兎月刻未は満たされたい
幼縁会
第1話
「如何に技と体あれど、心なき刃に意味はないぞ」
心中に穿たれし棘を引き抜くべく、少女は今日も夜闇を彷徨う。
「まいねーむいず
どこかふざけた口調で完全にふざけた内容を口走り、少女は背に携えた竹刀の切先を獲物へと注ぐ。
刃を突きつけられた少年は突然の出来事に面食らいつつ、周囲を見渡した。本当に自分のことを指しているのか、実は学校帰りの自分以外にもトンネル内に人がいるのではないかと、淡い幻想を抱きながら。
しかし、羽虫が引き寄せられた照明が照らし出すは二人のみ。
即ち。
「ゆーあーですよ、鰐口。剣道部の誇るえーす」
「どうやら、そのようだな……」
観念したのか、鰐口と呼ばれた少年はバッグを地面に置くと携帯していた竹刀を取り出す。
令和の時代に辻斬りなど時代錯誤も甚だしい。
緩慢な動きには兎月と名乗る人物への呆れと内心が感じ取れた。
尤も、兎耳の生えたパーカーを被った少女にとって彼の抱く感情など些事に過ぎない。気怠げな赤の眼差しは、握り締められた得物を前にして俄かに輝く。
「勝負の合図は次の電車の通過音。鳴った瞬間としましょうか」
「あんなので合わせるつもりか?」
「細かな部分はふぁじーですが、ま、のっと問題ということで」
「……とことんふざけてんな」
鰐口の語気に棘を感じるも、強いというだけで理不尽な憂き目に合っている彼には当然の権利であろう。
兎月はスプレーで刀身を漆黒に塗装し、柄に馬の頭蓋骨を模した模型を取りつけた愛刀──黒十字丸を一撫でした。次いで、腰を落として両足に力を溜める。
肉食動物が獲物へ飛びつく直前の如く。
四季の危機が騒がれて久しい昨今。黄金が去って久しい五月といえども、夜にもなれば吐き出す吐息に白が混じる。ましてや、地区大会準優勝への立役者を相手にすれば高揚も当然のこと。
開戦の時を今か今かと待ち侘び、一が十にも百にも引き延ばされる中。
仕事終わりの会社員を乗せた電車が、寒暖差を考慮して余裕を持たせたレールを揺らす。
「すたーと!」
歓喜を全身で体現し、兎月は十メートルはあろう彼我の距離を一跳びで詰めた。
弾丸を思わせる急接近は面食らってしまえば瞬く間に飲み込まれ、一太刀の下で決着をつけかねない。
が、斯様な慢心を胸に抱いて地区大会を勝ち抜ける道理など皆無。
「胴ッ」
「ッ。いい、手応え!」
勢いのままに通過した竹刀が打ちつけた先は、移動先を読んで置かれた横薙ぎの竹刀。手首に伝わる悲鳴染みた痺れも肉ではなく、より硬質な存在を告げていた。
とはいえ、兎月の身体は鰐口の後方で着地を果たしている。得物の間合い外であれば、振り向くまでの間に見合うことも悠々と叶った。
少年は異様な跳躍量を前にしても動じることなく、少女を視界に収めると上段の構えを堅持する。
大樹を彷彿とさせる堂々とした姿勢は、なるほど剣の道に相応しい。
兎耳のパーカーを折り曲げ、少女は再度跳躍の姿勢を取る。
「流石は地区大会準優勝。ばとる慣れしてます」
「剣道の試合でこんなものがあって堪るか」
「そーりー、とは言いません。言わせたければ……うぃんすることです!」
地面から弾け、兎月は再び急速に距離を詰めた。
「面ッ」
全体重に加速を乗せた横薙ぎの一閃はしかし、少年の振り下ろす剛剣の前に激しい音を反響させるに留まる。
慮外の重さが成せる業か。弾丸の如き加速は叩き落とされ、少女は剣の間合いでの着地を余儀なくされる。逐一跳躍のために距離を取られては攻勢に出る機会も乏しい、絶好の好機に鰐口は返しの振り上げを選択した。
小柄な体躯は身を逸らして直撃を避けるものの、空を割く竹刀の切先が額を掠める。
「つッ、すっごい痛い!」
「防具もなければそうなろう。降伏しろッ」
何歩か跳び退き、距離を取った兎月の額からは並々と血が滴る。衝撃で外れたパーカーの下から漏れ出た桜色のショートヘアと幼い少女の顔立ちに面食らった鰐口もまた、彼女の慮った言葉を告げた。
彼に不幸があるとすれば、対面が錯誤しているのが生まれる時代であること。
少女は額に手を当てると、まるで妖刀に血を啜らせるが如く刀身を一撫でした。生き血を上塗りされ、黒地に赤という不気味極まる色合いを帯びた黒十字丸の切先が怯え後退る少年を捉える。
「残の念ですが、これはのっと公式大会ですので。いえ、のっと気に病むですかね。とにかく、私の過失で土下座にはまだ早い……!」
無表情のまま声色だけが激しい抑揚を告げる。
そして三度目の突貫を成すべく、再び身を深く沈めた。
少年も言葉での説得は無理と切り捨て、柄を強く握り締める。
直後に飢えた獣が再度跳びかかった。
地面を滑るかのような低高度の突撃は、重厚な防具を纏う剣道の試合ではあり得ない軌道。故に少年も切り出す手札に拱き、兎月の見目も相まって判断が遅れた。
時間にして一瞬の逡巡に過ぎないが、瞬間的に三〇〇キロもの速度で切り結ぶ反射の世界に於いては重鈍と呼ばざるを得ない。
「づッ!」
脛を抉る一撃に鰐口は姿勢を崩す。
全身を駆け抜ける激痛は竹刀を取りこぼさせ、背後に回った凶刃への対応を遅らせる。
致命的な隙を晒した末路は、意識を刈り取る横薙ぎの一閃。
「……」
少年の躯体が崩れ落ち、トンネルに乾いた音が残響する。
一方で振り抜いた姿勢のまま時を止めた少女は、赤い眼差しを右手へと注いでいた。
掌に伝わる骨肉の感触、昏い愉悦を全身に染み渡らせるように。
やがて満足したのか、姿勢を戻すと視線を足元に転がる鰐口へと向ける。次いで、未だ血の付着した左手を頬へ添えると、口端を吊り上げるべく押し上げた。
「油断大敵。私に一撃加えるなんて大したもんなんですから、降伏なんて許さず痛めつければ良かったのに」
鰐口の逡巡には、歳の近い少女へ刃を振るう葛藤が垣間見えた。
男として素晴らしい美点であることは兎月も否定しないものの、結果として自分が地に伏してしまえば無意味極まる。ましてや彼は襲われ、相手を思いやる必要は微塵もない立場だったのだから。
『如何に技と体あれど、心なき刃に意味はないぞ』
「……剣術なんて相手をボコってなんぼじゃないですか」
いつか指摘された言葉が脳裏を残響する中、兎月は切り捨てるように吐き出す。
漏れ出た寂寞の念に、生まれる時代を間違えた後悔を添えて。
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