格に引け目を感じていた彼女にとって、その言葉は少し複雑だった。それでも、子供の純粋な目を見ていると、笑顔を浮かべずにはいられなかった。


「……そ、そうかな?ありがとう。」


すると、別の子が続けて言った。


「私もお姉ちゃんみたいに大っきくなりたい!」


その言葉は結衣の心にそっと響いた。ずっと悩み続けていた「大きさ」が、今、目の前の子供にとっては憧れに映っている。胸の中にあった重たいものが少しだけ溶けていくような気がした。


結衣は優しく微笑みながら言った。


「だったら、たくさん食べて、たくさん遊んで、お父さんとお母さんの言うことをちゃんと聞くんだよ。」


「はーい!」


子供たちは素直に返事をし、ぱっと明るい顔を見せた。


その様子を見ていた凛子が、そっと結衣の肩に手を置いた。


「結衣さん、子供たちの扱いがとても上手ですね。きっと将来、素敵なお母さんになりますよ。」


「えっ……そ、そうですかね?」


結衣は顔を赤くしながらも、どこか嬉しそうに頬を緩めた。


一連の穏やかな空気が広がり、公園には再び笑い声が戻っていた。



ーーーーー



夕暮れの空は茜色に染まり、三人の影を長く引き延ばしていた。紙芝居の台車を押しながら、凛子がふと足を止めた。


「結衣さん、今日は体験入部なのに、怖い思いをさせてしまってごめんなさいね。」


その声にはいつもの飄々とした調子はなく、どこか申し訳なさを滲ませていた。


結衣は少し驚き、首を振った。


「いえ、怖いこともあったけど……それ以上に楽しかったです。」


そう言いながら、今日の出来事を思い返す。紙芝居を見て喜ぶ子供たちの笑顔、紙芝居の台を守れたときの安堵感、そして、自分に憧れの眼差しを向けてくれた子供たち――。


「お姉ちゃんみたいに大きくなりたい」と言われたとき、自分の体格に対するコンプレックスが少しだけ消えた気がした。


それに、あの紙芝居を、子供たちの思い出を守れたことが何より嬉しい。小さな達成感が胸の中に温かい灯をともしていた。


「ふふ、そりゃ良かった。」


晴香がわざとらしく肩をすくめて見せる。


「まあ、うちの部活は大体いつもこんな調子だ。退屈する暇なんてないぜ。」


その言葉には少し誇らしげな響きがあった。


凛子は軽やかに振り返り、柔らかな笑みを浮かべる。


「入部のことは、すぐに決めなくていいですよ。もし気が向いたら、そのときはぜひよろしくお願いします。」


結衣は頷きながら、今日の出来事を心の中で反芻した。子供たちが見せた無邪気な笑顔、自分の行動が誰かのためになったという実感――。


ずっと引け目に感じていた自分の体が、誰かの役に立った瞬間を思い返すと、不思議と胸が熱くなった。


――この場所なら、自分をもっと好きになれるかもしれない。


結衣は台車を押している凛子の隣に並び、意を決して口を開いた。


「凛子さん……やっぱり、私、浪漫部に入ります。」


凛子は一瞬目を見開いた後、子供のように無邪気な笑顔を浮かべた。


「本当ですか? ありがとうございます!それじゃあこれから、どうぞよろしくお願いします!」


その声には、夕暮れの空にまで届きそうな喜びが満ちていた。


晴香は一歩遅れて二人を見やりながら、静かに笑う。


「やれやれ、これでまた賑やかになりそうだな。」


茜色の空の下、三人の歩みはゆっくりと公園を離れ、暮れゆく街へと溶け込んでいく。


風が頬をかすめ、空気は少しひんやりとしてきたが、結衣の心はどこか軽かった。今日、体験入部の中で得た感情のすべてが、これからの高校生活を鮮やかに彩ってくれる予感がした。


結衣はそっと笑みを浮かべ、小さな声で呟いた。

「なんだか……素敵な部活かもしれないな。」


その控えめで温かな言葉は、沈む陽と共に空の向こうへと溶け込んでいった。

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