シーモンキュラス

生地遊人

シーモンキュラス

 それは自宅ではなく職場に届いた。正確に言えば私はフリーランスなので、たまに書くウェブマガジンの編集部に、だ。


 宛名に名前があったために私は呼び出され、机の上の小ぶりな段ボール箱と対峙した。箱には横書きの筆文字で『イ堂』のロゴが印刷されている。これで『にんべんどう』と読む。



 イ堂は何屋と言えばいいのやら。老舗の古本屋の様な店構えをしているが棚の様相は駄菓子屋に近く、しかし陳列物の中に小遣い握りしめた小学生が垂涎する様な物は唯の一つもない。並べられた如何わしい品々つまり『ブルアワァ一五〇ミリネイルガン』だの『パラノーマルチャットFDR』だの『易占スロットウォッチ8』だの『燻煙タイプの結界くん』の缶やらが刺激するのは寧ろ、いるとすればだが私の記事の読者諸君の唾液腺ではないだろうか。

 イ堂の店主は極めて不可解な人物だったが姿を消して随分になる。最後に彼女を見た日は雪が降っていた。今は六月だ。



 さて、失踪中の店主からの荷物を開けるとぐしゃぐしゃに丸めた新聞紙が詰まっていた。緩衝材がわりのそれを取り除いていく。箱の底に達しようというその時、新聞紙に守られていた物の全体像より先に丸文字が目に飛び込んできた。


  『カッパ育成キット』


 正方形で掌に収まる緑色の薄い箱だ。蓋を留めているセロテープを爪で切って開けると、中には乾いた赤土のような粉が小さなビニール袋で二袋(見分けがつかない)と、折り畳まれた取り扱い説明書が収められていた。


  カッパの育て方


  用意するもの

 ○カッパのたまご(このキットに入っています)

 ○カッパのエサ(このキットに入っています)

 ○水そう


◎たまごをかえそう!

 ①水そうに水道水を入れます。

 ②約二十四〜四十八時間放置します。

 ③水そうを日のあたらない場所において、カッパのたまごを入れます。

 ④約十二時間後、カッパの赤ちゃんがうまれます。


◎カッパの赤ちゃんをお世話しよう!

 ①三〜五日に一度、耳かき一ぱいのエサをあげましょう。

 ②あげすぎに注意しましょう。

 ③水がへってきたら水道水を足しましょう。



 要するにシーモンキーのパロディらしい。



◎赤ちゃんに手足がはえてくるよ!

 ①一週間ほどで足がはえます。

 ②二週間ほどで手がはえます。


◎エサをかえてみよう!

 ①赤ちゃんの手足が生えそろったら、エサをかえてみましょう。

 ②カッパは食べたもので色がかわります。好きな色になるようにエサをえらびましょう。

 みどり・・・ピーマン、きゅうり、キャベツ、ゴーヤーなど

 きいろ・・・パプリカ(黄)、レモンの皮、かぼちゃ、さつまいもなど

 オレンジ・・・みかんの皮、にんじんなど

 あか・・・赤ピーマン、とうがらし、トマトなど

 しろ・・・だいこん、かぶ、ねぎなど

 むらさき・・・ぶどうの皮、むらさきキャベツなど

 ③エサをあげるときは小さくきざんであげましょう。


「ヒダノタクミ・・・」

 偶々居合わせて開封を見守っていた理図が呟いた。

 差出人は確かに片仮名で『ヒダノタクミ』とある。

「何方ですか?」

「送り主は麻幌ちゃんだよ」

「えっ?」

「ヒダノタクミっていうのは河童に掛けた彼女なりのジョークだね」


 飛騨の匠こと左甚五郎はその二つ名の通り飛騨(岐阜県)が輩出した腕のたつ大工だった。日光東照宮(栃木県)を初め多くの寺社を手掛けたというがその数余りに多く、また年代の幅も非常に広いので実在性は疑わしいと迄言われている。


 それでなぜ河童で甚五郎かというとこんな話があるからだ。

 甚五郎はある寺を建てる際足りない人手を補う為に藁で人を模ったものを働かせる事にした。息を吹き込まれた藁人形たちは動き出してテキパキと働き寺は無事完成する。用の済んだ藁人形を甚五郎が川に投げ捨てると人形たちは「これから何を食って生きたらいいのか」と尋ねたので甚五郎は「尻でも食え」と答えた。それで藁人形たちは人の尻子玉を食って生きる河童になった。


