第2話 単位は足りるのか?

「寺衛(てらもり)早めに卒論のテーマを決めておけよ。あと、進路も」

 准教授の声を背にゼミ教室を後にした青年、寺衛英人(えいと)の足取りは重く、明日から始まる春休みへの期待など全く感じられなかった。

 文学部の三年、来年から四年ともなれば、まともに単位を取得してきた学生であれば、よほどの勉強家か面倒な資格の取得者、単位取得をサボりすぎた学部生等、一部の者以外は週の殆どが休みのようなもの、わざわざ春休みを楽しみにする必要もないのだが、彼には別の事情があった。

 それは当然、やけに若い准教授の言った卒論についてだった。

 准教授が進めてきたテーマもあったが、英人には明白(あからさま)に准教授自身の研究の資料集めに利用しようという魂胆に見え、彼の世渡り上手とはとても言えないプライドがそれを断っていた。

 しかし、だからと言って彼に何かやりたいテーマがあるかといえば無かった。

 既に彼の心に学問への情熱はあまり残っておらず、望んで入った学部ではあったが、現実を見ていなかった高校時代の愚かな自分を怨んですらいた。

 そんな英人の背中に軽やかな声がかかった。

「センパイっ!何を悩んでるッスか?」

 英人が振り返ると、そこには活発そうな少女──既に成人した女性ではあるが、その男友達じみた気軽い言動が実年齢以上に彼女を若く魅せている──が、下から覗き込むように首を傾げていた。

「初葉(ういは)か。悪いが今日は構ってやる時間はないぞ」

「えー!何でッスか!今日はセンパイに大和のラーメン奢って貰う予定だったのに!」

「誰もそんな約束してねぇよ」

 ぞんざいに扱う英人の態度に初葉は拗ねたような反応をし、その後大げさに驚いた態度でよろめいた。

「いいじゃないッスか。どうせ春休みだって一人で糞映画を観るくらいしか……もしや、センパイに彼女がっ!!?いや、それはないか」

「はえーよ!」

「じゃあ、彼女が出来たんスか?」

「それは違うが……」

「じゃあ暇じゃないッスか。自分と一緒にラーメン喰いに行きましょ。センパイの奢りで」

 そう言うと初葉は勝手に手をとりズイズイと進んで行くが、英人はそれを振り払う。

「今日は用事があるから無理だって!」

「それじゃあ、やっぱりセンパイに彼女がっ!?ど、どうしましょう。どうやって騙されてるから分かれるように説得すればいいんでしょうっ!?」

「だから彼女じゃねーって!ってか、俺が女を騙す悪人みたいに言うじゃねぇ!」

「いえ、センパイが騙される方っス」

「なお悪いわ!」

 英人が初葉を軽く小突くと、彼女はオーバーに痛がる演技をして魅せ「DV~」と冗談めかして愚痴る。

「じゃあ、何で無理なんスか!?」

「婆ちゃんの実家に行くんだよ!」

 その返答に初葉は少し考える素振りを見せ「あっ!」と何かを思い出すように手を打った。

「この前言ってた、親すら顔を見た事のないどころか、存在すら知らなかった大叔父からの招待ってやつッスか?」

 正確には存在すら知らないは言いすぎだったが、何処に住んでいる誰それかすら知らなかったのだから似たようなものである。

 しかし、前にチョロっと話しただけなのによく覚えているな、と英人は後輩の記憶力に感心しつつも話を続けた。

「俺も行く気は無かったし、お袋も行く必要ないって言ってたけど、親父が親戚付き合いは大事だって言ってな」

 本当はそれだけではなかった。

 そして、初葉は目聡くそれに気づいた。

「それで、センパイが行く気になった本当の理由は?」

「ぐ……従叔父が少し前に死んだらしくて、来たら遺産をくれると……」

「うっわ。センパイサイテー」

 わざとらしく距離をとり演技をする初葉にジョークだとわかりながらも英人は少し傷ついた。

「で、センパイまた貧乏くじを自分から引きに行くンスか?」

 初葉は英人に近づき、顔を覗き込むようにそう尋ねた。

「またってどう言う意味だよ」

 英人には何の心当たりが無かった。

 その反応に初葉は疲れたように大きくため息を吐いてヤレヤレと口を開く。

「普通、そんなに疎遠な相手をわざわざ呼んでまで自分の取り分減らそうとすると思うんスか?絶対裏があるっスよ」

「ぐ……いや、そんな人の善意を疑うのはよくないぞ?」

 英人自身も多少は疑っているのか、いやな現実から目を逸らすように明後日を見た。

「センパイはいつもそうやって、見えてる地雷を踏みに行くんすから」

 英人は少しムッとした。

「どういう意味だよ」

「センパイ、普段はいいかげんで流されやすい薄情者ッスけど、無駄に責任感が強いせいで結局一番損な役を引き受ける事になるじゃないッスか」

 心当たりがあったのか、英人はばつが悪そうにたじろいだ。

「いや、別に俺はそんなつもりは……」

「自覚があっても認められないようじゃあ一生直らないッスよ?」

「いやいや、今回は大丈夫なはずだぞ?旅費も出してくれるし、気分転換にもなる。上手くいけば卒論の題材も決まる。一石三鳥だぞ!」

 女々しくもいい訳じみたいい訳をする英人に初葉はジト目で「二頭追うものは一頭も得ず?」と反応するが、少し考えるとポンっと手を打ち一転ワクワクとしながら尋ねた。

「で、自分は何を準備すればいいッスか?着替えだけ?やっぱり向こうで遊ぶゲームやご挨拶の品とかもいるッスよね?」

「お前の席はない」

「自腹で来いって事ッスか!?そんなのズルいッスよ!!」

「違う。行くのは俺だけでお前は来ない」

 その宣言に初葉はわざとらしく、ガーンッ!っとオノマトペの出そうな演技で落ち込んで魅せた。

「そ、そんなっ!それじゃあ、今日から春休みが明けるまでのご飯をどうすればっ!?」

「お前は休み中ずっと飯をたかるつもりだったのか!?」

「ご飯だけじゃないッスよ?」

 あっけらかんと答える初葉に英人は頭痛を覚えながら軽く首を振った。

「行くといっても数日ですぐに帰って来る予定だ。それに四国の孤島で本当に何もない島らしいから行ってもつまらんだけだぞ?」

 そう言われ初葉はやっと諦めたのか、寂しそうにため息を付いた。

「自分は別にそれでもいいんスが……それにしても四国の孤島とかド田舎の中のド田舎なんすね」

「お前、なんちゅう失礼な事を」

 呆れる英人を余所に初葉は何かに気付いたのか「ハッ」と手を叩いた。

「世間から隔絶した孤島で自分だけのハーレムを?」

 行き過ぎた深読みとそんなご都合主義的な発想に英人は呆れた。

「お前は普段一体どんな物を読んでいるんだ?」

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