バタフライ・エーテル

駿河一

バタフライ・エーテル

 廊下の向こうに扉が見える。

 その扉は触れずして開き、ビルと砂漠の箱庭の中へ一羽の蝶が迷い込む。

 箱庭の娘は蝶を見上げ、静かになげいた。


 あなたはだれ。

「ぼくは《エーテル》」


 蝶は赤毛の獣となり、砂漠の町に舞い降りた。



《 バタフライ・エーテル 》



「エーテル?」

「ああ。変わった名前だろう?意味は好きな

ように捉えてくれ」

 赤毛のエーテルは箱庭の娘にそっけなく答え、砂漠に突き刺さるビルの一つに手を添えた。

「しかしずいぶん退屈な所だね、ここは。鉄柱と砂しかないじゃないか。こんな寂れた場所が好きなのか?」

「……」

 娘からの返答はない。

 気を悪くするつもりで言ったのだから、文句の一つでも返ってくると思っていたのだが。

「それとも、好きでもないのにこんな場所に?」

「……知らないわよ」

 絞り出すような娘の言葉に、足元の砂がザワッと波打つ。

「大体あなただれなの。そんな姿、私あなたなんて知らないのよ!」

「そうだろうさ。ぼくだって君を知らない」

 エーテルは叫ぶ娘を冷ややかに見つめながら、流砂に飲まれる足を荒々しく引っ張り上げ、淡々と言い聞かせる。

「でも、きみはぼくの世界に勝手に入ってきて、しかもこんなつまらない箱庭まで作って閉じこもっているんだ。はっきり言って迷惑なんだよ」

「なっ……なによ、それ……」

 迷惑。

「迷惑って何よ!私だって何も知らないのに!」

 この一言に、娘の顔が酸をかけられたように醜くただれて崩れ出す。砂漠のうねりは激しさを増し、突き刺さった無数のビルも流砂に飲まれてどんどん沈んでいく。

 そして。

「私のことなんて何も知らないくせに、知った風なことを言わないでっ!」

 箱庭の床はまるで舞台仕掛けのように真っ二つに割れ、ビルや砂漠もろとも、すべてを奈落の底へと押し流してしまった。

「……何も知らないくせに、か」

 こんなやり取りはいつものことだと、エーテルは空になった奈落の底にふわりと足をついた。

 この世界に箱庭を作り、その中に閉じこもる人間たちの言葉はいつも同じだった。でも、彼ら自身もその言葉が甘えだということをわかっているから、箱庭には必ず《非常口》のレイアウトが存在する。

 ぼくの役目はその非常口を探り、彼らの心の内を探る事だ。

「さて、始めよう。イクサ」

 ぼくは胸元の蝶のブローチ《バタフライ・イクサ》を外し、足元に投げ落とす。すると、イクサは「カツン」と固い音を立てて何かにぶつかり、その直後、空間の四方をコンクリートの壁に囲われ、階段で降りるだけのスペースしか存在しない、息がつまりそうな縦穴の空間へと辺りが変貌した。

 おおよそ一人しか逃れられないであろう、何もかもがコンクリートで塗り固められたこの非常階段が、どうやら彼女にとってのレイアウトらしい。

「なるほど。これを下れと言うことか」

 エーテルの言葉にコンクリートが震える。

 直後、踏み出そうとした階段がバラバラと崩れさり、まるでエーテルを拒むように、非常階段がただの縦穴へと成り果ててしまう。

 しかし、それでエーテルが止まることはなかった。奈落の縦穴と知りながら、一歩、その足を前へと差し出す。

「……おや。さっきまであんなだったのに、今度はずいぶんと素直じゃないか」

 だが、エーテルの足は縦穴の中に。いや、正しくは《縦穴のトリックアート》の上についていた。階段が落ち、底なしの穴のように見えたのは、このトリックアートの床が見せた幻の景色だった。

