夜の契約

驢垂 葉榕

第1話

 ある夜、男は夢を見た。不思議な夢だった。自分の手も見えないような夜闇の中に立っている夢だった。闇の中、すぐ後ろから足音がした。驚いて振り返るが何も見えない。

 「失礼、驚かせるつもりはなかったのです。私はしがない、旧い、霊のようなもの。見かけたあなたが随分と憔悴しているように見えて、失礼を承知で夢にお邪魔しました。これもきっと何かの縁です。お力になり、苦しみを和らげられるかもしれません。あなたが何にそんなにも苦しんでいるのか、私でよければ話してはくれませんか?」

 穏やかな、老紳士といったふうな声だった。男はぽつぽつと語りだした。

 「学校へ行くのが、辛いんです。今通っているのはずっと目標にしていた学校で、受かった時は嬉しかった。でも背伸びをしてやっと入った場所は、ずっと背伸びをし続けなければいけない場所だった。今のままはどうしようもなく辛いのに、ここに背を向けることは今までの人生に背を向けることでそれも辛い。苦しい。きっとこんなこと誰にも言うべきじゃあないんでしょう。でも、少しでも、少しでも変わることがあるのなら、どうにかできませんか?」

 何かが応える。

 「......正直なことを言えば、私にそれを解決することはできないでしょう。向き合うことも背を向けることも苦しいならどんな選択をしたとしても後悔に苛まれることになってしまうでしょうから。代わりと言ってはなんですがあなたがその痛みに区切りをつけるまで代わって差し上げることはできるかもしれません。あなたがもう辛くなくなったというその時まで代わって差し上げましょう」

 男はいくらかの思案の後、静かにうなづいた。意識が離れていく。


 目が覚める。朝が来た。普段と何一つ変わらない、憂鬱な、灰色の朝だった。夢の中で契約のようなものを結んだような気がしたが、夢の内容など日常のせわしなさの中に埋もれてしまってどうにも思い出せない。結局いつも通りの朝を、いつも通りにこなして、いつも通りに家を出た、はずだった。扉を開けた瞬間、男はドアに向かって立っていた。

 日は西に傾き、夜が近づいていた。時計を確認すると、もう少しで星も出るような時間だった。男はここに至って初めて昨夜の夢を思い出した。本当にあれは学校に行っている間のことを代わってくれているらしかった。この時間の跳躍は翌日も翌々日も続いた。男が跳躍した時間の中でのことを知る方法は成果物を見るしかなかったがそれを見る限り、少なくとも今まで通りかそれ以上にうまくやっているらしかった。

 それ以来、あの”何か”は男が苦難に直面するたび夜闇の夢とともに現れ、苦痛の原因を代わった。同時に、しがらみから抜け出した男の人生も上向きだした。嫌なことは”何か”が、それ以外は男が分担する。そんな生活を続けるうちいくらかの時間が経った。男は若くして成功者と呼ばれる存在になった。


 その日も男は苦難に直面していた。男が”何か”に代わってもらうハードルはあの日以来下がり続け、男の主観においては常に遊んで過ごしているも同然になっていた。その割、その日の男は真剣な面持ちで夜闇の夢を訪れた。

 「お久しぶりです。今回はどういたしました?そんなに真剣な面持ちでこの夢を訪れていただいたことは久しくなかったように思うのですが」

 相変わらず夢の中は一筋の光もない夜闇の様相だった。

 「ああ、こんなに苦しいのは久しぶりだ。初めて代わってもらった時以来か、それ以上かもしれない。」

 男は長い付き合いの中で”何か”を強く信頼するようになっていた。

 「俺のものにしたいひとがいるんだ。生まれてこの方、恋の病とか恋情に身を焦がすなんてことは物語の中の話で、現実でそういうこと言っている連中は自分に酔っている馬鹿か、さもなければ性欲に頭を乗っ取られたひどくさもしい奴だと思っていた。ところがどうだ、稲妻に撃たれたような恋ってやつは確かに存在したんだ。何としても手に入れたい」

 「でしたら早くそう言ったらいいじゃありませんか。あなたの見てくれが人間の中でどれほどかはよく知りませんが、収入とか地位とかそういうものでいえば10000人に1人でも利かないでしょう。既婚者だって十分略奪できる」

 「あのひとはそういうんじゃないんだ。俺のそういう部分で色眼鏡をかけずに見てくれるんだ。もちろんそれは加点要素として使うしあらゆる投資も惜しまない。深い仲になれば離れられなくできる自信もある。だが何せそういうものを毛嫌いして遠ざけてきた俺だ。仲良くなり方が分からない。少なくとも、こんなに恋情なりなんなりで正気じゃない俺よりあんたのがうまくやってくれると思う」

 「......事情は分かりました。しかし結局、何が苦痛で何を代わればいいのかが微妙ですな。明確にしていただけるとありがたい」

 「わかった。この胸の痛みが苦痛で、この感情がなくなるまであのひととのことを代わってくれ」

 「承りました。確かに代行いたしましょう」

 男は長い付き合いで初めて”何か”が笑っているような気がした。意識が離れていく。


 目が覚める。そこはまたあの夜闇の夢の中だった。いつもの夢と違うのは明るさ。今回の夢ではほんの少しだけ明るかった。上を見れば一番星だろうか、一つだけ星明りがあった。男は視線を下げる。自らの手が目に入った。明らかに人間の物ではない、邪悪な手だった。闇の中、すぐ後ろから足音がした。振り返り、男は初めて”何か”の姿を認めた。瞬間、男は直感した。今までの”何か”の献身と今日の成功が一般に甘言と呼ばれるものであることを。”何か”は黒く、邪悪な、悪魔としか言いようのない姿をしていた。悪魔が口を開いた。

 「昨日ぶりですね。あなたにとってはほとんど時間が経っていないかもしれませんが、ええ、確かに昨日ぶりです」

 「言いたいことはいろいろあるが、......少なくない部分でその姿が答えだな。今になって姿を見せたのはなぜだ」

 「まあ、ありていに言えば勝利宣言ですかね。あなたが依頼してきた感情は愛情で、あなたが執心だった女はちゃんとあなたに気がありましたよ。これから死ぬまでその感情が消えることはないでしょう。安心してください。私があなたに代わって、ちゃんとあしらいますから」

 男が蹲る。嗚咽がしばらく続いた。

 「こんなことなら、クソッ、後悔や悔しさばかり思い返されるのに言葉にならない。悪魔の代償は死後の魂だと思っていたんだが」

 「すべての契約がそうではないという話です。私の場合、魂も範疇ですが主眼は現世の人生と後悔。あなたは私に頼ることなく自分で戦えばよかったのです。そうすれば昨日までのように愛した女と遊んで過ごせた。あなたの弱さが悪い。ただあなたが悪いのです」

 男が横たわる。どうやらあらゆる未練を諦めている最中のようだった。苦痛から逃げ続けてきた結果のあまりに脆弱な最期だった。男と悪魔はお互いに無言で数か月もの間そうしていた。男が悪魔に声をかけた。男は泣きながら笑っていた。

 「なあ、悪魔。俺とお前の仲だろう。最後に、最期に一つだけ、また代わってくれないか」

 悪魔が邪悪な笑みとともに応える。

 「良いですとも。何を代わって差し上げましょうか。と言っても、もう代われるものなど一つしかないようですが」

 「ああ。......最期に、夜を。終わらない、この永遠の夜を代わってくれ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夜の契約 驢垂 葉榕 @8593

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

参加中のコンテスト・自主企画