第1話 過去?(2)

……

……

三秒後。

「えええっ!私死んでない!」

「死んでないに決まっている。お前の下敷きになった俺が、死ぬところだったからな」

後ろからどこか低い声が聞こえた。コンクリートの地面にぶつけた感触がない。その代わりに――

「うん?何これ?」

手で後ろを探ると、ズボンのジッパーに触れた。次の一秒、私の腕が掴まれた。

「……どこを触ってる」

「えっ?あ、ごめん」

え、あれ?私、人を下敷きにしたの?尻以下はコンクリートに触っているけど、階段から転げ落ちたのに怪我していない。きっとこの人が全力で私を受け止め、体で私を庇ったのだ。

その結果、私たち二人は公園の窪みの地面に転がっている。

恐れ恐れで振り返ると、予想外の人物を見た。

私がとてもよく知っている人物だ。

スリムな体型、黒いTシャツとジーンズ、癖のある柔らかい黒髪、右目の下に泣きぼくろ。

「つ、罪波さん!?」

私の全体重に当てられた罪波さんが微かに眉根を寄せた。

「俺を知っている?」

「当たり前です!それより、罪波さんが私を助けたんですか?!」

「……まあ、そういうことになるな。お前が急に階段から落ちてきたから」

「さすが罪波さんです!本当に、本当にありがとうございました!」

罪波さんが「は?」と声を上げ、不思議そうに私の頭に指を差した。

「お前、頭……」

「そうだ!!!泥棒!罪波さん、そこに泥棒がいます!」

罪波さんの腕を掴むと、彼は眉を上げた。

「何が泥棒だ。それにお前は変態か、ベタベタ触るな」

「そんなの今どうでもいいです!罪波さん、早くあの泥棒を捕まえてください!携帯を奪われています――」

罪波さんが手を振り、私の叫びを遮った。

「諦めろ。泥棒なんてそこら中にいる」

「そんな!泥棒ごとき、罪波さんならきっと簡単に捕まえられますよ!」

「悪いが、泥棒なんかに興味ないな。それよりお前、頭は痛くないのか?」

え?

私が打たれた左頭部に触った。ドロドロとした感触……手のひらに赤い液体が付いている。

「あっ、血……」

「そうだ。血だ」

罪波さんは冷静に近くのビニール袋を取り、そこからガーゼと消毒液を取り出した。

「え。罪波さん、何してるのですか」

彼は無言で私の前に蹲り、ガーゼで私の左頭部を押した。

「つ、罪波さん?医療用品を持ち歩いてるのですか?すごい!さすがです!」

「うるさい。静かにしろ」

口調が荒っぽいけど、出血を処理する手はとても丁寧だ。

静かにしろと言われたから、私は大人しく口を閉じた。

しばらくすると、彼はそっとガーゼを私の傷口に貼った。

「終わった」

「あっ、ありがとうございます!罪波さんいい人ですね、へへっ」

「……」

罪波さんは返事することなく、ただ探るような目で私をじっと見つめた。

「どうしたんですか?罪波さん」

「……別に。運が良かったな。ガーゼと消毒液を買ってきたばかりだ」

「罪波さん本当にすごいですね。一番いいタイミングで買ってくるとは……」

言った傍から、私は違和感を感じた。

「ちょっと待ってください。罪波さん、ルティアさんとチュウしてたはずでは?」

罪波さんの目は、馬鹿を見るような目になった。

「お前の見間違いだろ」

「私が見間違えるはずがありませんよ!罪波さんが灰になっても、きっと分かります!」

「……はあ。なんだその微妙な言い方」

「だって私、誰よりも罪波さんのことを尊敬してます!見間違えるはずがありません!あ、ルティアさんの方ももちろん尊敬してますよ」

「……意味わからない。一体何の話だ」

罪波さんが立ち上がり、鋭い目で私を見る。そして変な質問をした。

「俺に他に用はあるか?」

「泥棒を逮捕しないと――」

「それはいい。俺に関係ない話だ」

え。気のせいかな。なんかさっきから、罪波さんにずっと見られている気がする。

うーん。でも、罪波さんが私のことを知らないのも当たり前だ。私、ただの無名なⅭランク生徒だから。

「……もしお前がひょんなことから俺の名前を聞いただけで、他に用がないなら。早くここから離れる方がいい。その方が身のためになる」

言い終わると、彼が私をもう一度見た後、手をポケットに入れたまま、公園の階段を登った。かっこいい。

「罪波さん。任務に行くんですか?」

彼が振り返らなかった。

「帰宅だ」

「おおっ、帰宅……」

罪波さんの姿が完全に消えてから、私はやっと違和感を覚えた。

「帰宅?」

作戦変更ってこと?強盗事件に遭った間、キャンセルになったのかな?

もしくは、罪波さんのジョークだったりして……


携帯が奪われて、腕時計も着けてない――今、何時だろう?