「河童が元は人形だった証拠に河童の両腕は胴体の中で繋がっていて引っ張ると片方に寄ってしまうんだとか」

 既に私の説明に興味を失っている理図は説明書に目を通しながらへぇと生返事をした。

「河童って飼えるんですかね?」

「甚五郎が働かせた人形は一種の式神とも解釈できる。安倍晴明が一条戻橋の下に飼っていた式神も水辺だし河童と定義できるかもね」

「水槽買ってきて下さいよ」


 私の顔も見ずに顎で使う様な物言いをする角子理図はここでの同僚というか同じくフリーの記者でいわば私の後輩にあたる。


 私は駅前の西友で小ぶりな水槽と理図に要求されたパック入りのサラダを購入し、オフィスに舞い戻った。

 駅から程近いこのマンションの一室には元来人がいる事の方が珍しい。不用心極まりない事に鍵はいつも共用エントランスのポストに入っており、実家暮らしの理図は毎日の様に勝手に上がり込み、空調を効かせてプライベートオフィスを気取っていた。おまけに今日は頼めばサラダが出てくるのだからいいご身分である。

 とりあえず水槽に水道水を張る。放置せよとあるので今日できるのはここ迄だ。頬張った水菜を唇の端から突き出したまま何やら難しい顔で固まっている理図に一声かけ、私はオフィスを後にした。


 遅めとはいえ理図が昼食をとっている位だから日が傾くにはまだ早かった。梅雨はとっくに明けたが、六月を夏と呼ぶのは少し違和感がある。



 翌日もオフィスに行くと理図がいた。私の顔を見るなりにんまりと、特徴的な前歯を見せる。

「待ってましたよ」

「まだ二十四時間経ってないよ」

「大丈夫ですよ。水槽小さいし」

 そう言いながら理図は既に卵の入った小袋を爪で弾いている。


「よしっ。入れますよ?」

 理図は小袋を破り、砂のような中身を水槽の水の中にあけた。沈みきらない粉末が浮いた水面を人差し指でくるくると掻き回す。

「こっから十二時間」

 私は何となく説明書に目を落とした。

「河童は式神だって言ってましたけど」

 ティッシュで指を拭きながら理図が言った。

「水の神様だったともいうらしいじゃないですか」

 もしかして昨日難しい顔をしてそんな事を調べていたのだろうか。

「河童のことをメドチとかミントゥチとかいう地域があるけどミヅチは水神のことだよ」

「水神ならやはりミツハノメかなと思うんですけど」

 また随分深くつついたらしい。

「日本書紀ではイザナミのおしっこからミツハノメ、うんこからはハニヤマヒメというのが生まれて、これは土とか肥料の神様なんですがどちらもトイレの神様でもあるらしくて」

