第10話 歌舞伎
安田が目を覚ました翌日、彼の心には少しばかりの余裕ができていた。昨日の自分を見直すことで、少しずつではあるが前を向けるようになった自分がいることを感じていた。それでも、日常が再び動き出すと、心の中でどこか重たく沈んだ部分も残っていた。
午後、仕事を終えてから、ふとした瞬間に伊東から電話がかかってきた。安田はその瞬間、少しだけ躊躇いながらも、受話器を取った。
「安田か?」伊東の声は、少し気だるそうだったが、どこか懐かしさも漂っていた。
「うん、元気か?」安田はいつものように返したが、心の中で少し緊張していた。
「元気だよ。でも、なんか最近考えることが多くてさ…。あの公園のこととか、赤井のこともあるけど、俺、なんか変なことしてる気がして」伊東の言葉に、安田は少し驚いた。「変なことって?」
「うーん…まあ、いいんだ。ちょっと考え直してるだけだよ。そうだ、安田。今度の週末、歌舞伎を観に行こうぜ。あの時みたいに、ちょっと古いものに触れてみようかなって。昔は意味がわからなかったけど、今なら少しは違って感じるかもしれない」
伊東の提案に、安田はしばらく黙っていた。歌舞伎?それは確かに学生時代に何度か行ったことがあったが、正直、深く理解したことはなかった。しかし、今の自分なら、少し違った視点でその世界を感じ取れるかもしれないという気がした。
「歌舞伎か…。面白いかもしれないな」
安田は答えた。
「じゃあ、来週末に行こうぜ。今度はちゃんと自分のこと、いろいろ考えながら観るつもりだから。安田も一緒に」
その日はあっという間に過ぎ、週末が訪れた。伊東と約束した歌舞伎の公演は、東京の老舗の劇場で行われるものだった。安田は久しぶりに足を運ぶことになったが、どこか期待と不安が入り混じった気持ちを抱えていた。
劇場に到着すると、そこは懐かしい雰囲気が漂っていた。昔は少し堅苦しく感じたが、今ではその重厚感が心地よく感じられる。座席に座ると、舞台に向かって開けられた空間に目を奪われる。安田は、ふと伊東の言葉を思い出した。「自分の過去を見直すために、古いものに触れるのもいいかもしれない」
舞台の幕が上がると、荘厳な音楽と共に、鮮やかな衣装を身にまとった役者たちが次々と登場した。観客席の空気が一瞬で張り詰める。豪華な舞台装置の背後に、灯りがぼんやりと照らす中、主人公が登場すると、拍手と共に歓声が響いた。
その主人公、若き義理堅い武士・
背後では、舞台のセットがゆっくりと動き、季節が進んでいく様子を表現するための精巧な仕掛けが動き出す。背景の山が次第に暗くなり、月が浮かび上がる。この一瞬の変化が、物語の進行と登場人物の運命の変化を象徴しているかのように、観客は目を離せない。
やがて忠信は、敵の本拠地に忍び込むシーンへと移る。緊迫した空気の中で、彼が一歩一歩踏みしめる足音が響く。俳優たちの表現は、歌舞伎独特の所作と音楽のリズムに乗って、観客を一気にその世界に引き込む。特に印象に残ったのは、主人公が抱える葛藤のシーンだった。彼は過去に犯した過ちを悔い、今まさにその「膿」に向き合おうとしている。彼の表情は痛みを伴うものであり、観ているこちらも胸が締めつけられるような感覚に襲われた。その時、安田はふと自分を重ね合わせていた。
「やっぱり、過去を正直に見つめることって、大事なんだ」安田は心の中で呟いた。
公演が終わると、伊東と一緒に劇場を後にした。二人は静かな歩道を歩きながら、感想を交わし合った。
「いや、やっぱり歌舞伎って深いな。昔は、何が面白いのか全然わからなかったけど、今はその一つ一つの動きに意味があるって感じた」
安田は満足そうに言った。
「だろ?俺もそう思った。あの主人公、最初は全然わからなかったけど、あの苦しみが俺たちにも通じる部分があるよね。やっぱり過去を乗り越えるためには、向き合うしかないって」
安田は少し黙って歩きながら、心の中で何かが変わったような気がした。歌舞伎を観て感じたこと、それはただの演劇ではなく、何か自分の心にも響くものがあった。過去の自分を悔やみ、向き合い、そして少しずつその「膿」を捨て去ること。それが、これから自分にとっての大切な一歩になるのだろう。
伊東と共に歩きながら、安田はふと思った。
歌舞伎って、ただのエンターテインメントじゃないんだ。深い人生の教訓を教えてくれるものなんだ。
その夜、安田は静かな自室で、再び少しだけ笑顔を浮かべながら眠りについた。
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