第4話 一色彩、女優開眼する

 このヌーヴェルヴァーグ映画ではカメラを固定して据えるのではなく、出来る限りカメラマンの手に持たせていた。

監督が言った。

「勿論ブレるし、途轍もなく可笑しな構図になって行くけれども、それで良いんだ。アヤ、今まで誰も撮ったことの無い映画を創ろう。女の心のブレと揺れと一緒にカメラも揺れる。素晴らしい映画になるよ」

 そして、ロケに入ってから、この映画には驚くほどに群衆ロケが多いことに彩は気付いた。

 東京の丸の内で怪訝な顔で人々に取り囲まれた。

裕一を追って走る彩、やがて彼の意志が固いことを知って絶望のあまり跪く。

「何だよ、この女!」

「一体どうしたんだ?」

立ち並ぶ屋台の前には女たちの群が在った。

本物の一色彩を見る晴れがましさと困惑とで女たちの表情は鈍いものになっていた。皆、照れたように笑っている。最新鋭のハンディカメラが追って行くが監督のOKが得られない。何度も撮り直しが続いた。

 東北青森でねぶた祭りのシーンを撮る時には、祭りの真只中へ彩の乗ったジャガーを乗り入れた。忽ちにして抗議の声が湧き起った。

「何してんだよォ、こいつ!」

「馬鹿か、この女!」

彩は批難の声を浴び、群衆に小突かれ、祭りの水もかけられた。

エキストラを雇ってはいたが、彼等の表情はその使命をとうに越えている。貌も本能的に歪んでいた。わたしは彼等に襲われるのではないか、そんな恐怖と水の冷たさに彩は今にも倒れそうになった。ふらふらと群衆の波を掻き分けて歩く彩を最新のハンディカメラが追って行く。

 彩に不思議なことが起こった。

ロケの恐怖に慄き乍ら撮影に挑む内に、台詞やアクションが自然に出るようになった。演じているのではなく、自然に台詞が口を吐いて出、身体が無意識のうちに動く。主人公の感情が彩の胸の内に湧き上がって溢れ出し、もはや、脚本の台詞ではなく彩自身の言葉が口から発せられアクションが自ずと生れ出た。やがて爽快感が込み上げて来た。彩が役者魂に眼覚め、演技者として開眼した一瞬だった。

数日後、彩が雨に濡れた街路を駆け抜ける重要なショットを何日もかけて撮影したことがあった。

「さあ、君の用意が出来次第撮るからな、アヤ」

「よし、もう一丁行こう、アヤ」

 そして、或る晩、二人は黄色いオープン・スポーツカーで京浜高速道路を飛ばしていた。咽び泣くように騒いでいる海を左手に見乍ら、二人は横浜を目指した。

海辺のレストランに着くとロブスターを食べ、監督が繰り返しジュークボックスでかけたブルースの曲に合わせてダンスをした。

「今回良く解ったよ。うちのスターたちの映画が大当たりしたのは、彼らの力だけじゃない。君が居たからだ。そんなことは皆、解っている筈だったのに、実は解って居なかった。どの映画もね、スターたちが主役のようでいて、実は主役は君だったんだ。俳優たちのアクションは、君の精を引き出す為の仕掛けだったんだな。君の美しさは映画の中では母性となって観ている男たちを癒し、祝福して行く。君の魅力は今までの日本の女優とはまるで違う。君の美しさと言うのはフランスの女優と同じで、乾いているんだ。僕は今度の映画で確信を持ったよ。君が居るならばまるっきり新しい映画が撮れる。今まで誰も見たことの無い映画を僕の手で創り出すことが出来るんだ、ってね」

そして、彼は言った。

「よし、アヤ、今夜は泊まって行こうじゃないか」

その時、彼は妻帯していたし、彼女にも恋人が居たのだったが・・・。

 この年の暮れ、一色彩はこの作品で日本アカデミー賞の主演女優賞を受賞し、彼女の代表作の一本となった。彼女はそれから後も嶋木監督作品の何本かに主演を果たしたが、その何れもが好評を博し、嶋木監督作品での一色彩は飛びっきり綺麗だとの専らの噂であった。毎日映画コンクール女優演技賞、キネマ旬報主演女優賞、日刊スポーツ映画大賞主演女優賞など数々の賞を受賞して名実ともに大女優の道を歩み始めたのだった。

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