 昔は水場で用を足したり糞尿を畑に撒いたりしていたのだから当然だ。

「河童がトイレの中から手を伸ばして尻子玉を抜くって話がありますよね」

「トイレの花子さんが実は河童だって説もある」

「尻子玉って何の事だと思います?」

「アナルに栓をするラムネのビー玉みたいな物っていうよね。河童の好物は尻子玉じゃなく生き肝という話もあるけど」

「私は何だか魂と関係あるように思うんですが」

「『たま』だし、抜かれたら死んでしまうというからね」


「というか」

 理図は水槽を指差した。

「このカッパって尻子玉ないし肝臓などを食べたりしませんか」

「餌は野菜でいいんじゃないの」

「そう、それも一寸思ったんですけど、あの、河童って結局胡瓜と尻子玉どっちが好物なんでしょう」

「パブリックイメージの話だからなあ。例えば馬に人参というけど、あれは馬だって人参がそこまで好きという訳ではないらしいよ」

「ではなぜ?」

「さあ。馬といえば、お盆飾りの馬って胡瓜じゃん。お盆は河童が出るから水に入るなというし、河童馬曳という話もある。関係ないかな」

「じゃあ馬刺しなんかの方が喜ぶんですかね。となると尻子玉のポジションは?」

「それだけど尻子玉と魂はやっぱり違うと思うな。それこそお盆なんて魂が皆して戻ってくるんだから食べ放題なのに生きた人を襲うっていうんだから」

「河童は生きるのに尻子玉の摂取が必須なのか、それとも嗜好品の類なのか。必須だとしたら冬は水に入る人がいなくなる。冬眠するんでしょうか」

「河童は秋になると山に入って毛深いヤマワロという妖怪に変わる、春にはまた川に降りて河童になるって話もある」

「なる程」

 理図は考え込む様に眉を顰め唇を尖らせてから、私の顔を見て言った。

「胡瓜とうんこって形が似てますよね」



 結局、私達はその晩オフィスに泊まってカッパの誕生を見届ける事になった。

「かっぱ寿司でかっぱ巻きですよ!」

 と燥ぐ理図には気の毒だが近所に回転寿司はなく、駅前のロータリーに面した富士そばに入った。私はわかめそば、理図は狐うどんを頼んだ。


 帰りがけに西友で酒とつまみとバスタオルを調達した。レジに並んでいると、理図が思い出した様に駆け出し、程なくパタパタと戻ってきて、満面の笑みで値引きのシールが貼り付けられたプラスチックのパックをカゴに放り込んだ。かっぱ巻きだった。

 オフィスに戻り、交代でシャワーを済ませた私たちは缶チューハイをあけ、ラップトップで二人で行った取材動画を見た。理図はいたって真面目な調子で私のカメラワークにああだこうだと文句をつけた。



 気がつくと明け方で、朝陽がカーテンの隙間から差し込んでいた。

 ソファの上で膝を抱いた理図が腕を真横に伸ばして私の肩を揺すっていた。クリアフレームの眼鏡が斜めにずれている。

 私は水槽に顔を向け、目頭を擦った。

「生まれてます?」

 理図が腑抜けた声で聞いた。何かに気づいた訳ではなくとりあえず目が覚めたので私を起こしただけらしい。

「どうだろう」

 私は水槽に顔を近づけた。

「さ、むっ」

 背後で理図がソファから立ち上がり、丸まった私の背中に手をついて乗り越えていった。カーテンを開く音がした。

 柔らかい光が部屋の中一杯に広がり、水の中の微細な塵の一つ一つを照らし出す。理図は私の隣まで戻ってきて、肩をぴたりとくっつけて水槽を覗き込む。眼鏡がアクリルにあたってコツンと音がした。

「どう!?」


 ゆったりと漂う塵に混じって懸命に体をくねらせているものがいた。

 白い、否半透明のイカの様に見えたが何ぶん小さく、結構激しく動いているので正確な形までは判別できない。

「一匹だけみたいですね」

 シーモンキーなら数匹いてもよさそうだが、水槽の中には他に動くものは見当たらなかった。

 私達は暫くの間カッパの稚魚(?)を見守った。


 理図はオフィスの鍵を持って帰ると言い出した。どうせ毎日来ているし理図の他には来る者がないのだから問題はない。



 翌朝は理図からのラインで起こされた。水槽の前でポーズをとる理図の自撮り写真と、

『今朝も元気です』

 というテキストだった。



 結局、私が再びオフィスを訪れたのは、

『明日は餌をあげる日ですから来てくださいね』

 とテキストが届いた翌日のことだった。


 久々に肉眼で見た稚魚は心なしか大きくなっている様だった。理図は私の目の前に耳かきを突き出した。

「はいどうぞ、最初はパパがお願いします」

「緊張するねえ」

 等と笑いながら、私は耳かきに掬った餌を注意深く運び、水面に落とした。粉末は水を含んでゆっくりと沈んでいき、やがて他の塵と見分けがつかなくなった。稚魚が食べているかはよく判らない。


「そうだ名前。訊こうと思ってたんですよ。この子の名前どうするんですか?」


 そこから、カッパに相応しい名前とは何かという議論になった。

 カワタロー、ガタローでは『カッパ』と呼んでいるのと同じだとか、名のある河童には九千坊や袈裟坊というのがいるからどうのとか、そんな事を言ったら人間の子だから〇〇ザエモン等と名付ける時代では最早ないとか『三平』では安直だとか『シリコ』では小学校で虐められそうだ『コダマ』では別の妖怪になってしまうとまあ揉めに揉めた挙句、結局胡瓜の学名からとって『ククミちゃん』に落ち着いた。



 ククミちゃんは驚くべき速さで成長した。

 孵化した時は五ミリ程だったのが一週間で三センチ位になり、細長い魚の様だった体は丸々と太ってきた。体は無色透明で頭の中身が水饅頭の餡の様に透けている。ウーパールーパーに似た外鰓が頭部をぐるりと一周して王冠みたいに見える。


 二週目に入ってまもなく後ろ足が生え、三週目に入る頃には体長五センチを超え、手足が生え揃っていた。丁度小瓶の中の餌も底を尽きた。私達は既に、やはり胡瓜をあげるべきだと結論していた。

