26話 名前

* * *


氷牙ヒョウガ?」


 聞き馴染みのない言葉だった。何を指す名前かも分からず首を傾げてみても、特にカンナビからは返答がなかった。

 彼女は薄暗い廊下を見つめながら、ほんの少し眉間に皺を寄せている。何か気掛かりなことでもあるのだろうか。


「カンナビ?」


「あ、ううん、なんでもない。」


 そう言葉にしつつも、彼女の視線は廊下の先に釘付けだった。

 そう返されてしまえば、それ以上の追求はできなかった。


「オレ先戻んで。」


 流れを変えたのはサグジだった。スタスタと草履を履いた足を鳴らしながら、履き物を揃えないまま部屋に上がり込んだ。


「……あの、よかったら、リクくんも上がってく?」


 カンナビはいつもの無表情だったが、その瞳にはほんのわずか、何かに期待するようなハイライトが宿っている。


「いや、俺は。」


 俺は咄嗟にポケットに突っ込んであったスマホを取り出した。時刻を確認すると、低電力モードで暗い画面に20:35という数字が浮かんでいる。

 今日はバイト先を探して、ヤマツミの店に寄って、おなつにボコられて、今に至る。盛りだくさんの一日だった。

 流石の母も心配しているだろうと、メッセージアプリを開くと、


「もう寝る。」


 と、一言、温度のない報告があるだけだった。

 今でこそ慣れたが、「もう」と「寝る」の間に「ごはんを作る気力がないので」が省略されており、メッセージを全文記す元気もないということだった。

 帰宅しても晩ご飯がないことにため息を吐いた。作ろうと思えば作れるが、今日は俺にもそんな体力はなかった。

 コンビニに行こうと思っても、とても今から歩ける距離ではない。


「さすがに遅いよね。ごめん。」


「あ、いや、そんなことは。」


「そう。」


 ——で、どうしよう。


 本音を言うとカンナビの家にお邪魔して夜ご飯もご馳走になりたい。

 けれども、カンナビには昼にお弁当を作ってもらっている。夜までお世話になって、サグジの分の食料を減らすわけにもいかない。

 さすがに遠慮が勝った俺は、カンナビ家を後にしようとして、


 ——ぐぅ。


「身体は正直?」


「……変な言葉覚えんな。」


 * * *


「ご飯、まだあるからね。」


「おう。」


 三人でちゃぶ台を囲んで座っても広く感じる和室には、香ばしい醤油の匂いが満ちている。

 高級感のある紺色の陶器でできた茶碗には、艶やかで食欲をそそる甘い香りの白ごはんがこれでもかというほどに盛られている。

 温め直してくれた味噌汁にはわずかにとろみがあり、口当たりの良い白味噌を使っていた。

 体が冷えていたのか、芯から温まる感覚にほっと一息ついた。この村は東京とは違い、梅雨とはいえ日が沈むとかなり冷える。ワイシャツ一枚で行動していると、少し肌寒いくらいだ。


「あったまるな。」


「それは良かった。」


「もっと熱うてもええな。」


 音を立てて味噌汁を啜るサグジが不満を漏らしている。しかめっつらとリンクするように、両耳が若干元気をなくしていた。


「振る舞ってもらって文句言うなよ。」


「事実やろ。たこ焼きと味噌汁はぬるかったらあかんて教科書にも載っとる。」


「載ってない。お前の常識押し付けるなよ。」


「なんや、やけにポンコツに甘いやん。」


「そんなことは。」


 ないとも言い切れなかった。それは彼女の境遇を知ったからか、俺自身が女子と話す機会が少なく、接し方に迷いがあるからかはわからないが、まあ、厳しくはない、な。

 カンナビを一瞥すると僅かに顔を赤くして俯いていた。カミサマに対する無礼で怒らせてしまったかと一瞬不安になったが、ふと目が合うと、何も言わずに目線を逸らされてしまった。

