たった一つの鮮やかな世界

ぽぽ

第1話

 彼はずっと一人だった。獣の耳と尻尾が生えた人、つまり獣人は、法の下では大切に扱うようにと言われているが、実際は動物と同じように扱われている。しかし人語を解する動物を飼おうと考える人間は少なく、むしろ気味が悪いと避けられる存在だった。そのため獣人である彼は路地裏で一日の大半を過ごし、動物の死体や生ごみを食べて生活していた。見るものすべてに色が無く、自分はずっと暗い場所で過ごすのだろうな、と彼は思っていた。

 彼の生活はいつも厳しいものだった。食べるものが何もない。人間が憂さ晴らしにと襲い掛かって来る。他の野生動物に襲われる。そんなことが頻繁にあった。

 ある日、彼は命の危機に瀕していた。一週間何も食べることができず、さらには人間に殴られ、蹴られた。ボロボロの状態のまま、公園で朦朧とした意識の中死を予感していた。

 そんな時に現れたのが彼女だった。傷だらけで衰弱した彼を見つけると駆け寄り、すぐさま家へ連れ帰った。彼は抵抗することはできなかった。

 こいつの奴隷になるか、それとも売られるか、どっちかな。彼はそう思った。しかし結果は予想と大きく外れた。なんと治療されたのだ。折れた骨に添え木をされ、傷を消毒され、温かいスープを飲まされた。

「何でこんなことすんだ?」

 彼は問うた。心からの疑問だった。施してくれる人間など今までいなかったからだ。

「何でって、そりゃボロボロだったからだよ」

 自分が聞きたいことはそうではない。そう思ったが口にするのはやめた。今のを天然で言ったのかそれともはぐらかそうとしたのかは分からないが、後者の場合は訊いても答えてくれそうにない。そう思ったからだ。

 数日が経過し、彼は完全に好調となった。人生で一番と言っていいくらいには絶好調だ。おいしい食事を出され、風呂に入り、清潔な服を着るという、何年ぶりかも覚えていないようなことをしたからだ。

 ここにいれば彼を養ってくれる。彼女はそう言っていたが、彼は出ていくことにした。

 彼は彼女によって初めて感情というものを知った。しかし、感情が芽生える原因が彼女しか無かったため、それはひどく脆いものだ。そして、きっと彼女以外には感情が乏しいと自身でわかっている。

 彼女は彼の世界に色を与えてくれた。しかし色がある場所は彼女だけであり、それ以外は自分を含めすべて灰色だ。

 そのため、きっと自分は彼女がいるとおかしくなってしまう。彼女が喜ぶたびに自分はそれ以上に歓喜し、彼女が悲しむたびに自分の胸はきつく締め付けられる。彼女と一緒に過ごした数日間、彼はずっとそうだった。これがもっと続いたら、自分は壊れてしまうと、そう自身で直感していた。

 それに、彼は彼女を壊したくなかった。いや、変えたくなかった。自分のせいで感情を変える彼女を見たくない。自分のために彼女が何かをするのは罪悪感が湧く。彼は、彼女を宝石のように大切に思っている。だからそんな思いになったのだ。

 彼女といたらおかしくなる。彼女を変えたくない。その二つの思いがあったから、彼は出ていくことにしたのだ。

「ほんとに出てっちゃうの……?」

 彼女は寂しそうに訊いた。それによって彼の胸は痛くなった。自分が出ていくから、彼女は寂しがっている。

 しかし、だからこそ彼は出ていくことに決めた。

「ああ。……まぁ、たまには会ってもいいかもな」

 それは彼にできる最大限のことだった。

「ほんとに?会ってくれるの?」

 彼女は目を輝かせた。それを見ると彼もつい顔をほころばせた。

「まぁな。だって、オレがいないと泣いちゃうもんな」

 彼はいたずらっぽく犬歯を見せて言った。彼はそれなりに頭を使えるため、自身の彼女に対する思いも自覚している。だが、彼女をよくからかう。その理由は、彼女に対する想いを悟られないためだ。皮を一枚被っているのだ。それと……きれいな宝石ほど壊したくないという思いは強いが、それと同じくらい触ってみたいとも思う。

「むぅ……まぁ否定はしないけど……」

 彼女は顔を伏せて言った。やはり、彼女といると自分がおかしくなる。そう思った彼は、

「またな」

 と言い残し、去っていった。振り返りたい衝動に何度も駆られたが、無理やり抑えた。振り返ってしまったら、きっと戻って行ってしまうから。

 アパートの階段を降りる途中、彼は自分を呼ぶ彼女の声を聞いた気がした。きっと気のせいだ。無理やりそう思い、彼は暗い世界へと帰っていった。

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