 とりあえず体の大きさを鑑みて二センチ程の胡瓜を更に細かく微塵切りにして与えてみるとククミちゃんはゆっくりと落ちてくる胡瓜の欠片を生えたばかりの両手を使って口に押し込みあっという間に平らげてしまった。翌日には両足の間から緑色の紐みたいな糞をぶら下げていた。


 ククミちゃんは与えた分だけ食べ、その分大きくなった。胡瓜の量はどんどん増えていき、微塵切りが角切りになった。十センチ程になったククミちゃんは長い尻尾を巧みにくねらせて小さな水槽の中を縦横に泳ぎ回り、体には葉緑素がすっかり行き渡った。

「一寸人間ぽくなってきましたよね」

 理図が言った。

「私達、何だか神の領域に足を踏み入れている感じが」

「確かにホムンクルスみが、ね」

「ホムンクルスって何でしたっけ?」

「錬金術師が作りだす人造人間のことだよ。フラスコの中でしか生きられない」

「ククミちゃんみたい」

「ホムンクルスは人の精液から作られる。当時は生命の種というのが精子の中にあり、母体にはそれを温めて育てる機能しかない、だったら人工的に温めたって同じなんじゃないかと考えた」

「フェミじゃなくても女は怒りますよ」

「僕が言ったんじゃなくて・・・」

「ククミちゃんはホムンクルスだったのかな?」

 理図は水槽を指でつつき乍ら猫なで声で呟いた。



 説明書には続きがあった。


◎りくちをつくろう!

 ①カッパのからだが大きくなってきたら、水そうの水をへらして砂や石などでりくちをつくってあげましょう。

 ②カッパは大きくなると肺こきゅうをはじめます。りくちに上がれないとおぼれてしまいます。注意してください。


 何とも曖昧な書き方だがククミちゃんが溺死しては可哀想だ。この機会に大きめの水槽に買い直し、砂を敷き詰めて水を張り、水草を植えて大きな石が水面から出る様にした。ククミちゃんをそちらに移すと、浅い水の中を這う様に泳ぎ始めた。



 変化はまもなく訪れた。長かったククミちゃんの尻尾が尻に吸収されてぴょこんと突き出る程度にまで小さくなった。体長は二十センチに達し、優雅に泳ぎ回っていた頃が嘘の様に体の各部には肉がついた。額が張り出し手足はムチムチとしてきた。やがてククミちゃんは自ら石の上に這いあがるようになった。肺呼吸に移行したのだ。私達は赤ちゃんが初めて這い這いをした時の様に喜び、理図は写真を撮り乍ら泣いてすらいた。


 ククミちゃんは一日の殆どを水の中で過ごし、時々思い出した様に水面に顔を出して息をした。私や理図が水槽に近づくと決まってアクリルの壁を伝って後ろ足で立ち上がる。とても可愛い。

 今や大量の胡瓜を食べるククミちゃんは糞の量もそれなりだ。今では二日に一度の水換えの間テーブルの上で遊ぶのがお決まりだった。ホムンクルスの定義からは外れたが、皮肉なことにククミちゃんの姿は日に日に人間に近づいていた。今まで見当たらなかった鼻や耳の様な突起まで形成され始め、私や理図には可愛くて仕方がないが、客観的に言って今のククミちゃんは不気味の谷を彷徨っている。



 気づけば八月だった。


 口には出さなかったが、理図が以前言っていたことが気になり始めていた。ククミちゃんはいつか尻子玉、或いは同じ位物騒な物を求める様になるだろうか。



 オフィスの鍵は閉まっていた。珍しく理図はまだ来ていなかった。念のためポストを見るとチラシに埋もれた茶封筒を見つけた。私宛てだが住所も消印もなく直接放り込まれたらしい。


