だからわたしは「少年」と呼び続ける

タイヘイヨー

五歳の差から

「まだ終わらないの? 


 無意識にからかいを含んだ声になった。

 手を止め、俊くんはギュッと口を結ぶ。数瞬耐えるように身じろぎして、わたしに抗議の目をぶつけてきた。


「いま解きますから。焦らせないでください」


 わたしは頬杖をつき、少年の視線をニヤニヤと受け止める。きっとネズミを追い込んだ猫みたいな顔をしているんだろうな。でも窮鼠猫を噛まないでほしい。わたしと彼の体格差はほぼ同じ。組み伏せられたら勝てない。

 憤懣やるかたないように俊くんは机に向き直り、ペンを走らせる。

 うん。合ってる合ってる。


「そー。そこは2乗、2倍、2乗で解くんだよ」


 手持ち無沙汰になったわたしはベッドの上に寝転がり、ボールを部屋に備え付けられた小さなバスケットゴールに放る。スポン。ナイスシュート。


「うるさいですよ」


「メンゴ」


 俊くん──緑川俊みどりかわしゅんは今年で中学三年。

 夏に部活を引退し、本格的に受験勉強へ舵を切った。

 彼が受験するのはここ緑川家宅から二駅離れた高校。二年前にわたしが卒業したところだ。

 成績は可もなく不可もなく。

 彼の学力ならよほどのことがない限り受かるはず。

 それでも親は不安らしい。

 どこの塾もいっぱいなので俊ママから家庭教師をしてほしいと頼まれた。もちろん無償ではない。

 三日に一度、放課後に緑川家でマンツーマン指導。自宅からも近い。大学で暇を持て余し、新しいバイトを探していたわたしからしてもこんな楽々な仕事、願ったり叶ったりだ。


 わたしと彼の家族は小さい頃からの付き合い、俗に言う幼馴染だ。物心ついた時にはよちよち歩きをしている俊くんが後ろについていた。

 同じ一人っ子なわたしたちは小学生までは血の繋がった姉弟のように仲がよかった。親の帰りが遅くなると夕飯を囲み、夜中までゲームをし続けたり……お風呂にも一緒に入っちゃったな。

 中学に上がり、環境も身体も変わってくると俊くんとは自然と疎遠になっていった。親同士は旅行しに行くほどいまだ親密だが、子供には子供の付き合いがある。同級生部活先輩後輩教師受験。当時のわたしには小学生男子に構う余裕はなかった。高校になると親がよく話題に上げる子、といった存在。もちろん見かけたら挨拶くらいはした。


 俊くんはたまに道ですれ違う、昔遊んであげた近所の子。

 俊くんからすればわたしは、昔遊んでくれた年上の女性。

 一カ月前までは知り合いで終わっていくはずだったわたしたちだが、いまは家庭教師とその生徒という新しい関係性を築いた。昔と違い敬語を使ってくる俊くんにほんの少し戸惑いもしたが、すぐに慣れた。

 ブランクはあるが知ってる仲だけあり、打ち解けてはいる。映画や音楽など勉強以外の会話もそこそこ弾む。

 お互い昔のことはあまり触れずにいる。暗黙の了解はきちんとなされていた。恥ずかしいもんね、特にお風呂のことは。

 これが劇的な再会をしたわけでもないわたしたちの日常。


 授業の進行具合を確認して問題を出し、その都度間違いを指摘する。俊くんが机でカリカリと数学と格闘している間、わたしは彼の部屋を自宅気分でくつろいでいる。小学生以来訪れていなかったが、揃えられた本も貼られているバンドのポスターも趣味が良い、自分の部屋にしたいくらいだ。俊ママに感謝しながら今日も今日とても漫画を読み耽っていると、胸の辺りに視線を感じた。


 ──あらあら集中力がないなぁ。


 漫画本を広げたまま、机の方を見る。相手もさるもの、こっちの挙動に気づくとすぐ真面目に勉強しておりますといったふうに問題用紙に目を落とす。


 今日はパーカーを着ているんだけどなあ。

 ダボダボで身体のラインなんてわからないだろうに、それでも目で追ってしまうのは男の本能なのだろうか。


 家庭教師を始めて二回目の時。

 横に座りながら指導していると、俊くんはそわそわと落ち着きない様子になった。

 疲れたのかな。一旦休憩しようと提案し、わたしは台所から飲み物を貰おうと部屋を出る。

 その背に、吸い寄せられるような感覚を覚えた。

 首、肩、腰、尻、脚。

 各部位をマーキングするように注がれる視線にわたしは、あちゃー、とまず己の不覚を嘆いた。

 その時のわたしはタンクトップにデニムとラフなスタイル。少々露出しすぎた。外出時はカーディガンを羽織ってはいるものの、これはまずかったと俊ママからジュースを受け取り、部屋のドアを開ける。

 俊くんは何事もなかったように振る舞っているが、ベルトの位置が心持ち上がっている。股間を少し調整したんだなと察した。

 そのまま勉強を再開するもわたし──きっと彼も身に入らず、すぐお開きとなった。

 玄関で見送られながらわたしは過去を振り返る。

 いまの俊くんと同年代のクラスの男子たち。時折、彼らから睨め回すようなものを日に何回も感じていたあの頃。パーカーにストッキング、冬ならばスカートの下にジャージを武装していたJK時代。

