泉の女神

鈴女亜生《スズメアオ》

泉の女神

 川に斧を落としてしまった樵の前にヘルメスが現れて――というのは有名な童話の話だ。ヘルメスは樵に金の斧や銀の斧を見せ、落とした斧はこれであるかと聞いてくるが、樵は正直に違うと答えた結果、落とした斧と一緒にそれらの斧を手渡される、というあらすじである。


 正直に生きることの素晴らしさを説いた話なのだが、その話に非常に似た噂が俺の近所で立っていた。


 それが山奥にある泉の中には女神様がいて、そこに物を落としてしまったことを正直に伝えると、どんなに古いものでも新品に変えてくれたり、どんな安物でも高級品に変えてくれたりする、というものだ。


 真偽のところは不明だが、あくまで噂と考えるべきだろう。俺の周りでも、この話を本気で信じている人はいなかった。


 ――が、それも昨日までのことだ。今日、あることが起きたことで、俺はその噂を信じる必要に駆られた。


 その原因となったのが、父親の大切にしていたギターだった。


 このギターについて、詳しい話を知っているわけではない。ただ本人が語っていたことを断片的に繋ぎ合わせると、学生の頃に尊敬していた人から譲り受けたものであることは何となく分かった。


 父親がギターを弾いているところは見たことがないが、そこには実際に弾けるということ以上の思い出が含まれているのだろう。それくらいのことは何も知らない俺にも伝わってきた。


 そのギターがどうしたのかというと、端的に言ってしまえば、俺はそのギターを壊してしまっていた。ネックの部分が折れ、辛うじて、弦が繋ぎ止めている状態だ。


 もちろん、壊したくて壊したわけではない。これは不慮の事故だ。父親の部屋に置いてあるコレクションを拝借しようとしたら、部屋の外から物音が聞こえ、母親に見つかってしまうと焦った結果がこれだった。

 物音は立てかけているフローリングワイパーが倒れただけだったので、その点は良かったのだが、ギターのネックが折れたことは何も良くはなかった。


 父親が大切にしていたギターだ。不慮の事故とはいえ、壊してしまったことで何を言われるか分かったものではない。何とかしなければいけないと考え、咄嗟に俺が取った行動は瞬間接着剤を使うことだった。


 折れたネックの断面に塗りつけ、両手で左右から一切ぶれることのないように、細心の注意を払いながら、断面をくっつけていく。


 その状態のまま、数分は動きを止めていた。ゆっくりと手を放していくと、ギターのネックは何もなかったようにくっついている。

 一旦はくっついた。そうは思ったが、これで問題が解決したとは思えなかった。確かに今はくっついているが、接着剤にそこまでの信頼は置けない。


 父親があのギターを触っているかどうかは分からないが、触った瞬間に壊れるなどということがあれば、どのような事態になるか分かったものではない。一度、接着剤でくっつけてしまったから尚更だ。正直に話していた方が、まだ被害としてはマシだった可能性すらある。


 何としてでも、元に戻さなければいけない。あるいは同じギターを用意する必要があるかと考え、そこでふと思い出したものが泉に関する噂だった。


 真偽のほどは不明だ。というか、あくまで噂で、実際にそういうことがあるとは思うべきではない。

 それは分かっているが、今の俺にはそれくらいしか頼るものがないことも事実だった。どれだけ怪しい噂でも、それが本当である可能性に賭けるしかない。


 そう考えた俺は件の泉を訪れ、噂が正しいかどうかの確認をしようと思った。


 最初からギターを放り込み、噂が噂だった時は本当に取り返しがつかない。そうならないように最初は別の物を変えてもらう必要があるだろうと思い、泉に落としても問題のないよう、古着を一着持って、俺は件の泉のある山奥に向かった。


 山奥とは言っているが、そこまでの道は一応、作られている。獣道よりはマシなくらいの道だが、それでも、迷わないという点は非常に良かった。

 目的の泉までは片道一時間弱かかった。想定よりも遠いとは思ったが、噂が本当であるなら気にならない距離だ。


 できれば本当であってくれと、限りなく薄い可能性に祈りながら、俺は泉に近づこうとする。


 そこで泉の近くに一人の女性が立っていることに気づいた。その姿を見つけ、泉に近づこうとしていた俺は思わず立ち止まっていた。


 それほどまでに、その人は綺麗だった。


 肌は透き通ったように美しく、身にまとっている白いワンピースは一切の汚れが見て取れないものだった。長く伸びた髪は艶々と光を反射し、どこか美しい湖の湖面を眺めているような気分にすらなった。


 その人がゆっくりと泉の中に足を踏み入れていた。思わず引き止めようと声をかけようとするが、その時には泉の中に姿が消え、俺は愕然とする。


 同時に、俺はあの噂が真実であることを理解し、持ってきた古着を力強く握り締めていた。これを投げるまでもない。今の光景こそが、噂の正しさを証明しているではないか。


 そう思った俺はすぐに引き返し、再び家に戻ってくると、持ち出した古着を部屋の片隅に投げ捨て、壊してしまった父親のギターを担いで、再び山を登っていた。


 新品――という必要はない。せめて、壊れる前くらいに戻してくれたら、それでいい。そこまでうまく行くか分からないが、今の無理矢理にくっつけた状態よりはマシだろう。


 そう思いながら、俺は再び片道一時間弱の道を突き進んだ。既に二時間以上の時間を消費したことになるが、意外にも身体は疲れていなかった。


 目的の泉の近くまで辿りつくと、そこで俺は持ってきたギターを掲げ、心の中で祈りを捧げる。


「女神様、お願いします」と心の中で呟いてから、ギターを泉の中に放り投げた。


 そのまま、しばらく待った。何の反応がないことに不安になりながら、ゆっくりと泉の底を覗き込んでしまう。


 そこまで深い泉ではないはずだが、投げ込んだギターは見当たらない。どこに行ったのかと思い、更に身を乗り出しかけた、その時だった。


 不意に水面が膨れ上がり、そこから、ゆっくりと人の形が浮かび上がった。その様子を呆然と見つめる俺の前に、見覚えのある姿が浮かび上がっていく。


 泉の前で目撃した女性だ。その人が立っていた。


 本当に出てきた、と喜ぶ俺の前で、女性はゆっくりと手を上げる。その中には、俺の投げ込んだギターが抱かれている。


 その様子に女性の言葉を待ちながら、ふと俺は疑問に思う。


 どうして、俺の投げ込んだギターを持っているのだろうか? こういう時は普通、違うギターを持っているのではないか?


 そう思った俺の前で、泉の女神様がゆっくりと口を開いた。


「これは貴方のですか?」

「えっ?」


 思わず聞き返した俺に向かって、女性は手に持ったギターを振り被っていた。

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泉の女神 鈴女亜生《スズメアオ》 @Suzume_to_Ao

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