 理図は毎朝ポストを確認しているだろうか。一体いつからこの封筒はここにあったのだろう。


 私は理図に連絡を入れ、マクドナルドで封筒の中身を取り出した。見るからに切れ端と判る紙にボールペンで書かれている。



 コイズミくん

 この手紙を読んでいるという事は私は既にこの世にいないでしょう

 お久しぶりですね

 余り気を落とさないでと言いたい処ですが貴方の事なので何が起きているのかさっぱり見当もついてないでしょうと思います

 カッパは元気に育っていますか

 一度その子を連れてイ堂にも遊びに行ってあげて下さい

 鍵はこの手紙と一緒に預けてありますから大丈夫ですよ まほろ



 間違いようもないイ堂店主の筆跡だった。


 私は封筒を逆さにして確認したが鍵はなかった。同封したという事ではなく、封筒をポストに入れた人物に託したという意味だろうか。


 一時間後、理図と駅前で落ち合い、手紙を見せ、イ堂に向かう事になった。

 稚魚の頃に使っていた小さな水槽に水とククミちゃんを入れ、段ボール箱で隠して運んだ。



 イ堂のガラス戸の向こうには大きなイの字が白く染め抜かれた濃紺の暖簾が垂れて室内を隠していた。理図は半年開ける者のなかった戸に手をかけた。

「開いてます」


 薄暗い室内は外よりも涼しく、汗で濡れた首筋には肌寒い位だった。古い木の懐かしい匂いがした。ここは最後に訪れた冬の日の儘だ。

 私達は棚の間を進み、店主の定位置だった机の上に水槽を置いた。


「何ですか、これ」

 机の上にはディスプレイが一体化されていなかった頃のワープロのようなキーボードが置かれていた。机と本体の隙間から伸びた金属製の細長いアームが関節部で折れ曲がり、その先端には三日月型のプラスチックパーツがついている。

「電子ウィジャボード」

 要は自動機械化されたコックリさんだ。私はポケットから十円玉を取り出し、三日月に嵌め込んだ。

 何も起こらない。

「何に使うんですか?」

「だから・・・」

 答えかけた瞬間アームが独りでに大きく動いて十円玉が振り下ろされ、キーをタイプし始めた。同時にジ〜と言う音がして装置の上の方にあいたスリットがレシート用紙を吐き出す。内蔵されたサーマルプリンターによってギザギザした黒文字が印字されていた。


A. いらっしゃい


 麻幌がリサイクルショップのガラクタを寄せ集めて自作し『パラノーマルチャットFDR』と名付けたこの電子ウィジャボードはどんな仕組みなのかさっぱりだが、Q. のコマンドに続いて質問を入力すればコックリさん宜しく自動筆記で答えてくれる。


 私は恐る恐るキーボードを叩いた。


Q. おじゃましてます


 私のタイプが終わるのを待たずにアームが動き出した。


A. いえいえ


「どこかと通信してるんですか?」

「どうだろう」

「どうだろうって、会話になってるじゃないですか」

 そういうものだからとしか言えない。


A. れいぞうこのなかに IDじぇむ が はいってる


 私達は顔を見合わせた。


 店の奥の古い小さな冷蔵庫は、目当ての物を除けば空っぽだった。蓋が青く丸いタッパーに透明な液体が満たされ、中に沈んだ球状の物を楕円に歪めて見せていた。冷蔵庫から出すとすぐに容器は汗をかき始めた。

 『IDジェム』は半透明の琥珀色でぼんやりと光っているように見えた。


Q. もってきました


 私はタイプした。


A. ありがとう


 電子ウィジャボードが答えた。


A. じぇむ を くくみちゃんにたべさせて


「待って、そのあとどうなるのか、先に訊いてください」

「今はいう通りにしよう」

 私はタッパーの蓋を開けて中の液体(ただの水らしい)をククミちゃんの水槽に溢す様にして『IDジェム』を掌に載せた。


 ククミちゃんは水掻きのある小さな手を伸ばして私の指を握り、立ち上がって『ジェム』を見つめた。そして両手でそれを掴み、一杯に開いた口に押し込んだ。電子ウィジャボードが鳴いた。


A. あ

A. あといいわすれたけどくくみちゃんをゆ

A. かにおいたほうがいいかも


「床?」

 私は水槽に両手を突っ込み、ククミちゃんの体を掴んでもちあげた。その瞬間ククミちゃんの体は水を容れた風船の様に膨らみ、私の両手に感じる重さがずんと増えた。

 私は慌ててククミちゃんを水槽から出し、狭い放物線を描いて床の上に置いた。既にククミちゃんの体は二歳児くらいの大きさだ。ククミちゃんの体が分泌する透明な粘液が糸を引いた。


 ククミちゃんは尚も膨れ続けた。床の上に粘液の水溜まりができた。手足はどんどん伸び、人間の成長を早送りで見ている様だった。


 ククミちゃんはみるみる一メートルを超え、外鰓だった突起は私達の目の前でゆっくりと頭部に吸収された。餃子みたいな手から一本一本の指がはっきりと分かれた。やがて膨張を終えた半透明の体は徐々に濁り始め、初めは白っぽく、次にクリーム色に、そして見覚えのある褐色へ、ゆっくりと変化した。粘液で濡れた頭部に張りつく様に髪の毛が現れていた。


