戦場犬助は最低野郎だったのか?

一 世は並べて事だらけ

 季節は夏。

 夏は朝。

 片丘に露満ちて

 アゲヒバリ喉を鳴らし

 カタツムリ棘の上……


「ちょっ……! 犬助くん? 大丈夫⁉︎」

「あちゃー、今のはいい音したよ? ひょっとしたら死んだかも」

「え、嘘……私捕まっちゃうのかな」

「裏山に埋める?」

「まあ、埋めてやりたい気分では、あるけど……」


 そんな僕の世界は、ロバート・ブラウニングよろしく「世は並べて事もなし」とはいかない。

 初夏の空は目が眩むほどに晴れ渡っていて、遠くの方には山を呑み込むような入道雲が見えていた。どうやらここは、学校の屋上のようだ。突風が僕の顔面を吹きさらし、前髪がまぶたに突き刺さる。痛い。

「あ、起きたよ」

「よかった。死んじゃったらどうしようかと……」

青香せいかが心配してたのは犬助いぬすけじゃなくて自分だけどね〜」

「そっ、そんなことないよ! というかむらさきがそういう感じに持って行ったんじゃん!」

 一面の青空をバックに、制服姿の女子高生二人が僕を見下ろしている。カッターシャツの白が空の青によく映えて、なんとなく鮮烈な光景に見えた。

 二人の女の子はそれぞれ青香と紫というらしく、僕を囲んで口々に言い合いをしている。


 二人に見覚えは全くない。一体どこの誰なのだろうか。

「………」

 というか、僕は誰だ…?


 ブワリと全身の毛が逆立って、確実に初夏の蒸し暑さによるものではない汗が、体中から一気に吹き出してくる。僕は地面に寝そべりながら、衝撃の事実に一人戦慄していた。


 記憶喪失……というやつなのだろうか。ここ最近の記憶が全く思い出せない。小中学校ぐらいまでの記憶はおぼろげに残っているのだが、自分の名前とか、自分がどんな人なのか、とか……全く覚えてない。


「だって青香が犬助を突き飛ばしたんだよ。私じゃないもん〜」

「突き飛ばしてないもん。ちょっと押したら転んだだけ」

「うわ〜、よくないよそういうの。罪をしっかり認めないと〜」

 二人は完全に僕をほったらかして、醜くも責任の所在を押し付け合っていた。僕としては誰がやったかなどどうでもよかったが、二人の会話は、僕の記憶の穴を埋める手がかりになった。

 僕の名前は犬助で、おそらく、二人の友達か何かなのだろう。二人とも僕を下の名前で呼んでるし(犬助という奇妙な苗字が、この世に存在しないことが前提だけど)、知らない間柄ではないはずだ。


「………」

 僕はなるべく気配を消して、さらなる手がかりを手に入れるため、二人の言い合いを静かに傍観する。

「もう、そんな人聞きの悪い言い方しないでよ。そもそも紫が「突き飛ばしちゃえ」って言ったんだよ?」

「まさか本気でやるとは思わなかったな〜」

「なっ……紫の卑怯者!」

「まあまあ、落ち着きなよ。それに卑怯と言ったら、犬助のことだよね〜」

 紫がずる賢い笑みを浮かべ、矛先が唐突に僕へと向けられる。


 卑怯…?僕が……?

「そうだった。まだ話の途中だし」

「犬助、いつまで寝そべってんの?」

「あ……いや。わかった。起きるよ」

 あまりに突然話を振られたので、狼狽を隠しきれなかった僕は、かなり挙動不審になりながら立ち上がる。何がなんだかサッパリわからない。結局、状況がつかめないまま渦中に放り込まれてしまった。僕は思わず頭を抱えてしまう。

「犬助、ホントに大丈夫?」

 そんな僕の顔を、横から紫が覗き込む。顔が恐ろしく近い。

「なんか様子おかしいけど」

「う、うん。大丈夫」

「吐き気とかない?打ち所が悪かったりしたら、本気でシャレになんないよ」

「そ、そうなの…?」

「青香、遺族に謝る準備しといた方がいいかも」

「そんなぁ!」

「本当に大丈夫だよ。ちょっと具合悪いけど……吐き気はないから」

 勝手に人の家族を遺族にする紫と、それをバカ正直に信じる青香を押し除けて、僕は二人の間に割り込んだ。

 これ以上、二人のコントじみたやり取りを聞いていても埒があかない。

「やっぱり、一応保健室に行った方がいいんじゃない?」

「本当にごめんね、犬助くん」

「いいんだ。本当の本当に大丈夫だから。それより二人とも……」

「でも保健室行く前に、答えだけは出して行ってね」

「え?」

「そうだよ。いい加減早く決めて」

「き、決めるって?」


「私と紫、

「………」

 遠くの空から、くうを引き裂くような雷鳴が聞こえた。

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