もしここが「罪の区」じゃなかったら、私は通行人やコンビニから電話を貸し、任務仲間に連絡しているだろう。

でも犯罪率が極めて高い「罪の区」で、こんなことをするのは危なすぎる。

私は公園を一回り探索したけど、泥棒のおじさんも、「Absolute」も見当たらなかった。

唯一の武器を失くした上で、左頭部が負傷、蹴られた腹部も痛い。このまま任務を続くのはさすがに危なすぎる。

Anance学園は罪の区の一番北に位置するに対し、現在地の公園は一番南だ。夜中でこれほどの長距離を歩くのは無謀すぎる。私はしばしの躊躇いの後、ひとまず「罪の区」から出ることにした。

実を言うと、すごく悔しい。初めての逮捕任務なのに、何もできずに早退してしまうなんて。でも、引く際を見極めるのも大事だ――これもAnance学園で学んだ大事なことである。

そう決めると、私はフラフラと出口を探しに歩き出した。

どれほどの時間が経ったのか。

「また行き止まり……」

薄暗い路地の果てにはゴミの山しかなかった。壁は落書きと張り紙の跡だらけで、地面に苔も生えていて、どこから水漏れの音もしている。

あの小さな公園から出た後、私は何度もゴミに塞がれた路地に入った。途中、薄暗いモーテルの前で客引きする若い女性や、ぶつぶつと罵りながら段ボールを拾うホームレス、ゴミの山の中に倒れていて、生きているかさえ分からない中年男性と出くわした。

私はいつもAnance学園が開発したナビゲーションアプリを頼って見回りをしていた。迷宮のような「罪の区」で任務を執行するのは、Aランクの学生でさえ迷わない自信がない。私みたいな理論知識も碌に覚えられない弱小Cランクなら尚更だ。

ナビゲーションアプリがなくなった今、私が勘と色褪せた道路標識に頼って、帰り路を探し出すしかない。

しかし――

「これ、もう完全に迷ってるじゃん……」

私は鬱な気分で、塞がれた路地から外に出た。

周りを見渡した後、私は前方の二階建てトタンアパートの前で少し休憩することにした。

アパートの一階と二階を繋がる階段は錆びているけど、視野は広い。ここなら、何があっても対応できる……はず。多分。

眠気が襲ってきて、私はあくびをして、両手に膝を抱えながら座った。

普段より肌寒い気がするけど、少しだけ。少しだけの休憩……そしたら、道探しを再開する。

逮捕作戦、上手く行ってるかな。でも、私みたいなCランク生徒、居なくても支障が出ないと思う……

私はぼんやりと目を閉じて、眠りに落ちた。


……

微かな物音が聞こえた。スリッパが錆びた階段を踏んだ音だ。

私は訓練された応急反応で、一秒で跳び起きて防御姿勢を取った。

「あっ」

階段の方を見ると、そこに黒いTシャツを着た、相変わらずの癖毛の罪波さんがいた。

彼はゴミ袋を持ったまま、錆びた階段の上で驚いた表情を見せている。

「なんと、罪波さん!」

「……またお前か」

彼は階段から降り、見事な動きでゴミ袋を三メートル先のゴミ収集場に投げた。

「一晩中ここで寝たのか?」

彼の言葉で、私は夜が明けたことに気付いた。

「罪波さん。今何時ですか?」

「6時半だ」

「もう6時半?!」

私が頭を抱えながら叫んだ。座ったまま寝ただけでなく、こんな時間まで……!お日様も登ったじゃない!