 イ堂の焦げた様に黒い板張りの床の上をゆっくりと広がり続ける大きな水溜まりの真ん中で、華奢な膝を折り、肋の浮き出た褐色の背中を丸めて丸く横たわっているのはこの店の主、神奈備麻幌だった。



「お久しぶり」

 棚にもたれて両膝を抱えながら、裸のままの麻幌が言った。

「小泉さん、コーヒー沸かしてくれない?」

「私がやります」

 理図はそう言って店の奥に姿を消した。麻幌はじっと私の顔を見ていた。


「君はククミちゃんだったの?」

 再会してからの第一声が、何だかとても間抜けな質問になってしまった。

「ククミちゃん?」

 麻幌はすっ惚けた顔で訊き返した。

「可愛がってくれたみたいだね」

「うん」

「私はククミちゃんだけどククミちゃんは私ではないよ」

 そうだ。訊こうとしていたのはそういう事だった。

「つまりカッパは『尻子玉』を食べると人間になるって、そういう事なの?」

「試す価値はあったでしょ?」

「あの『ジェム』は・・・」

「そんな事はどうでもいい。私に会えて嬉しくないの?」

「嬉しいよ」

 びっくりしすぎて嬉しいも悲しいもない。私はただ反射的に答えてしまっただけの自分に気づいて言葉が続かなかった。


「いつの粉だか判らないけど・・・」

 理図が沈黙の中に突入してきた。翡翠色のファイヤーキングから湯気が上がっている。

「有難う」

 麻幌はマグを受け取りふうふうと吹いてからコーヒーを啜った。

「うん」

 麻幌はゆっくりと瞬きしながら理図を見て微笑んだ。

「大丈夫」

 理図は笑った。

「あの〜」

 と言い乍ら理図は粘液に濡れていない床を探して腰を下ろした。

「全然理解が追いつかないんですが」



 こんにち式神というのは不可視の霊だと考えられているが、安倍晴明が使役したそれは全く異なる、言ってみれば準生命とでも呼ぶべき存在だった。その起源は少なくとも飛鳥時代に遡る。創り出したのは修験道の開祖である役行者だともいう。


 水と土から生み出されるそれは人間によく似た姿へと成長するが、生命の本質たる魂を持たない。

 だがもしその式神が魂を得たなら。それは人間となるのだろうか。例えば死の床にある者の魂を式神という器に移すことができたとしたら?


「泰山府君祭という奴か」

「何ですか?」

「死んだ人を生き返らせる事もできたという陰陽道の究極奥義みたいな物」


 麻幌は何も答えずに白い歯を覗かせて笑っていた。



 私達は腹が減って仕方がないという彼女をシャワーに放り込み、服を着せて商店街に繰り出した。

 日はとっぷりと暮れていた。麻幌はラーメン屋で大盛りのチャーシュー麺に煮卵までトッピングしたのと炒飯一人前をぺろりと平らげた。私と理図はこの半年間の事を話し、取材動画を見せ、酔った麻幌はゲラゲラと大笑いした。店を出てからもまだ笑い続けていたが、急に電信柱に駆け寄って、さっき飲み食いした物を全て吐いた。



 私はうんうん唸る麻幌をおぶってイ堂へ戻り、奥の和室に布団を敷いて寝かせた。

 理図は終電で帰ったが私はイ堂に泊まる事にして布団の脇でごわごわした毛布を被った。

 天井板の染みを眺めながら私はククミちゃんの事を思い出そうとした。



 眩しさと灼かれるような熱を頬に感じて目を開けると、和室の障子が開け放たれて縁側に降り注ぐ陽光が畳にまで侵食してきていた。麻幌が寝ていた処にはよれた布団だけが残されていた。庭先で蝉が鳴き始めた。目の脇に違和感を感じて擦ると干からびた物がぽろぽろと落ちた。


 麻幌はいつもの定位置に座って読書をしていた。スーパーにでも行ってきたらしい。レジ袋がバランスを崩して買った品を机の上に吐き出していた。麻幌は手元に置いた何かを抓みあげて口に放り込み、バリボリと音をたてて噛み砕いた。

 麻幌が私に気づいて顔をあげ、時が止まった様にじっと私を見つめた。彼女が食べている物が目に入った。麻幌は咀嚼を再開し、読みかけの本に目を落とした。


 私は自分の顔がほんの少しだけ綻んでいる事に気づいたが、大きな欠伸がそれをかき消した。

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