第8章 覚醒 4
常夏の島を後にした私は、旅の出発地でもあり終着地でもある島のすぐ近くまで戻って来ていた。
半年近くにわたった収容所内の巡回任務は3日後に終了する。
滞在している街は小規模ながらも街頭で日銭を稼ぐ音楽家や芸術家や曲芸師が多く見られ、周辺地域の活気づくりに一役買っていた。
街中に溢れる大概の音楽は平均律で奏でられている。
12音階にほぼ等しく分割された調律は非常に合理的だが、機械的に聴こえてしまうという負の側面を併せ持っている。
それだけではなく妙に急かされている感じがするのだ。
外の世界の楽器はすべて純正律に調律されている。
私には波動の揺らぎの差異が何となく分かる。
子供の頃から慣れ親しんできた周波数とは違うからだろう。
人気がまばらな裏通りを歩いていると平均律とは異なる音楽が聴こえてきた。
音に惹きつけられ演奏者の前までくると、一見浮浪者と見間違えそうな風貌の男が筒状にくり抜かれた細長い天然木を法螺貝のように吹き上げていた。
白髪混じりの髪と髭は伸び放題で着ている服は穴だらけだ。
おまけにあちこち布地が擦り切れており、夏でもないのに素足でビーチサンダルを履いていた。
脳髄に直接働きかける獣の咆哮のような重低音は、目を閉じるとまるで太古の森の中に身を置いているかのような錯覚をもたらした。
歩道の縁石に座り、心地良いグルーヴ感に酔いしれながら30分以上も聴き入ってしまった。
その場から立ち去る前に3日後にはただの紙切れと成り果てる高額紙幣の束をバッグの中から取り出し、彼の目の前に置いてある小銭の入った段ボール箱に差し入れた。
それを見た彼は真っ黒い顔の中の真っ白い両目を大きく見開き、満面の笑顔で握手を求め、私に深々と頭を下げ感謝の意を表した。
私も彼に礼を述べ、原始的な音の余波を背中で感じながらホテルへの帰途についた。
川沿いに面したホテルの部屋の窓から川面にたゆたう満月を眺めつつ、半年ぶりに帰る故郷について思いを巡らせていると、ある疑念が頭の中に芽生えた。
それは、外の世界の外側には私の知らない別の世界が存在するのではないか、
という突拍子もない憶測だった。
収容所の周りをぐるっと取り囲むドーナツの輪のような私の故郷。
リング(輪)の幅が1万キロメートル程あり、外縁の外側には(未開の地)と呼ばれるエリアが広がっている。
そこには誰も行ったことはない。
健全な生態系や野生動物の生息地を保持するといった名目で不可侵領域とされているからだ……。
疑惑の衣を纏った血流が脳内を駆け巡り出し、
上層部の人間は私たちの行動を監視するために未開の地から送り込まれた密使なのではないか……、
北方地域で見た民族人形のマトリョーシカのように、無限に外側の世界が続いているのではないか……、
太陽が幾つもある世界があるのではないか……、
複雑怪奇な迷路のような曼荼羅の森があるのではないか……、
人知れぬ百花繚乱の園があるのではないか……、
時間と空間を超越した破茶滅茶な世界が存在しているのではないか……、
人間ではない知的生命体が存在しているのではないか……、
本当のことは何一つ知らされていないのではないか……、
私たちも洗脳されているのではないか……、
本当は宇宙は存在し、ここは青い惑星なのではないか……、
などと次第に妄想が膨らみ始め、静かに旅の余韻に浸るどころではなくなってしまったのだ。
自問を繰り返してはみるものの、左の脳は敢えなく答えに行き詰まり、右の脳は相変わらずのだんまりを決め込んでいた。
飲み慣れない純度の高いアルコールで気を鎮めようと試みるも、まったく効果が得られず却って意識は冴え渡り、部屋の中をぐるぐると歩き回った。
結局寝つけず、諦めて窓外の雀のさえずりを聞きながら帰郷後の自分の姿を空想する。
探究心と好奇心と冒険心が飽和点に達し、居ても立ってもいられなくなった彼女は沸き出る衝動を抑えることができない。
地の果ての世界をこの目で確かめてみたい、
と、一心に思い焦がれ、
「それならそこへ行くしかない、ただそれだけの事だ」
と、あっさりと言い放つ。
急上昇し続ける熱量の微調整はもはや効かなくなっている。
この事は家族にも絶対に話してはならない……、
この一件に限っては身内ほど危険な者はいない……、
教育マニュアルで晒し者にされている看守と同じ羽目になりかねない……、
完全に個人行動に徹しなければならない……、
そう何度も念を押し、真剣な眼差しで彼方まで続く大平原を見渡す。
彼女の意志は固い。
もう誰にも止めることはできない。
彼女は大きめのリュックサックに必要最低限のものを詰め込み、見納めになるかも知れない生まれ育った生家を慈しむように見ている。
意を決して踵を返すと、彼女は家の裏手にあるガレージへ足早に向かう。
そこには長距離移動ができるリニアカーがある。
彼女は運転席に乗り込み起動装置をONにした。
宙に浮くことができる流線形の乗り物は音も無しにスーッ動き出し、彼女と共に地平線の彼方に消えていった。
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