第39話 選択
リビングに戻れば、テーブルに突っ伏す春日の背中を、萩原が豪快に叩いていた。
「いいじゃないの、最高に可愛いわよ? あんたの幼少期。今じゃこんなにでっかくなったけど、小さい頃はおめめクリクリでほんっとーに可愛くて」
「それ以上言うたら二度と飯作ってやらん」
「えっ、そんな。京介の手料理美味しいのに。でもまぁ、これからは滅多に食べられなくなるからねえ」
萩原はわざとらしく泣き真似をした。「寂しくなるわぁ」などと呟いている。
楠木がふいに身を乗り出して、「では」と口を開いた。
「今回のお話、許可いただけるということで?」
「ええ、もちろんです。こんなにいい子なら、むしろこっちからお願いしたいくらいよ」
「それは良かった」
楠木は満足そうに頷いた。話が見えずにいぶかしんでいれば、にこやかに「珪」と呼ばれる。楠木がこの顔をしているのは、大抵、なにかしら企んでいる時である。
「なんだよ、うさんくせえ顔して」
「お前、もう少し相手へのあたりを柔らかくするといいと思うよ」
「お前はもう少し、そのうさんくささを隠して生活するといいと思うぞ」
「本当に一ノ瀬に似てきた」
眉尻を下げて笑った楠木は、手のひらを上向けると、春日と萩原を指し示した。
「たった今、俺は春日をヘッドハンティングする許可を得た」
「…………あ?」
「転職したあと、俺はたぶん忙殺されるし、家に帰れない日も出てくる。となると、お前が半分独り暮らし状態になる。あらゆる意味で心配すぎる。ある日突然どっかで死んでそう」
「あのな」
「そうならないように仕事セーブするつもりでいたけど、そこで春日から提案をもらった。『俺もそっち行って暮らしてええ?』」
楠木による春日の声まねは似ていなかったが、関西弁は嫌に正確なイントネーションだった。
「近くのアパート借りてバイトしながら生活するっていうから、俺は言ったんだ。それならいっそ嫁に来てほしいと」
「馬鹿か?」
「珪が言ったんだろ。嫁に来てほしいならおばさんにちゃんと挨拶に行けって」
「あれ本気だったのかよ……」
楠木は笑みを深めて「もちろん」と頷いてくる。
「そこでちゃんとご挨拶に行った。我が家の悲惨な食生活および最低限で回している家事、そして何より珪の手綱を握る役。春日が来てくれたら万事解決する。代わりに俺は春日がウチで暮らす家賃と生活費を全部持つ。そういう条件で、春日をスカウトしてもいいか、萩原さんにお伺いした」
珪の知らぬところで、随分といろいろな話が進んでいたらしい。
とはいえ、そんな話は春日からも聞いていない。ちらりと春日を見れば、肩をすくめながら小さく楠木を指さしていた。口止めされていたのかもしれない。
「萩原さんが、一度ちゃんと顔を合わせて判断したいって言うから、今日来てもらったんだよ。そしてお前も今聞いた通り、無事に許可をもらった。俺は今、春日をスカウトする権利を持ってる。珪がいつか独り暮らしをするなら尚のこと、春日が近くにいてくれれば、俺はすごく安心する」
唐突な説明を堂々と終えて、楠木は見下ろしてきた。
「そこで、聞きたい。珪。お前はどうしたい?」
「はあ? んなもん、お前が決めろよ。そいつが条件に納得してて、お前が必要だって判断するなら、スカウトすりゃいいんじゃねえの」
楠木が春日を勧誘したいというなら、春日の申し出は願ったりだっただろう。ここで珪に問うてくる意味がわからない。
そう思っての返事だったが、楠木は困ったように「違うよ」と言った。
「必要かどうかじゃなくて、お前がどうしたいか聞きたいんだよ」
予想だにしない質問に、面食らった。
「俺はさ、一ノ瀬が死んだとき、俺しか選べない状況にしておいて、そのくせ珪に選ばせたふりして、後見人になったよ。ずっと、お前にちゃんと選ばせてやれなかった。一ノ瀬と俺の都合でお前の人生引っ張り回して、お前が自分で選べた道なんてなかっただろ。俺が必要だって判断したからって、それだけで、お前は文句も言わずに全部受け入れてくれたけど」
君は、俺を選ぶ。