 怒っているわけではなさそうで安心したが、その様子から彼女の考えていることはわからなかった。

 カンナビは深呼吸すると、ふと顔を筋肉を緩めた。


「どうした、カンナビ。」


 いつも喜怒哀楽のどれにも当てはまらない「無」を体現したかのような表情のカンナビの顔が、ほんの少し綻んでいる。

 玄関先で見せたあの表情と同じだった。口の端にほんの少し力を入れただけの笑顔。カンナビと話すようになって数日だが、そんな表情は珍しい気がした。


「こんなふうに男の子と話すの初めてで。仲良くなれそうな人も、急に避けるようになったこともあったから。」


 食事中はカンナビよりサグジとばかり話している気がするが、それでもどこか嬉しそうだった。

 カンナビは、本人が直接行動を起こさなくても、男子が黙っていなさそうな容姿をしている。オカルト娘なことを差し引いても、申し分ない。

 それもこれも彼女と関わって、至近距離で表情を見ようとしない限りわからないことではあるが。


「なんでだろうな。」


「やっぱり、私が視えちゃうから怖いんだと思う。仕方ないよね。」


 カンナビの箸を持つ手が止まっている。茶碗を持つ左手は力が入っているのか、血が止まるように指先が白く変化していた。


「そんな理由で離れて行く奴ら、友達にならなくて正解だな。」


 唐揚げを一つ口に運ぶ。冷めていても衣はサクサクしていた。


「リクくんは、私のこと変とか怖いとか思わないの?」


「それは。」


 第一印象、電波少女。神をはじめとする超常的なモノは一切信用していなかった。俺も視えるようにならなければ、カンナビから離れていった有象無象の一人だっただろう。

 よく知ろうとせず、決めつけていたことを思い出してばつが悪くなった。


「カンナビが何考えてるかはちょっと分かりづらい、とは思う。」


「そっか。」


 正面に座るカンナビと目が合わなくなった。サグジのような耳が生えていたら、きっとしゅんと前に垂れているのだろう。


「確かに普通の人は妖異も見えないし、カンナビの事情を知っているやつもいない、気がするから、みんな近寄りがたいのはあるかもな。」


 実際、同級生のカンナビに対する接し方はどこかぎこちない。

 サグジが学校に侵入したときだって、カンナビには冷たい視線が向けられ、教室には乾いた笑い声が響いていた。


「でも、カンナビを知れば知るほど、案外抜けてるとことか、料理が得意なとことか、泣き虫なところとか、そういう一面がやっと見える。だから、今は変だとも思わないし、怖くもない。」


 言葉を選んだつもりだ。腹を割って話してみれば、カンナビは思ったより天然で、変なところでこだわりが強くて、笑うのが下手で、それでも可愛い、普通の女の子だ。

 育ってきた環境は特殊かもしれないが、彼女だって普通に同じ歳だけ生きてきた高校生。それなのに、そんな当たり前をみんなが理解しているとは思い難かった。

 俺だって、祠に触らなければ彼女のことを知ろうとはしなかった。感謝をするつもりは毛頭ないが、こうしてできた縁に関しては大事にしたいと思った。


「……。」


 カンナビの目が潤んでいる。先ほどより顔全体が紅くなっていた。カンナビは箸を置いて両手で風を送るように仰いだ。


「リクくん、私の周りに妖異いない?」


「カンナビの周り? いない、けど。」


「本当? 急に身体が熱くて、心臓の音がうるさいの。」


「え?」


 何か瘴気に当てられているなら一刻も早く原因を見つけ出さなければならなかったが、辺りを見回しても、それらしい妖異は見当たらなかった。


「うへ、落雁かいな。」


 口を挟んだサグジは下を出して苦虫を噛み潰したような顔をしている。

 落雁ってなんだったっけ。

 そんなことを考えていると、


「ちゅーか、なんで自分未だに苗字呼びなん。」


 サグジは箸の先を俺に向けた。


「女子を下の名前で呼ぶなんて、彼氏しかしないだろ。」


「その距離感で、その甘さで、何言うとん。」


「カンナビだってそんなに馴れ馴れしいの嫌だろ。」


 意見に同意を求めるように会話を振った。カンナビは下を向いたまま小さな声で答えた。


「……いい。」


「へ?」


「私は、下の名前の方が、好き。」


 神奈備家。代々三柱の神に仕え、村を守る使命が与えられた一族。

 そんな責任を高校生が背負うには重すぎる。使命から逃げ出したくて仕方ないのは想像できる。できたはずだ。

 そんな彼女を苗字で呼ぶのはどれだけ酷なことか、少し考えればわかることだった。


 それなのに自分の体裁を気にして、距離が近いように思われたら嫌だろうと彼女のせいにして、それを言い訳にどこか線を引いていた。


「ごめん。」


「……なんで?」


のことわかった気になってたから。」


「……私も。」


 ライカは火照る頬を両手で覆いながら上目遣いで言葉を紡いだ。


「私は、リクくんに言われて、確かにそうだなって思って、ちょっとだけわがままになってみようと思えた。ありがと。」


 感謝されるようなことを言った覚えはないが、ライカにとって何かきっかけになったのなら良かった。


 俺とライカの間に流れる柔らかな空気は、サグジが「換気!」と称して窓を開けたことで断ち切られた。

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