 大学生になり抑圧された分開放的になったのが今回は仇になった。男子中学生にこの格好は毒すぎる。

 以来、緑川家を訪問する時は幾分か魅力を下げた分、防御力を上げてみた。

 しかし、わたしの身体はそれほどものなのかはたまた俊くんはまだその手の免疫がないのか、こちらへ向けられる情熱の温度は日に日に上がっていった。

 思春期だ。

 そりゃ仕方ない。

 俊くんも男の子。


 いや、もう。

 男である。


 15歳になり、顔も体つきも精悍に変わった。

 背はまだわたしと大差ないが、まだまだ成長期。すぐ追い越される。

 すっかり声変わりも果たし、わたしを敬語で呼ぶ声には力強さに溢れている。

 運動部だけあり、ほどよくついた筋肉とはっきりとものを言う潔さ。

 謙虚さを覚え、夜遅くなった時の帰り道に付き添ってくれる姿勢は頼れる紳士一歩手前。

 子供から大人へ。

 もうひよこではなくなった彼と密室で二人きり。

 ともすれば何かの拍子で身体が触れてしまう距離。

 性の好奇心に満ちた目も求められているような錯覚に陥り、動悸はより激しさに見舞われた。

 教えるべき点を見過ごし、違う公式を口にし、誤った歴史の知識を披露してしまう。

 熱に当てられたように、わたしの調子も狂い出した。


 どうしてあんな赤ん坊が。

 なにがあればあの坊やが。


 こんなにも胸を高鳴らせるのだ。


 ──いかんいかんいかん。


 わたしは成人。

 俊くんは未成年。

 義務教育を終えていない子に抱いていい感情ではない。

 雑巾を絞るように理性が訴える。

 これは違う。絶対違う。

 これはあってはならない。

 自分のストライクゾーンの広さに唖然としながら、わたしは線を引くことにした。


 それがこの「少年」呼びだ。


 わたしは大人。

 あなたは子供。

 ピッ、と明確に上下関係を敷く。


 実際に少年と呼んでみると、効果ははっきりとでた。

 俊くんは最初ぽかんとしながらもすぐに俯き、表情を隠した。やはり劣情を持て余してしまうのか視線は止むことはないが頻度は下がった。

 少年呼びはなかなかに快感だった。力では敵わなそうな相手を言葉一つでへこませる。現代の呪文だ。杖を手にした魔法使いのような万能感に酔いしれた。耳を赤くした彼にサディスティックな面が噴出しかけたことは白状しておこう。メンゴ。


 勉強の教えもスムーズになり、つい先日の小テストも好結果。俊ママもご満悦。わたしに支払われるのにも色をつけてもらえるかも。

 良いことづくめだ。


 あるべき未来のビジョンが浮かぶ。

 このまま受験を乗り切り、俊くんが母校の後輩になる。

 わたしは懐を暖め、就活に励む。

 ある日、道ですれ違い、会釈を交わすかつての幼馴染で家庭教師と生徒。

 それ以上でも以下でもない関係。


 これでいい。

 これでいいのだ。


 …………。


「あの、解けましたけど」


「ひゃい!!」


 いつの間に問題を解いたのか俊くんは怪訝な顔をしている。

 弾かれたようにわたしはベッドから起き上がり、その場で正座を披露してしまった。

 変な妄想に入ってしまい気づけばそろそろ勉強も終わる時刻。

 わたしは平静を装いながら、答え合わせをし、帰り支度をする。


 玄関まで降りると俊ママが待っていてくれていた。


「これ実家から送られてきた梨。お裾分けね」


「わ、ありがとうございます〜」


 わたしたちのやりとりを一歩下がって俊くんは見守っている。


「大丈夫? またこの前みたいに俊に送らせる?」


「やー、いいですよー、まだ日はあるし」


 車道側を歩く彼の横顔を思い出すと胸がキュンとなった。

 俊くんは送ろうかどうか自分からは言い出したくないのか気恥ずかしさを隠せていない。この辺りはまだまだ子供だなぁ。


「梨ありがとうございました。それじゃ、またね」


 俊ママの前だ。さすがに少年呼びは控えた。

 そういえば俊くんと名前で言うほうが珍しくなったな。ここ最近はずっと少年呼びだったし。

 片手を振り、別れを告げると、


 ──え、なにその顔。


 眉を寄せ、俊くんはあからさまに不満げな顔をしている。

 そんなのいままで見たことないよ。


 俊ママはそんな息子の表情に気づかずににこやかだ。

 なぜかいたたまれなくなったわたしは玄関を閉め、そそくさと帰路につく。家に着くまで年下の彼の顔が頭からずっと離れずにいる。

 親に俊ママからの梨を渡し、自室のベッドに倒れ、天井を見上げた。


 ──あの表情はなに。なにが言いたいの。


 まだ純朴な瞳がなにかを訴えているような気がした。

 なんで。

 名前で呼んだだけなのに、なんであんなに寂しそうな目をするんだろう。


 その夜は、ずっと目が冴えたまま過ごした。


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