寺の娘が聞いたもの

天恵月

賽銭泥棒

 何年前か忘れたが、ある秋の夜のことだった。母の大きなベッドで寝ていると、突然外の鈴虫の声がふっと途絶えたのだった。

 その異変に気付いた母親は言った。「また泥棒が来たのね」と、他愛のない声色で。

 私の実家はそれなりに名のある寺だった。私が登下校するたびに近所に住むお檀家の方々が「娘さん、こんにちは!」とか「住職、腰やったんだって?」とか声をかけてくださるほどだった。引っ込み思案な私は正直鬱陶しいと思うこともあったが、住職である父親が地元の人に愛されているのは嬉しかった。

 そんな有難い方々のおかげ様で我が家はかなり潤っていた。ほとんどが本堂や蔵の修理にあてられるので裕福だと胸を張れるわけではないが、生活にゆとりがあるだけでもかなり恵まれている方だと思う。

 だからだろうか。私はよく家で泥棒の話を聞いた。

 泥棒といっても賽銭泥棒だ。

 私は寺の家計を知らないが、恐らく賽銭箱に大した額は入っていないのであろう。親が本気で賽銭泥棒を捕まえようとするのを私は見たことがない。それどころか近くの道路を走っているときに、

「あ、あれうちに来る賽銭泥棒だよ。棒の先に鳥餅付けてら」

なんてことを平気で言う。

 ここまであっけらかんとされると、泥棒に盗まれるのもある種仏様のお導きであり、自然なことのように思えてくる。「働かねば、稼がねば」という空気が蔓延する現代社会に身を置いている側からすると、なんとも気の抜ける話だ。

 とはいえ賽銭箱の中身の回収をちゃんとできるときもあるらしく、「小銭ばかりで重いし、汚すぎて銀行の行員さんをいつもびっくりさせちゃう」と愚痴を溢しているのも聞いたことがある。初詣に人が大勢参るような寺社仏閣はさぞ大変だろうとしみじみ思われる。

 我が家の汚い賽銭箱にとっては毎度愚痴を言われながら小銭を回収されるよりも、盗みという手段に訴えざるを得ない人々の助けになる方がよほど本望なのではないかと思いながら、一人暮らしの身となった私は今日も戸締りをするのであった。

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