Anance学園の生徒として、あるまじき失態だ。

「つ、罪波さん。昨日の作戦は?どうでした?犯罪集団のボス、捕まえました?」

私の三連質問を聞いて、罪波さんは眉を顰め、犯罪者を見るような目で私をじっと見る。

「一体何の話だ」

「作戦のことですよ!もう終わったのですか?」

「意味がわからない。昨夜も、訳の分からないことばかり言ってたな……」

罪波さんが私の方に二歩近づいた。

「お前、一体何者だ?」

迫ってくる罪波さん、迫力がありすぎる。私は思わず唾を呑んだ。

「罪波さんが私を知らないのは当然ですよ。私、学園ではモブみたいな存在ですし……」

罪波さんが少し頭を傾け、その癖毛を掻いた。あ、ちょっとかわいいかも。

「俺と同じ学校ってこと?」

「はい!同じく、Anance学園の生徒です!」

「……Anance学園?」

罪波さんが小さく呟いた。

「あの坊ちゃんと嬢ちゃんしかいない貴族学校か?」

「つ、罪波さん。言い方酷いです……昨日、Sランクの勲章を授かったばかりじゃないですか。昨晩もチームを率いて、犯罪組織の突撃作戦を指揮してましたし……あれ?」

いや、どこかがおかしい。

私は目の前のボロボロなトタンアパートを見た。

「罪波さん、学生寮に引っ越したんじゃないですか?なんでこんな、ボロボロなトタンアパートに……」

「ボロボロなトタンアパートで悪かったな」

閃いた。このおかしな会話から、私は気づいた。

目の前の「罪波さん」は、偽物だ。

私の知っている罪波さんじゃない。だから私の言葉を何でも否定するのだ。

授業で聞いたことがある。罪の区に人の顔の皮が違法的に売られていて、犯罪者は変装のために購入し、犯罪するんだって。

まさかこんな犯罪事件に出くわすとは。しかも私の一番尊敬する罪波さんに化けている。

なんてことだ!私は深呼吸と共に、拳を握り締めた。

「ごめんなさい。昨日助けてもらったばかりなんですけど……本物の罪波さんのために、私と一緒にAnance学園に戻って、調査を受けてください」

「……俺を捕まえるつもり?」

偽の罪波さんの眼差しが急に冷めた。

「私はAnance学園の生徒として、逮捕権を持ってます。これ以上の抵抗は無駄です。あなたを傷つけたくないので、大人しく捕まれてくだ――いたたたたた、ちょっと待った!」

私の言葉が終わる前に、偽の罪波さんが素早い動きで私の腕を掴み、容赦なく後ろへ捻った。

「うるさい」

片手で私の両手を押さえ、彼はもう片方の手で私の体をトタン材の壁に押し付けた。

弁解もせず、すぐに暴力に出た!やっぱりこの人、偽物だ!

「や、やっと本性を現したのね……!」

これは私の声。

「一体何が目的だ。誰がお前をここに送り込んだ?」

これは罪波さんの声。

どういうこと?私たちの会話、全然噛み合ってないけど?

それに、本物の罪波さんじゃないのに、力が強い。私は痛みを耐えながら、大声で彼を叱った。

「あなた、罪波さんの顔で犯罪する気でしょ!私、こんなこと絶対に許せない!」

「好きに言え」

罪波さんが低い声で、冷たく宣告した。

「本物とか偽物とかどうでもいい。お前を始末すれば、心配事がなくなる」

突然、私の頸に冷たい感触がした――偽の罪波さんに頸を掴まれている。その長くて細い指で、後ろから私の頸を力強く囲んでいる。

偽物の罪波さんの息遣いが私の肌に落ち、鳥肌を立たせる。手の力がどんどん増していくのも感じる。

とても冷たく、濃い殺意だ。

じているのか、今回はちゃんと答えてくれた。

「……ああ。罪波だ。犯罪に手を出した覚えもない」

これ以上追及しようかと悩んだとき、偽の罪波さん(仮)が顔を横に向いた。

「早く家に帰れ。これ以上罪の区に居るな」

わっ。どういう風の吹き回し?私のことを心配しているみたいな口ぶりだ。

思い返せば、最初罪波さんにぶつけた時だって、転げ落ちた私を庇って、ケガの手当もしてくれた。

さっき殺されそうになったことを除けば、目の前の罪波さんは悪い人には見えない。

でもやましいことがないなら、どうして調査を受けたがらないんだろう?損はしないはずなのに。

んー。全然分からない。

正直に言えば、私は罪波さん(とルティアさん)をとても尊敬しているだけで、話したことがない。私が知っているのは全部、「白黒同好会」や学校内の噂だけだ。

だから罪波奈緒のことを聞かれると――とても上辺で、固定印象のようなことしか答えられない。

外見は少し陰鬱な感じ。髪は乱れる癖毛で、そこそこの長さの黒髪。スリムな体型で、背が高い。目つきは鋭く、右目の下に涙ぼくろがある。動きが早い。頭が良い。逮捕スタイルがワイルド。学校でいつも目立つ。ルティアさんとよく口喧嘩をする。

私の中の罪波さんはこんなあやふやな感じだ。まるで何かの作品の主人公で、ルティアさんは彼の運命のヒロインみたいに。

もしかして……私、実は……お二人のことを全然知らない?

ここまで考えると、私は拳を握り締めた。何故か指先が少し白くなっている。頭の中に、ぼんやりとした違和感が浮かんで――

いやいやいや!私は自分の考えを否定した。これ以上変なことを考えちゃダメだ!

あれこれ考えている間、罪波さんはもう階段を登って、トタンアパートの中に戻った。

私が一人だけ、アパートの外に取り残された。

これからどうしようかな……

夜の罪の区は危ないから、昨日は家に帰ることにしたけど――朝になった今なら罪の区を通って、Anance学園に帰れるはずだ。

昨日の逮捕作戦がきっと終わっている。普段なら、負傷した私はAnance学園に戻り、正規の治療を受け、昨夜の強盗事件を報告するほうがいい。

でも、昨日の負傷は作戦と全然関係なかった。道端の髭おじさんに襲われ、携帯を奪われたとか、学園に知られたら恥ずかしすぎる!

そしてなにより、今は一大事だ。この自称「罪波奈緒」が何をしたいのか分からない。でも、この人が何か悪さをしたら、本物の罪波さんが罪を問われてしまう可能性があるのは確かだ。これはほっておけない。

偵察任務に出たことがないけど、罪波さんを守りたいという気持ちに偽りはない。憧れる人のために、決めた!これより偵察任務に移行する!そうすれば、昨夜の失態も挽回できるはずだ!

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