第15話

「完全に見失ったどこだあいつは?」


 私は焦っていた。時間が経つにつれて女の顔や風格などがどんどん忘却していく。そのうち存在すらも潜在意識の中から消え去ってしまう気がする。それにしてもあいつは何だったのだろうか、地下鉄の階段の手前、中途半端に伸びる屋根のある部分に足を踏み入れたところで、私は一度傘を畳んだ。


「ちょっとそこのあんた!」


「えっ、あっ私か」


 突然甲高い声で指をさされたものだから私は思わず人差し指で顔をさし地獄の獄卒に似合わぬ言動をしてしまった。


「あんたよ‼ あんたどうしてくれんのこのスーツお気に入りなのよ」


 どうやら傘についた水滴を払おうと傘をふるったとき思いのほか大粒の水しぶきが飛んで彼女のスーツにかかってしまったようだ。


「すまない、考え事をしていて……」


「はぁ! あんた人の服を汚しといて何を考えてたって言うのよ!」


「何を考えてったって、あれ?」


 はて、私は何を考えていたのだろうか、うーんと唸りながら私は自分の顎をさすり何を考えていたかを真剣に考えていた。


「しらばっくれんじゃないわよ! 弁償よ弁償」


 彼女は目を見開いて自分の着ているスーツを私に向けて引っ張り汚れた部分を見せつけてきた。たしかに浮世で使われる五百円硬貨ほどの大きさの泥が付着している。


「あぁごめん」


「ごめんってそれだけなの?」


「あぁわかったわかった弁償はあれだけど、クリーニング代は出すから」


 私は彼女に対してだいぶ参っていた。まして彼女の怒りは収まりそうもない。まったくこれしきの事で頭に血が上るとは現代の人間はカルシウムが足りていないのだろう。とにかくはやくここから立ち去りたい。


「じゃあお金はあとで払うから」


「待って!」


「今度はなんだ?」


「その言い過ぎたわ、ごめんなさい私いらいらしてて……」


 急に別人のようにしおらしくなった彼女は怒る権利を放棄し、それ以上に戸惑っている様子だった。


「別にいいって」


 そのまま階段を降りて行こうとしたが彼女は慌てて私の前に立ち塞がった。


「それじゃあ私の気が済まないわ、お詫びをさせてほしいの最近できた感じのいいカフェがあるから奢らせて」


 意外な提案に私は完全に虚を突かれた。

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