一分も疑っていない口調で言った楠木の言葉を覚えている。
あの時、珪に選べる道はひとつだった。楠木はそれを知った上で、それでも珪に選ばせた。あれが策略だったとしても、不満はない。楠木の用意してくれたたったひとつの道は、珪にとって、最善だった。
あんな些細なことを楠木は今まで気にしていたのだと、その方が、珪にとっては驚きだった。
懺悔のように言葉を並べて、楠木は穏やかな笑みで問うてきた。
「やっと、お前に選択肢をあげられる。自由に選ばせてやれる。珪は、どうしたい? 春日をスカウトするでも、俺との二人暮らしを継続するでも、何か別の形でも。お前が選んでいいよ」
ふと視界に入った春日が、真剣な顔で見つめてきていた。その膝に座る結衣までも、祈るように両手をぎゅっと握っている。萩原は優雅に頬杖をついて「お得よ? うちの京介。おばさんのオススメなんだけどな~?」とセールストークを忘れない。
珪は困惑したまま、楠木を見上げた。選んでいい、などと言われても、事情もよく飲み込めていないのに。
「……結衣はいいのかよ」
「ええよ! 珪と会われへんようになって毎日しけったおにいの顔見るくらいなら、好きなとこで楽しく過ごしてほしいやん! うちは新しい学校でええ男つかまえて青春謳歌するから、おにいおったら邪魔されそうやし」
「邪魔はせえへんけど、彼氏候補が出来たら付き合う前に一回おばさんに会わせえよ。おばさんの目にかなう奴以外は千切って捨てろ」
「ほらな」
即答した春日の膝の上で、結衣はおどけたように肩をすくめた。
「ずっとうちのこと心配してばっかで、自分のこと考える暇なんてなかったやん。やっと解放されて、自由になったんよ。やっと、おにいも、自分のやりたいこと出来る」
噛み締めるように言った結衣は、ぱっと笑顔を見せた。
「好きなことしてええよって言われたら、そらもう、おにいは珪のとこ行くわ。うちも行きたいけど、楠木先生に小学生の養育まで任せるわけにいかんやろ。そのへんはちゃんと分別ある小学生やねん、うち」
無駄に貫禄のある小学生である。
ひとまずその主張は受け取るとして、珪は春日に視線をやった。
「で、お前は?」
「好きなことしたらええって言うたの、お前やん」
「言ったけどよ……」
どいつもこいつも、こちらの言葉を全力で受け取りすぎではないだろうか。
地元に帰って家族と共に過ごせばいいものを、いきなり縁もゆかりもない土地に行こうなど。
「そもそも、こっちついてきて、どうすんだお前」
「俺も来年、大学行こうかと思って」
あっけらかんと、春日は言った。
「楠木が家賃も生活費もいらんて言うから、甘えさせてもろて、一年バイトでやりくりして受験料とか入学金とか貯めよ思て。学部はどこでもええけど、来年、珪と同じ大学行くわ」
「俺が行く大学、偏差値七十だぞ」
春日は顔を引き攣らせて「えっぐ」と唸った。
「いやでも、それ医学部の偏差値やろ? 俺医学部志望ちゃうし、同じ大学の、どっか偏差値低めの学部選ぶから。てことで、珪。俺の受験勉強、付き合うて」
「あ?」
「医学部行くくらいなら、俺ひとり合格させるくらい余裕やんな?」
「他力本願かてめえ」
「しゃーないやん。さすがに予備校通う金はないって」
あまりにも大雑把な見通しだった。
周到な春日にしては珍しい。
「計画が雑すぎんだろ。なんでいきなり大学だよ」
「ほかに思いつけへんもん」
春日は一度言葉を止めると、考えるように首を傾げた。
「なんや最近、ずっと気ぃ乗らんかってん。親父が消えて、ほんま清々しとるはずやねんけど、なんやろな。やることなくなって、俺何したらええんやろって思ってて」
今、糸が切れたら、春日はからっぽになる。
楠木の懸念は当たっていたらしい。本気で困った顔をして白状する春日に、何も言えずに珪は黙った。春日を立たせていた「やりがい」を奪ったのは、珪だ。
どこぞの大馬鹿な外科医は、どこぞの子どもに「好きなだけボーっとしてろ」とほざいたらしいが、高校を卒業した男がいつまでも自宅で放心しているのは、さすがにまずいだろう。