「わざわざ階段に見せかけるなんて。本当にぼくがいやなら、このまま落とせばよかったろう?」

「……だって、そんなことしたら……死んでしまうから」

 エーテルの背後から聞こえてくる娘の声はひどく震え、さっきまでの叫び声が嘘のように弱々しかった。

 だから、エーテルは一度大きく息を吸い込んで、自分の知っている限りの優しい声で聞いた。

「それは実体験?」

「……」


          ☓


 いつもの帰り道には、高くて長い橋がある。

 橋の下には深い川が流れていて、いい子は柵を越えて身を乗り出しちゃダメって看板がある。でも、看板には文字が書いてあるだけ。どんなに悪い子でも、その手を引いて引き戻してなんてくれないの。

 だから、そんな悪い子はだれも見てないの。

 パパもママも、そんな悪い子は見てないの。

 だからいなくなっても、だれも私を見てないの。

 ちょっと手が滑っても、だれも私を見てないの。


 ああ。なんだか今日は、とってもきれいに空が見える。


「……私、両親が嫌いだった。偏差値のことしか頭になくて、友達ができても遊ばせてくれなかった。行きたくもない進学塾に通わされて、行きたくもない大学に決められて。イヤだって言ったら、人が変わったみたいに怒鳴りだすの」

 娘は風のそよぐ橋の上で、空を眺めて溺れる自分の姿を見下ろしていた。

「……で、感想はどうだ。ここには、その両親

とやらはいないだろう?」

 そんな娘のそばに立ち、内心意地悪だなと思いつつエーテルは言葉を紡ぐ。だが、娘は首をふるふると横に振り、完全に水底に沈んだ自分のことを、自分自身の頭を前に向けることで見限っていた。

「……あなたと出会うずっと前から箱庭を作って、その時からわかっていたの。両親がいないこの場所で私の中から出てきたものが、私の大嫌いなこの町だった。何度壊しても。どれだけ作り変えても。結局どこへ行っても、私は私自身から逃れられないのね。……大嫌いな私の両親が、私のパパとママだなんて……」

 娘は柵に手をかけ、一度はやってみせたように、足を向こう側へと運んでいく。

「あんな両親から生まれた私なんて大嫌い。そんな私のとった行動も大嫌い。だから私、もう大嫌いな自分でいたくない」

「そのために、またそこから飛ぶのか」

「……ええ」

 娘は柵の反対側に立ち、まるで船首像のように両腕で体を支えていた。

「……止めてくれないのね」

「ああ」

 エーテルは振り返らない娘のすぐそばで、しっかりと聞こえる声で答えた。

「でも、最後まで見届けるよ。きみの選択を」

「……ありがとう、エーテル」

 娘の両手は解き放たれ、青空の下で自由となった。


          ☓


 あの日、私は投身自殺を図った。

 でも、その時偶然近くを通りがかった友達が私のことを見つけてくれて、次に目が覚めた時には病院のベッドの上だった。

 担当のお医者さんによれば、再び目を覚ますことができたのは奇跡であったそう。そのことを、ずっと一緒にいてくれた友達は、まるで自分のことのように泣いて喜んでくれていた。

 まるで夢のようだった。

 生きていることが、本当に奇跡なんだって。そう思える自分のことが、ほんの少しだけ好きになれたのだもの。

 ……本当、夢のような話。

「夢、か……」

 あれから七年。

 社会人として図書館に務めるようになった今でも、彼の話はだれにもしていない。

 エーテル。

 彼とは、あれ以来一度も出会っていない。

 あの箱庭も、非常階段も、きっとすべては夢だったのだろうと思う。

 それでも何故か。私は時々、彼の気配を感じずにはいられないのだ。

 夢と現実が決して交わらないように。彼もまた、きっとどこにいるはずだと……。


ガタッ


「あっ」

 閉館前の最後の整理で、一冊の本が棚から抜け落ちた。

 本の題名は《胡蝶之夢》であった。

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バタフライ・エーテル 駿河一 @suruga-1ab

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