第7話



「すいません、すいません」と慌てふためく光里ひかりをよそに、光莉ひかりではない女性は「店員呼びますね」と言ってテキパキ処理をしていく。

店員も来て片づけが落ち着いた頃、「どうぞ」と新しいコーヒーを買ってきてくれた。

何もかもしてもらって、大人として恥ずかしい。


「いえいえ、こういうのには慣れてるし、私がびっくりさせちゃったから」

そういってにこっと笑うと、歳は重ねているものの、綺麗で可愛らしい人だ。

「あ、ありがとうございます」

温かいコーヒーの入ったカップを手で包み込むと、少し落ち着いてきた。

「あ、あの、光莉さんではないというのは・・・」


「あ、そうだった」

コーヒーを一口飲むと、「私は光莉の母親なんです」とうつむきながら言った。


「光莉は私の娘で、今年で23歳になります」


やはりあの見かけた後ろ姿の女性がきっと光莉だったのだ。


「・・・実は、光莉は入院してて、隣に病院があるでしょう?そこにいるのよ」


そういえば、この図書館は病院の隣にある。

たまにパジャマのような部屋着のような格好で来ている人も見かけるが、きっと病院から抜け出してきていたのだろう。


「入院・・・ってことはどこかお悪いんですか?」


「えぇ。子供の頃からずっと・・・入院してるのよ」


なんと言っていいかわからない。

光里はどう声をかけるべきかわからず、コーヒーを啜った。


「いきなりこんなこと言われても困っちゃうよね・・ごめんなさいね」


「いや、そんなことは。びっくりはしましたけど」


「・・・ありがとう」

母親は、コーヒーカップを両手で包み込み、コーヒーを見た。


「光莉が小さい頃、よく飲みたがってたのよね、コーヒー」


「コーヒーを?」


「えぇ。パパとママが飲んでいるから美味しいんだろうと言ってね。もちろん、私たちは止めたけど、あとでこっそり残っているのを見つけて飲んで、苦いって大泣きしてたわ」


当時のことを思い出しているのか、母親は嬉しそうな表情をしている。


「あの、光莉さんってどんな子なんですか?」


「そうねぇ・・・光莉は、4200グラムで生まれたビッグベビーでね、本当に元気な女の子だった。いつも踊ったり、歌ったりして、本当に明るくてねぇ。あとで生まれた妹にも優しくて、いつもニコニコしているような子だった。七夕にも家族の健康を願っちゃうような子で、本当に私達にはもったいないくらいのいい子で・・・」


そこで言葉が切れた。

辛そうな表情に光里の胸も少し苦しくなる。


「あの子に病気が見つかったのは、来月から小学生になるって時だった。医者から話を聞いた時は頭が真っ白になって、私は絶望して泣いてばかりで・・・、なのに当の本人の光莉は本当に明るくて、入院して1週間も経たないうちに看護師さんや同じ部屋で入院している子みんなと友達になってました。入院中にお友達ができたのも嬉しかったみたいで、まるお泊り保育みたいだってすごく楽しそうにしてたんですけど―」


母親はすぅっと息を吸った。


「1年ほど経ったところに、友達を亡くしてしまったんです・・・。そこから光莉は死ぬことを怖がるようになって、友達も看護師さんもいなくなってしまうんじゃないか、自分も死ぬんじゃないかと精神が不安定になってしまって、明るさも失ってしまって・・・。それでも治療は待ったなしだから、光莉の気持ちが癒えることはないまま、苦しい治療が続きました。でもその甲斐もあって、中学校に上がった頃には、退院の話も出るようになって、明るくなってきて、これでまた元の光莉に戻って、あの幸せな日々が戻ってくると私もすごく嬉しかった・・・。そして本当に退院して、それから数か月後には学校にも通うようになって。これでもう大丈夫、そう信じてたんだけど・・・。でもまた半年もしないうちに・・・再発してしまって・・・」


母親の頬に涙が伝う。


「ごめんなさいね・・・」


光里の胸まできゅっと締め付けられる。


「いえ、そんな・・・すいません。こんな話させてしまって」


「いえ、いいの。私が話したいのよ、光莉のこと聞いてほしい」


深呼吸をして少し落ち着くと、「そこで日向真理探偵シリーズに出会ったの」とにこっと笑った。


「再発での入院はかなり堪えたみたいだったけど、本を読み始めてから明るくなっていった。これまで出た本は全てあっという間に読んでしまって、何度も繰り返し繰り返し読んでいるのよ」


「確かにあの本は面白いですし、最後明るい温かな気持ちになれる話が多いですもんね」


「本当にそうね。私も読んだけど、面白かったわ」


静かな時が流れる。

カフェの外を歩く人が見える。

部屋着で歩いている人もいる。光莉と同じ、入院患者なのかもしれない。

意識しないと見えていないってことがあるのだなと光里は思った。


「それからも入院と退院を繰り返して、まともに学校生活を経験することなく成人してしまった。今ではあの子も病院を家と呼ぶようになってるくらい、色々我慢して受け入れてるみたいなんだけどね。・・・それでもやっぱり寂しかったんでしょうね。私や看護師さんの目を盗んで病院を抜け出していることに気づいたの」


子供みたいよねぇ、と母親は笑った。


「こっそりついていったら、この図書館だったのよ。そこで本に手紙を挟んでた。それをあなたが借りていった」


それがあのメモだったわけである。


「そうだったんですか」


「えぇ。あなたから返事がきたのはすぐにわかったわ。明らかに機嫌がよかったもの。単純なところは父親に似たのね。・・・嬉しそうな姿に何も言えなくてね。本当は病院を抜け出すなんてダメなんだけど、私は見て見ぬふりをしたのよ」


「じゃあ今日は・・・」というところまで言って、光里は言葉に詰まった。

もしかしたら―ということがあるからだ。


「あ、違う、違う。今も元気に入院してる。あ、元気でなんて変ね。実は抜け出したことが看護師さんにバレちゃってね、今日は代わりに借りてくるようにお願いされたのよ」


「・・・良かった」

思わず安堵のため息が出た。


「・・・やっぱりいい人なのねぇ、あなた」


「え?」


「手紙の相手が変なおっさんだったらと心配したんだけど、会おうとか言われている様子もないし、すごく返事も丁寧だったから。あの子にこっそり手紙を読んだことは許してね。それにさっき私の話を聞いている間、あなたも苦しそうだった・・いい人なんだなってすぐわかったわ」


「いやいや、俺なんて30超えたただのおっさんですよ」


「あら、そうなの?若くみえるわね。まぁ私からしたら、まだまだ若いけど」


「なんかおっさんが手紙とか出しちゃってすいません・・・」

光里が恥ずかしくて目を伏せると、「いやいや、こちらこそ、娘に返事を書いてくれてありがとう」と優しい声で光莉の母は言った。


「なんか今日は突然声をかけてしまって、驚かせてしまったと思うのだけど、これからも返事書いてやってもらえるかしら・・・あの子、すごく楽しみにしてるから」


「もちろん、書かせていただきます」


母親は去り際にまた「ありがとう」といって頭を下げて、病院へ戻っていった。


光莉はこの病院の中にどこかにいるのだなぁと思いながら、白い大きな建物を見上げた。

冷たい風が光里の頬を撫でた。

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