言葉に詰まった珪を見据えて、春日は「けど、」と笑って続けた。
「珪が、医学部行くとか、あまりにもありえへんこと言い出したから、目ぇ覚めた」
「ありえなくねぇだろ。順当で適切な進路選択だ」
「自分の言動顧みてからそういうこと言おうな。とにかく、俺がここでぼーっとしてたら、お前においてかれる。せっかく自由になったのに」
ようやく手に入れた「自由」をもって、春日が一番に望んだもの。
「ほんまに好きにしてええなら、俺は、珪がいい。将来とかそういうのは、まだよぉわからんけど、俺が、俺のために自由に時間を使ってええなら、まずは大学生になって、モラトリアム最大限利用して、思い切り時間の無駄遣いしてみたい。お前と」
春日は祈るようにそう言うと、パンと両手を打ち合わせた。
「だから、頼むわ。一緒に大学生になって、もうちょい俺に付き合うてくれん?」
既視感があった。
入院ベッドの上から拝んできた日も、そして今も、春日の祈りは変わらない。
流されるままに受け入れて飲み込もうとする珪とは違い、流れの中で精一杯手を伸ばしてくる春日の諦めの悪さが、ずっと、この縁を繋ぎ止めていた。
そして今も、春日は真っすぐに、珪に向けて手を伸ばしている。
その手を取るかどうか、選んでいいと、楠木は言った。
自分の人生を、進む道を、隣を歩く相手を、珪は、自分で選んでいい。
──これからは、自分で、選んでいい。
祈りの手を見返しながら、珪はゆっくりと、口を開いた。慣れない作業は嫌でも心拍数を上げてきて、それを誤魔化すように唇を舐めた。
最初から諦めていた。何かを望むことも選ぶことも、珪には縁のないことだった。諦めたまま、永遠に口に出す予定のなかった言葉が、いくつもあった。
いきなりそれらをさらけ出せと言われても、珪にはうまくできないけれど。
祈りも願いも、すべて春日が言葉にしてくれたから、今、珪が返すべきは、一言だった。
「……なら、一緒に来りゃいいんじゃねえの」
あくまでも素っ気なく、そう言った。
目を丸くして固まる春日の横で、萩原が歓声をあげて「宴よ!」と宣言し、同じく歓声を上げた結衣が跳ねるように寿司をテーブルに運んできた。冷蔵庫から冷えたビールが出され、萩原の音頭で乾杯となる。
「ええなあ、おにいばっかり! うちも遊びに行くから! 珪、うちとも遊んでな!」
「いいわねいいわね、おばさんも結衣と一緒に遊びに行っちゃう。美人を眺めるのって絶対美容と健康にいいわよ、間違いないわ」
「おにい、ちゃんとご迷惑にならんように暮らすんやで。ほらほら、しゃきっとしてよ。あかん、安心して腑抜けてる。この数日、断られたらどないしよって、ド緊張しててん、これでも」
「してへん」
妹からの赤裸々なリークに、春日は疲れたように言い返した。そのまま深々とため息をついて、ようやく寿司に手を伸ばしている。
「してたやーん。そわそわそわそわ、落ち着きないクマみたいに」
「結衣。いらん事言うなら、いくらは俺が食う」
「嘘や嘘、おにいいっつもめっちゃシュッとしててほんまかっこええよなぁ、自慢の兄」
「いいじゃないの京介、いい? 男ってのは、ちょっと抜けてたり弱かったりね、そういうところが大事なの。ギャップ萌えよ、覚えておきなさい」
賑やかに寿司を奪い合っている兄妹の横で、萩原は豪快にビールを飲みながらイカとタコを攻めていた。楠木とのふたり暮らしではありえないやかましさだが、悪くはなかった。
目を細めて白身魚を食べている楠木を、ちらりと見上げる。
「……だからお前、広い物件にしたんだな」
引っ越し先のマンションは3LDKだ。ふたり暮らしのくせに、部屋がみっつもあってどうするのかと思っていた。楠木の仕事部屋にでもするのかと納得していたが、楠木は最初から、三人暮らしを想定していた。
楠木はいたずらが成功した子どものような顔で、「うん」と笑った。
「珪は、こっちを選ぶって、わかってたから」
いつかも聞いたその台詞が、心地良く耳を撫でた。
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