01 契約と解剖事件


「キミは本当にそれでいいのかい?」


男は問う。


「キミが選ぶ道は決して救済への道ではない」


 それでも、と男は自分へと再度問う。


「キミは知りたいと願うのか?」


  知るということ。

 すべてを知るということは決して「救い」になるわけではない。知らない方が幸せだ。知った方が不幸になる可能性は十分ある。そういった意味を男の問いは含んでいた。


「キミが知るものは深淵だ。深淵を覗き込む時、深淵もまたこちらを見ている」


 かの有名なニーチェの言葉を引用して男は言う。

 そう、確かにその通りだった。男の言うことは正しい。

 これから自分が選び取ろうとするものは、茨だらけの林檎のようなものだった。禁断の果実は智慧を与えてくれるが、痛みをも知ることとなる。

 男はだからこそ、覚悟を確かめるように、三度問う。


「キミにそれが耐えられるだろうか? ありのままに起こったこと。そしてその心を」


 そう問うた男の不思議な色合いの瞳が、こちらを見ていた。

 否、更に深い部分だった。こちらの心の裡をじいっと、解剖するように視ていた。

 視線を合わせているだけで、心の外殻を容赦なく切り開かれるような感覚がした。

 恐ろしささえ抱く。あまりに綺麗なものは恐ろしい。そんな言葉が頭に過る。

 それでも――自分は、頷いた。

 美貌の彼の目から逃げなかった。それが覚悟の印だった。

 暫く視線を交わしたあと、男は観念したように両手を挙げた。


「分かったよ。降参だ。そうだね。キミにはその資格も覚悟もあるようだ」


そう、自分には覚悟がある。覚悟があると人はこんなにも心が静かになるのだと初めて知った。それでいて心奥は蒼く、燃えていた。


「おめでとう。キミはこれで、ぼくの依頼人だ」


 男は笑う。その笑みが温かいのか、冷たいのかさえ分からない。

 ただ目の前の男から天の使いに見せかけた悪魔であっても、もう構わなかった。







 赤い蝶が、おんなの真白い腹の上でおおきく翅を広げている。鮮烈な赤だった。

天高く、上空から眺めたらそれは確かに、一匹の蝶に見えたかもしれない。


 ただし蝶は室内にあった。

 そして蝶が翅を広げているように見えるのは、めくれ上がった人の皮膚だった。


 美しいおんなだった。死に顔も美しかった。

 奇妙な安らかささえあった。


 年のほどは二十代後半から三十代前半といったところだろうか。広々としたリビングで仰向けになり、長くつややかな黒髪は扇形に広がっていた。一糸まとわぬ姿の女の白い肌は青白く血の気がない。それが一層、その赤を引き立てていた。

 女の白い肌理の整った素肌。その腹は十字に切り開かれていた。切り開かれたその皮膚は四方へと開いており、釘で留められていた。標本箱の蝶の翅に似ていた。

解剖図のように丁寧に切り開かれた傷口からは、充血したような桃色の、内臓がのぞいていた。まだ潤いのあるそれは、てらてらと赤い血で濡れて輝いていた。女の両手首と両足首は結束バンドで拘束され、強ばったサナギのようにも見えた。部屋には濃い血臭が充満していた。死後半日ほどだろうか。まだ死して、そこまで経っていないだろう。


 この凄惨な「殺人現場」で、遺体を見下ろした捜査一課の刑事――岩垣善男は苦々しく顔を歪めていた。体躯の良い岩垣は名字のように岩のような男で、角張った顎は怒りで強く噛み締められていた。

 感情は捜査の邪魔になる。刑事はそういうものだ。怒りに任せれば冷静に物事が見えなくなる。客観的に物事を見なければならない。けれど、岩垣の中にある正義が、これは邪悪だと叫んでいる。頭の中で幼なじみが忠告する。きみは本当に名を体にしたようなやつだと。それじゃあ見えるものも見えなくなる、とも。幼馴染みの、あの不思議な琥珀色の瞳はいつだって何もかも見透かすのだ。


 三件目か、と岩垣は小さく小さく呟いた。

 これで三件目の殺人だった。


 所謂、連続殺人。シリアルキラー。日本では珍しい猟奇殺人の類いだった。

 欧米ではかの有名なジェフリー・ダーマーやエド・ゲインなど、人種性別年齢問わず、こうしたシリアルキラーが名を連ねているが、日本の猟奇殺人といえばその半分以下なのではないだろうか。実際に調べたことはないので分からないが、岩垣の感覚としてはそうだった。少なくとも刑事人生十年の中で、これは「異質」といえた。その異質さは、死体の腹が蝶の翅のように切り開かれているというだけではない。

 この犯人の犯行はいつだってあまりにも、ていねいだったからだ。

 ていねいにていねいに。

 うつしいおんなは解剖され、死に至っていた。


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